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第7話 交易路戦争——関税の壁を迂回せよ

数字は嘘をつかない。だが、残酷な真実を告げることもある。

 フィーネが魔王城の記録庫から伝書で送ってきた直近の収支報告を、レイはヴェルデンの事務所で三度読み返した。

 利益率、マイナス12%。

 関税引き上げ法案の施行からわずか五日。従来の三倍に跳ね上がった関銭が、ノヴァ・ソシエタスの物流を絞め殺しにかかっている。

 ——予想より早い。マルグリットは法案成立前に徴税請負人への根回しを完了していた。成立から執行までのタイムラグがほぼゼロだ。

 前世の記憶が蘇る。規制変更のアナウンスメント効果を最大化するために、施行日を前倒しする——ウォール街でも常套手段だった。マルグリットは金融工学こそ知らないが、権力のレバレッジの使い方を本能で理解している。

 レイはペンを置き、窓の外に目をやった。ヴェルデンの朝市が始まっている。トマスの薬草店にも客の姿が見えた。あの小さな店との取引が、商会の最初の一歩だった。

 その一歩が、今まさに潰されようとしている。

「正面突破は無理だ」

 独り言が漏れた。関税という制度的な壁に、制度の外から挑むしかない。

 机の上に広げた魔族領の地図に目を落とす。フィーネが示唆した山岳ルート——魔族領北東部の山岳地帯を抜け、東部の自由都市群に至る未開拓の交易路。グレンデル子爵領もライゼン商会の徴税網も、完全に迂回できる。

 問題は三つ。山岳地帯の魔獣。未整備の道。そして——護衛戦力。

 レイは伝書を取り出し、短く書いた。


『ドラグに会いたい。明日、魔王城で。——R.K.』


***


 翌日。魔王城の大広間。

 ドラグ・バルトロスは腕を組み、赤い肌の顔に露骨な不快感を浮かべていた。身長2メートル超の巨躯が、石造りの椅子を窮屈そうに軋ませている。

「商隊の護衛だと?」

 低い声が広間に反響した。

「俺は将軍だ。兵を率いて戦場を駆けるのが仕事であって、荷車の横を歩くのが仕事じゃねえ」

「理解している」

 レイは平静に答えた。感情ではなく論理で動かす。投資銀行時代、何百回と繰り返してきた交渉の基本だ。

「だからこそ、ドラグ将軍に頼んでいる。この任務は軍事作戦だ」

「荷物を運ぶのが軍事作戦だと?」

「物資の輸送路を確保し、敵の経済封鎖を突破する。それは兵站戦だ。戦争の勝敗を決めるのは前線の剣ではなく、後方の補給線だと——将軍なら知っているだろう」

 ドラグの眉が動いた。

「……補給が途絶えれば、どんな精鋭も飢えて死ぬ。それは、知っている」

 声のトーンが変わった。レイは第3話の記憶を思い出す。デューデリジェンスの最中に見た、兵糧不足で痩せ細ったドラグの部下たちの姿。あの光景は、この武人の心に刻まれているはずだ。

