第2話 買収提案書、魔王城に届く
街道が人間領と魔族領の境を越えた瞬間、空気が変わった。
比喩ではない。魔力濃度の差だと、旅の商人が教えてくれた。レイにとっては意味のない情報だった。魔力の濃淡など感じ取れない。それよりも目を引いたのは、街道脇に点在するテントの群れだった。
難民集落。数十張りの粗末な天幕の下に、魔族たちが身を寄せ合っている。角を持つ者、青い肌の者、尖った耳に獣の尾を持つ者。種族はばらばらだが、共通点が一つあった。
全員が痩せている。
レイは歩を緩めず、しかし視線は集落の細部を拾い続けた。天幕の素材は魔獣の皮——品質は悪くない。積み上げられた鉱石の欠片は魔石の未精製品だ。素材はあるのに換金できていない。典型的な流動性の罠だった。
集落の端で、老いた鬼族が銅貨を数えていた。その横に積まれた魔石の原石は、人間領の市場なら銀貨200枚の値がつく。だがここでは買い手がいない。ライゼン商会が交易路を独占し、彼らが設定する買取価格でしか換金できない構造だからだ。
——年間産出高の84%が中間搾取。
昨夜ヴェルデンの酒場で算出した数字が、いま目の前で肉体を持って立っている。
前世のレイ——九条嶺一なら、これを『社会問題』と呼んだだろう。投資銀行員のレイは別の単語を当てる。
市場の非効率性。
非効率な市場には、必ず裁定機会がある。搾取構造が生んだ価格の歪みは、正しく是正すれば莫大な利益を生む。同情で組織は救えないが、利益構造の再設計なら救える。
レイは難民集落を後にした。足取りに迷いはなかった。
***
魔王城は、想像より遥かに立派だった。
黒曜石を積み上げた城壁は高さ30メートルを超え、四隅の塔には魔力で燃える青い篝火が灯っている。前世で訪れたJPモルガンのマンハッタン本社ビルを思い出した。威圧の設計思想が同じだ。
だが城門前の衛兵の装備は、威容に見合っていなかった。革鎧は擦り切れ、槍の穂先は研ぎが甘い。補給が滞っている証拠だ。
「止まれ、人間」
牛頭の衛兵が槍を突きつけた。その背後からもう一人、蜥蜴の鱗を持つ兵士が回り込む。
「こんな時期に人間が一人で魔族領の奥地まで来るとは。間諜か」
「商人です」
「商人? ライゼン商会の犬か。ならば用はない。帰れ」
蜥蜴の兵士が、帰れと言いながら退路を塞いでいる。帰す気がないのは明白だった。
「ライゼン商会とは無関係です。独立した立場で、魔王軍の経営陣に事業提案があって参りました」
「経営陣?」
牛頭の衛兵が眉をひそめた。通じない用語を使った自覚はある。だが正確な言葉を選ぶ余裕は、槍の穂先が喉元3センチに迫った時点で消えた。
「間諜で確定だ。連行しろ」
両腕を掴まれ、城門の脇にある詰所に引きずり込まれた。石壁に背中を叩きつけられる。痛い。前世の過労死といい、今世の処刑未遂といい、身体的な苦痛に縁がありすぎる。
詰所には上官らしき鬼族の女性兵士がいた。腕を組み、冷めた目でレイを見下ろす。
「処分は」
「即刻処刑で」
「待ってください」
レイは声を張った。喉が乾いていたが、ピッチの冒頭で声が震えるのは致命的だ。投資銀行時代の習慣で、腹に力を入れる。
「魔王軍が現在抱えている債務超過——負債が資産の帳簿価格を上回っている状態です——を解消する具体的な提案があります。財務を管轄されている方に、5分だけ時間をいただきたい」
詰所が静まった。
鬼族の上官が、わずかに目を細めた。
「……債務超過、と言ったか」
「はい。正確には、キャッシュフローの構造的毀損による実質的な支払不能状態です。おそらく兵への給金も、直近3ヶ月は遅配が発生しているのではありませんか」
沈黙が答えだった。
上官は牛頭の衛兵に顎で指示を出した。
「フィーネ様に伝えろ。金勘定のわかる人間が来た、と」
***
待たされること2時間。
