第1話 追放通知と退職金ゼロの査定書
「——よって、レイ・クジョウ。本日付をもって、貴様の勇者パーティーへの帯同資格を剥奪する」
金貨1枚の退職金すらない。レイは目の前の羊皮紙——大仰な王国紋章が押された追放通知——を見つめながら、まずその事実を確認した。
前世で何十件と手がけたM&A案件には、どんな敵対的買収にも必ずブレイクアップ・フィーが設定されていた。契約破棄には対価が伴う。それが文明社会の常識だ。だが異世界の勇者パーティーには、労働基準法も退職金制度も存在しない。
魔王軍との前線拠点。粗末な天幕の中で、勇者アルディス・ヴァン・グランハルトは聖剣を傍らに立てかけたまま腕を組んでいた。金髪が篝火に照らされ、英雄然とした横顔を作っている。絵になる男だ、とレイは場違いな感想を抱いた。
「戦闘貢献度、過去30日間で最下位。回復魔法の発動回数ゼロ、敵撃破数ゼロ、被ダメージ庇護回数ゼロ」
アルディスが数値を読み上げるたびに、周囲のパーティーメンバーが気まずそうに目を逸らす。レイはその反応を観察しながら、内心で嘆息した。
被ダメージ庇護回数ゼロ。当然だ。前衛に出ていないのだから。
「反論はあるか」
「事実の確認だけ。過去30日間のパーティー経費を誰が管理していたか、兵站の最適化で浮いた金貨の総額がいくらか、ご存知ですか」
アルディスの眉が僅かに動いた。知らないのだ。レイが毎晩遅くまで帳簿と睨み合い、補給路の選定を見直し、武器の共同購入で単価を叩いていたことを、この男は認識すらしていない。
「剣を振れない者に、勇者パーティーの居場所はない」
それが結論だった。
レイは追放通知を丁寧に折り畳み、外套の内ポケットに仕舞った。書類は保管する。どんな不利な契約書でも、原本は捨てない。投資銀行員の習性だ。
「了解しました。お世話になりました」
未練がましい言葉は一つも出なかった。前世で過労死するまで外資系投資銀行に勤めた人間は、不当な解雇通知の受け取り方くらい心得ている。感情的になるのは交渉の余地がある時だけだ。ここには、ない。
***
前線拠点を離れ、南へ続く街道を一人で歩く。背嚢には最低限の衣類と、一冊の革装ノート。所持金は銀貨73枚と銅貨若干。
レイは歩きながら暗算した。宿代が銀貨2枚、食事が1枚。移動に馬を借りれば3枚。固定費だけで日あたり銀貨6枚、変動費を含めれば8枚。手持ちで約9日間。
——バーンレートが高すぎる。
ランウェイ9日。スタートアップなら即座にピボットか追加調達を検討するフェーズだ。だが、この世界にエンジェル投資家はいない。ベンチャーキャピタルも、転換社債も。
レイは足を止め、空を見上げた。
九条嶺一。前世の名前を、もう長いこと口にしていない。東京大学を出て、外資系投資銀行のM&A部門に入り、年間3000時間を超える労働の果てに心臓が止まった。享年31。目が覚めたらこの世界にいて、気づけば勇者パーティーの荷物持ち兼経理係をやっていた。
剣の才能はなかった。魔法の適性もなかった。だが、この世界の経済構造の歪みだけは、嫌というほど見えた。
レイは外套の内ポケットから革装ノートを取り出した。2年間、パーティーに帯同しながら書き溜めた記録。各地の物価、交易路、関税率、種族間の取引慣行、通貨の交換レート、主要商会の勢力図。
この世界には複式簿記がない。信用取引がない。有価証券の概念がない。手形すら普及していない。
つまり——金融インフラが丸ごと空白地帯だ。
前世の知識がそのまま通用するとは思わない。だが、情報の非対称性がここまで大きい市場は、投資銀行員にとって機会そのものだった。
問題は元手と、信用と、実行する組織がないことだ。個人でできるビジネスの規模には限界がある。
