第64話 喪失のカットオフ
致死の赤光を帯びた鈍色の刃が、ルミナを庇うように飛び込んできたビャッコの右肩を深々と捉えた。
高周波の微振動を帯びた刃は、強靭な筋肉も、硬い鎖骨も、神経の束さえも、まるで熱した鉄串で氷を突くように無慈悲に、かつ滑らかに「処理」していた。
――ボトリ。
重い肉塊が床に落ちる音が、やけに鮮明に鼓膜を打った。
ルミナの視線の先に、白い物体が落ちるのが見えた。
それは、雪のように白い肌と、黒いタクティカルグローブに包まれた、華奢で小さな腕。
しかし、肩口だったはずの断面からは、砕けた白い骨と赤黒い筋肉の束が、ぐちゃりと無残に顔を覗かせていた。
「あ、え…………?」
ルミナの口から呆然とした声が漏れる。
それは、つい数秒前まで愛銃『オファニム』を握っていた、ビャッコの右腕だった。
そして、その指先はまだ、存在しない引き金を探すかのように虚しく痙攣を繰り返していた。
一瞬の静寂。
直後、ビャッコの右肩の断面から、心臓の拍動に合わせた鮮血がドクッ、ドクッ、と一定のリズムで噴き出し、無菌室の純白の床をドロドロの海に変えていく。
「あ……あ……っ」
ルミナがゆっくりと視線を向けると、自分を突き飛ばして覆い被さってきた小さな小隊長の体には、肩口から右腕が完全に消失していた。
そして、無残な傷口からとめどなく噴き出る鮮血。
右腕という大きな質量を唐突に失ったことで、ビャッコの体がバランスを崩すようにグラリと傾く。
彼女は声一つ上げることなく、自ら作り出した血だまりの中へと力なく倒れ込んだ。
バシャッ、と。
ルミナの視界が、跳ね上がった熱い飛沫で真っ赤に染まった。
頬を伝う液体の生温かさと、むせ返るような鉄の匂いに、彼女の思考は完全に白濁する。
「ビャッコちゃん、嘘……嘘でしょ!? やだ、止まって、止まってよぉ!」
ルミナは半狂乱になりながら、ビャッコの傷口――肉と骨が剥き出しになった右肩の断面に、両手を強く押し当てた。
ぐちゃり。
ぬるりとした脂の感触と、沸き立つような熱がルミナの指先を飲み込む。
全体重をかけて必死に断面を塞ごうとするが、溢れ出す血の恐ろしい圧力と滑りに阻まれ、彼女の細い指は容易く押し返されてしまう。
「ああっ、滑る……っ、止まんないよぉっ……!」
ルミナは弾かれた自分の手を見た。
爪の隙間まで真っ赤に染まり、指の間からドロドロとこぼれ落ちていく、生温かい仲間の命。
そのあまりの量の多さと、むせ返るような鉄の匂いに、彼女の心は音を立てて折れた。
呆然と、血まみれの自分の両手を見つめる。
これは、たった今、自分を守るために盾になってくれた小さな少女の血なのだ。
止血すらまともにできない自分の無力さが、ルミナの思考をどす黒い絶望で塗り潰していく。
「あ……ぁ……」
絶望に凍りつくルミナの耳に、低く、掠れた声が届いた。
血だまりの中に倒れ伏したビャッコが、脂汗を流し、薄氷のような青白い顔のまま、虚空を見つめて独り言のように呟いていた。
「……アレス」
焦点の定まらない瞳。血の気を失い、薄氷のように青ざめた唇が、微かな呼吸と共に動いた。
「……うん。血管収縮プロトコル……。緊急クランプ、お願い……っ」
その言葉に応えるように、ビャッコの肩の断面で脈打っていた太い動脈が、内側からギュッと不自然に縮み上がった。
ドクドクと勢いよく噴き出していた鮮血が、じわじわと滲む程度にまで強制的に抑え込まれていく。
脳内の支援AI『A.R.E.S.』による、失血死を免れるためのギリギリの生体制御だった。