詰所の硬い椅子に座らされたまま、レイは頭の中で数字を整理し続けた。魔王軍の財務諸表は存在しないだろうが、断片的な情報から再構成することはできる。ヴェルデンで集めたデータ、道中の観察、衛兵の装備状態。すべてが変数だ。
石の廊下を歩く足音が近づいた。規則的で、無駄がない。
現れたのは、銀髪を短く切り揃えた魔族の女性だった。細い銀縁の眼鏡をかけ、腕には分厚い帳簿を抱えている。レイと同じ匂いがした——数字で世界を見る人間の匂いだ。
「フィーネ・アルヴェスト。魔王軍の財務記録を管理しています。あなたが『債務超過』と言った人間ですね」
彼女の声は平坦で、感情の温度が低い。だが『債務超過』という単語を正確に発音した。この世界にその概念を理解できる人間がいるとは思っていなかった。
「レイ・クジョウと申します。フィーネ殿、単刀直入に伺います。魔王軍の歳入に占める魔石の売却収入の比率は、何割ですか」
フィーネの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……なぜそれを」
「推測です。ただし、根拠のある推測を述べさせていただければ」
レイは椅子から身を乗り出した。手元に資料はない。すべて頭の中だ。
「魔族領の主要産出品目は魔石、ミスリル鉱、希少薬草、魔獣素材の四種。このうち最も取引量が多く、かつライゼン商会の買取価格設定の影響を直接受けるのが魔石です。魔族領全体の年間魔石産出量を、鉱脈の規模と労働人口から概算すると金貨換算で約8万枚相当。しかしライゼン商会の買取価格は市場適正価格の16%程度に抑えられている。つまり実際の売却収入は金貨約1万3000枚」
フィーネの表情が、初めて動いた。
「……続けてください」
「ここに徴税収入と通行税を加えても、歳入の天井は金貨2万枚を超えない。一方、軍の維持費——兵の給金、装備の補修、城の維持——を最低限で見積もっても年間金貨2万5000枚は必要です。年間の資金不足は最低5000枚。この赤字が何年続いているかにもよりますが、累積債務は金貨3万枚を超えているのではありませんか」
沈黙。
フィーネは眼鏡の位置を直した。その指先がわずかに震えていた。
「3万2000枚です」
答えた、とレイは思った。財務の機密情報を、会って5分の人間に。それが意味するのは、フィーネがそれほど追い詰められているということだ。数字のわかる人間が、組織の中に一人もいない孤独。レイには痛いほどわかる。
「フィーネ殿。私はこの状況を解決する具体的なスキームを持っています。しかしそれは財務官殿にだけお伝えすべき内容ではありません」
「魔王陛下への謁見を求めている、と?」
「はい」
フィーネは帳簿を胸に抱え直した。長い沈黙の後、彼女は言った。
「条件があります。陛下の前で無礼を働けば、私が直接あなたを処刑します。それでよければ」
「望むところです。プレゼンの場で無礼を働くほど無能ではないつもりです」
フィーネの唇が、ほんの一瞬だけ緩んだ。笑ったのかもしれない。
***
魔王の玉座の間は、薄暗く、広く、そして寒かった。
黒曜石の柱が左右に並び、奥に据えられた玉座には一人の人影が座っている。レイの想像していた『魔王』とは違った。巨躯の怪物ではない。白銀の髪に紫の瞳を持つ、見た目は20代半ばの青年だ。ただし、その存在感は玉座の間全体を圧していた。空気が重い。魔力という概念がわからないレイにも、それだけは肌で感じ取れた。
玉座の左右に、武装した近衛兵が10名。その最前列に、一際大きな影があった。身長2メートルを優に超える赤い肌の鬼族——四天王筆頭、ドラグ・バルトロスだろうとレイは推測した。ヴェルデンで聞いた容貌の特徴と一致する。
「——人間の商人が、魔王に用があると?」
ヴァルナキアの声は低く、静かだった。怒号より恐ろしい種類の静けさだ。
「用と言うか、提案です、陛下」
レイは一礼した。そして懐から羊皮紙の束を取り出した。ヴェルデンの宿で一晩かけてまとめたものだ。