***
辺境の宿場町ヴェルデンに着いたのは翌日の昼過ぎだった。
街道沿いの安宿に荷を置き、1階の酒場で麦粥を啜りながら、レイは周囲の会話に耳を澄ませた。商人たちの噂話は、最も安価な情報ソースだ。
「魔王軍がまた給金を遅配したらしい。兵が脱走し始めてるって話だぜ」
「そりゃそうだろ。鉱山からいくら魔石を掘っても、買い叩かれるだけだからな。ライゼン商会が交易路を全部押さえてやがる」
レイの匙が止まった。
——魔王軍。資金難。内部崩壊寸前。
投資銀行員の嗅覚が、背筋を走る電流のように反応した。
破綻寸前の企業には二種類ある。本当に価値がないものと、市場に正しく評価されていないものだ。後者は——買い時だ。
レイは麦粥を押しやり、商人たちのテーブルに近づいた。銀貨を1枚、卓上に置く。
「すみません、少しお話を伺えますか。魔族領の交易事情に興味がありまして」
金の力は万国共通だ。異世界でも。銀貨1枚で商人たちの口は滑らかになった。
1時間後、レイは宿の自室で粗末な羊皮紙を広げていた。
魔族領の資源は豊富だ。魔石、ミスリル鉱、希少薬草、魔獣素材。保守的に見積もっても、年間産出高は金貨50万枚相当。だが現在の交易価格で計算すると、実際に魔族領が手にしている金額は金貨8万枚に過ぎない。
差額の金貨42万枚は、どこへ消えているのか。
答えは明白だった。交易路の独占。人間側の貴族商会——とりわけライゼン商会が流通を支配し、買取価格を不当に低く設定している。中間搾取率、実に84%。
レイは羊皮紙の端に数字を並べ始めた。前世で叩き込まれたDCF法——ディスカウント・キャッシュフロー法による企業価値算定。魔王軍を一つの企業体と見なした場合の推定バリュエーション。
資産アプローチ。鉱山権益、魔石埋蔵量、領土面積から算出する純資産価値。
収益アプローチ。交易路を正常化し、中間搾取を排除した場合の将来キャッシュフローを現在価値に割り引く。
ペンが走る。数字が積み上がる。
割引率を15%と仮定して——保守的だ、この世界のカントリーリスクを考えれば20%でもいいが——5年間のフリーキャッシュフローを現在価値に換算すると。
レイは算出された数字を見つめ、小さく息を吐いた。
魔王軍の推定企業価値、金貨120万枚。
対して、現在の魔王軍が保有する現金性資産は、商人たちの噂を総合すると金貨3万枚以下。おそらく2万枚を切っている。
——アセットリッチ、キャッシュプア。典型的な過小評価銘柄だ。
保有資産の潜在価値は莫大なのに、キャッシュフローが搾取構造によって毀損され、市場から正当に評価されていない。こういう企業を見つけたとき、投資銀行員がやることは一つしかない。
買収だ。
レイは羊皮紙の最下部に、一行だけ書き加えた。
『対象:魔王軍連合体。取引形態:友好的買収(LBO検討要)。初期接触先:財務担当者』
所持金は銀貨67枚にまで減っていた。金貨に換算すれば7枚にも満たない。金貨120万枚の組織を、金貨7枚で買収する。
レバレッジ比率、約17万倍。
前世のウォール街でも聞いたことがない数字だ。だが、不可能と断じる根拠もまたない。レバレッジド・バイアウトの本質は自己資金の多寡ではない。対象の資産を担保に資金を調達し、対象自身の将来キャッシュフローで返済する。必要なのは金ではなく、スキームだ。
レイは羊皮紙を丁寧に巻き、ノートに挟んだ。
明日、魔族領へ向かう。まずは財務担当者を探す。どんな組織にも、金勘定のできる人間は必ずいる。そこが突破口になる。
窓の外では、魔族領の方角に赤黒い空が広がっていた。瓦解寸前の帝国。誰もが見放した不良債権。
だがレイの目には、それは世界最大の投資機会に見えていた。