「山岳交易路が開通すれば、ライゼン商会の関税封鎖を無効化できる。商会の物流が回復し、魔族領に安定した収入が戻る。兵への給金も、食料の調達も」

 レイは地図を広げた。

「逆に、この交易路を開けなければ——商会の資金は三ヶ月で底を突く。そうなれば、魔王軍は買収前と同じ状態に戻る」

 ドラグは黙って地図を見下ろした。赤い瞳が、山岳地帯のルートを辿っている。

「……魔獣が出る」

「出る。だから精鋭が要る」

「何日かかる」

「開拓に七日。護衛は三十名を想定している」

 長い沈黙があった。

 やがてドラグは椅子から立ち上がり、地図の上に拳を置いた。

「いいだろう。ただし、条件がある」

「聞こう」

「俺の部下が一人でも死んだら、お前を殴る」

 レイは一瞬だけ目を瞬いた。それから、小さく頷いた。

「……公正な条件だ」


***


 山岳地帯は、想像以上に過酷だった。

 切り立った岩壁。霧に覆われた稜線。足場の悪い獣道を、ドラグの精鋭三十名と測量班が進む。レイは後方で地形を記録しながら、輸送コストの試算を頭の中で回し続けていた。

 ——従来路比プラス15%。ただし関税込みの実質コストは38%削減。採算は取れる。

 四日目の朝、最大の難所である峡谷を越えた先で、前衛のドラグが拳を上げて隊列を止めた。

「……人間だ」

 霧の向こうに、見覚えのある紋章が見えた。王国の鷲。

 そして——金色の髪。

 アルディス・ヴァン・グランハルトが、勇者パーティーの一行を率いて山道に立っていた。

 魔族の討伐任務だろう。山岳地帯に出没する魔獣の掃討か、あるいは魔族領への偵察か。いずれにせよ、最悪のタイミングだった。

 アルディスの青い目がレイを捉えた。一瞬の驚愕。次いで、理解。そして——怒り。

「レイ・クジョウ」

 聖剣の柄に手がかかった。

「魔王軍の兵を引き連れて、何をしている」

 ドラグが前に出ようとした。レイは手で制した。

「交易路の開拓だ。商会の事業として」

「商会?」アルディスの声に嘲りが混じった。「魔族と手を組んだ商会か。人間でありながら魔王軍に与するとは——裏切り者だな」

 裏切り者。

 その言葉が、不思議なほど軽く響いた。

 ——前世なら、取引先からの契約破棄通知の方がよほど胃に来た。

「裏切り者、か」レイは声を落ち着かせたまま言った。「裏切るには、まず忠誠がなければならない。私は追放されたんだ、アルディス。追放通知に王国の紋章まで押してもらっただろう。あの紋章が意味するのは、私がもう勇者パーティーとも王国とも無関係だということだ」

 アルディスの表情が歪んだ。

「詭弁だ。人間が魔族の軍勢と行動を共にしている。それだけで十分だろう」

「なら問おう。勇者の任務は魔王軍の討伐だ。目の前に魔王軍の将軍がいる。どうする?」

 沈黙が落ちた。

 アルディスの視線がドラグに向かった。ドラグは腕を組んだまま、挑むように見返している。四天王筆頭の威圧感が、霧の中に重く広がった。

 ——ここで戦闘になれば、双方に甚大な被害が出る。アルディスの実力は一軍に匹敵するが、ドラグもまた同格だ。そしてアルディスの背後にいるパーティーメンバーは、四天王級の武人三十名を相手に戦線を維持できない。

 アルディスにも、その計算はできるはずだ。

「……今は討伐任務中だ。お前たちの相手をしている暇はない」

 聖剣から手が離れた。

「だが覚えておけ、レイ。次に会ったときは——」

「次に会ったときも、私は帳簿を持っている。剣は持っていない」

 レイは背を向けた。

「行こう、ドラグ将軍。時間を無駄にはできない」


***


 七日目の夕刻。

 山岳地帯の東端に、平野が広がった。自由都市群の灯りが、夕焼けの中に点々と見える。

 護衛三十名、死者ゼロ。負傷者三名はいずれも軽傷。魔獣との遭遇は四度あったが、ドラグの采配は的確だった。武人としての能力を、戦場ではなく交易路の安全確保に振り向ける——それがどれほど大きな意味を持つか、レイは数字で理解していた。

 フィーネ宛の伝書を書く。


『山岳交易路、開通。所要七日、護衛三十名、戦闘損耗ゼロ。輸送コスト従来路比+15%だが、関税込み実質コストは38%削減。自由都市群への直接アクセスを確保。ライゼン商会の独占網に穴が開いた。

 追伸——この交易路沿いに三つの小集落がある。いずれも既存の交易網から取り残された辺境の村だ。商会との取引を希望している。彼らにとっては、これが初めての選択肢だ。

 手形の追加発行準備を頼む。新しい取引先が増える。——R.K.』


 ペンを置いたとき、ドラグが隣に立っていた。

「殴らなくて済んだな」

「ああ。将軍の指揮のおかげだ」

「……ふん」

 ドラグは眼下の平野を見下ろした。自由都市群の灯りが、少しずつ増えていく。

「商人。一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「この道は、誰のためのものだ」

 レイは少し考えた。ビジネス的に正確な回答はいくらでもある。株主価値の最大化。ステークホルダーへの利益還元。市場アクセスの確保。

 だが、ドラグが聞いているのはそういうことではない。

「さっきの三つの村を見ただろう。ライゼン商会の交易網から外れて、まともな価格で物を売ることも買うこともできなかった人たちだ」

「ああ」

「この道は、彼らの選択肢だ。たった一本の道が、市場へのアクセスを変える。アクセスが変われば価格が変わる。価格が変われば生活が変わる」

 ドラグは黙っていた。

「私の前世では、それをインフラストラクチャーと呼んだ。社会の基盤。剣では作れないものだ」

「……難しい言葉を使うな」

「道を作れば暮らしが良くなる。そういう話だ」

 ドラグは鼻を鳴らした。だが、その表情にはかすかな——本当にかすかな——納得の色があった。

 レイは自由都市群の灯りに目を戻した。

 ——これは戦争だ。関税という武器で殴ってきた相手に、交易路という武器で殴り返した。

 だが、まだ最初の一撃に過ぎない。マルグリットは次の手を打ってくる。それも、こちらが想定していないような角度から。

 ライゼン商会の独占網に穴を開けた。だがそれは、穴を塞ごうとする反撃を呼ぶということでもある。

 ——上等だ。

 口元が引き締まった。

 勝つまで終わらない戦争の、二手目を考え始める。風が山岳地帯から吹き下ろし、レイの髪を乱した。

 東の空に、最初の星が灯った。

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