ドラグが即座に動いた。地を蹴る音すらなく、レイの眼前に立ちはだかる。
「武器か」
「提案書です」
「ふざけるな。魔王の御前で何を——」
「ドラグ」
ヴァルナキアが片手を上げた。それだけで、鬼族の将軍が静止する。
「見せてみろ」
レイは羊皮紙の束をドラグに渡した。ドラグは中身を一瞥し、理解を放棄した顔で玉座に届けた。
ヴァルナキアが最初の一枚を開く。レイは口を開いた。ここからが本番だ。
「陛下。率直に申し上げます。魔王軍の推定企業価値——保有する資源、領土、労働力、軍事力を資産として評価した総額は、私の試算で金貨120万枚です」
玉座の間がざわついた。近衛兵たちが顔を見合わせる。ドラグが鼻を鳴らした。
「だが」とレイは続けた。「現在の魔王軍の市場評価——外部からの実質的な評価額——は、金貨3万枚以下です。保有資産の40分の1。この乖離の原因は三つ。交易路の独占による収益構造の毀損、金融インフラの不在による資産の流動性欠如、そして——失礼を承知で申し上げますが——経営戦略の不在です」
空気が凍った。ドラグの目が殺意を帯びる。だがレイは玉座のヴァルナキアだけを見ていた。
魔王は、提案書の二枚目をめくっていた。
「……続けろ」
「ありがとうございます。私の提案は単純です。魔王軍を一つの事業体として再構築する。交易路の独占を迂回する新たな流通網の構築、魔族領の資源を適正価格で市場に出すための商会の設立、そして——」
レイは一呼吸置いた。
「——魔王軍連合体の友好的買収。私を経営パートナーとして迎え入れていただきたい」
沈黙が降りた。
ドラグが一歩踏み出した。
「陛下。この人間の首を刎ねる許可を」
「黙れ、ドラグ」
ヴァルナキアは三枚目をめくった。その目が数字の列を追っている。流し読みではない。精読だ。
——読める。この魔王は、数字が読める。
レイの背中を、冷たい汗と熱い期待が同時に走った。
「レイ・クジョウ、と言ったな」
「はい」
「銀貨67枚の男が、金貨120万枚の組織を買収すると?」
所持金まで調べさせていた。城門で身体検査を受けた際に、財布の中身を報告されていたのだろう。レイは怯まなかった。
「買収の本質は自己資金の多寡ではありません。対象の資産を担保に資金を調達し、対象自身の将来キャッシュフローで返済する。必要なのは金ではなく、スキームです」
ヴァルナキアの紫の瞳が、初めてレイを正面から見据えた。冷笑。だがそこには、純粋な嘲りだけではない何かが混じっていた。
「……面白い。だが面白いだけだ」
魔王は提案書を玉座の肘掛けに置いた。
「持ち帰って精読する。3日後にもう一度来い。ただし——」
ヴァルナキアは立ち上がった。その瞬間、玉座の間の空気が物理的に重くなった。
「次は数字だけでなく、この軍の誰一人として損をしないという証明を持って来い。一人でも切り捨てる案なら、私はお前を食う側に回る。文字通りの意味でな」
謁見は終わった。
レイはフィーネに案内され、玉座の間を退出した。石の廊下を歩きながら、指先が震えているのに気づいた。恐怖か。興奮か。区別がつかない。
「フィーネ殿」
「何ですか」
「陛下は提案書を読むと思いますか」
「もう読んでいるでしょう。あの方が『3日後に来い』と言ったのは、私の記憶では初めてです。通常は『二度と来るな』か『殺せ』の二択ですから」
——まずい。これは期待していい案件だ。
レイは震える指先をポケットに突っ込み、城の回廊から魔族領の赤黒い空を見上げた。3日。3日で、金貨120万枚分の再建計画を書き上げなければならない。
前世で、企業再生案件のピッチブックを72時間で仕上げたことがある。あのときはコーヒーと栄養ドリンクがあった。今は銀貨67枚と羊皮紙しかない。
条件は悪化している。だが勝算は、前世より遥かに高い。
なぜなら今回は——買収対象自身が、買収されたがっている。気づいていないだけで。