しかし、すでに失われた血液と、限界を突破したショック状態が消えたわけではない。
「はぁ……っ、う……」
最低限の止血を命じた途端、かろうじてビャッコの意識を繋ぎ止めていた細い糸が、ぷつりと切れた。
虚空を見つめていた彼女の瞳から急速に光が失われ、半開きの瞼がゆっくりと落ちる。
そして、その小さな体は糸の切れた操り人形のように、パタリと血の海へと沈み込んだ。
「ビャッコちゃん……!? 嫌だ、お願い、目を開けて、ビャッコちゃんッ!!」
ぴくりとも動かなくなった少女を抱き抱え、ルミナの悲痛な叫びが無菌室に響き渡った。
その絶叫は、通信越しにアイリスの耳にも届いていた。
コックピットのモニターに映し出されたのは、右腕を失い、自らの血の海に沈む愛しい人の痛ましい姿だった。
『あ、あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!』
アイリスの喉から、普段のお嬢様然とした口調からは程遠い、獣のような絶叫が迸った。
『お前……ッ、よくも、小隊長をォォッ!!』
悲しみと怒りで完全に我を忘れたアイリスは、アイアン・メイデンの残された右腕と巨体を、矢鱈めったらに振り回した。
サーバー群への被害などもう知ったことではない。
ただ目の前の鈍色の怪物を引き裂くためだけに、4メートルの鉄塊がデタラメな暴れ方で突進する。
『――予測不能ナ物理攻撃ヲ検知。一時退避シマス』
いかに冷徹なAIであっても、怒り狂った重装甲の質量兵器が放つ「計算外の乱撃」には対処しきれない。
スクラッパーはアイアン・メイデンの腕を間一髪で躱すと、チッ、と舌打ちのような排熱音を鳴らして再び天井の配管へと跳躍し、距離を取った。
ほんの数秒。アイリスの暴走が、奇跡的に『猶予』を生み出した。
(……ダウンロードは……?)
ルミナは涙で霞む目を、ハッとコンソールの画面に向けた。
画面中央のプログレスバーは、【75%】。
あと少し。もう少し待てば、この工場の闇を暴く完璧なデータが手に入るかもしれない。
しかし、足元を見下ろせば、土気色の顔で意識を失ったビャッコが、今この瞬間にも命の灯火を散らそうとしているのだ。
データを待てば、一人死ぬかもしれない。
「……っ」
ルミナは嗚咽を噛み殺すと、血まみれの両手で、自身の端末とメインコンソールを繋ぐ物理ケーブルを力強く握りしめた。
そして、涙を散らしながら、一切の迷いなくそれを勢いよく引っこ抜いた。
ブツンッ、と画面が暗転し、【ERROR:接続切断】の無慈悲な赤い文字が浮かび上がる。
未完了のダウンロードが強制終了される。
だが、ルミナの瞳に後悔はなかった。
彼女は不完全なデータしか入っていない端末を胸に抱き抱えると、巨体を振り回すアイアン・メイデンに向けてありったけの声で叫んだ。
「アイリスちゃん! 私とビャッコちゃんを抱えて逃げて!!」
ルミナの悲痛な叫びが、怒りで血走ったアイリスの鼓膜を打った。
アイリスはハッとして、モニターの視線を切り替える。
天井に張り付く憎き鈍色の怪物。そして、自らの血の海に沈み、今にも命を散らしそうなビャッコの痛ましい姿。
(殺してやる……ッ! こいつだけは、絶対に!)
煮え滾るような殺意がアイリスの全身を支配する。だが、今ここで敵討ちに時間をかければ、確実にビャッコは死ぬ。
『……っ、うぅぅぅッ!!』
アイリスは血の滲むような力で唇を噛み破り、苦渋の決断と共に操縦桿を強く引いた。
アイアン・メイデンの巨大な右腕が、コンソール前のルミナと、血まみれのビャッコの体を、壊さないよう細心の注意を払いながらも、ひったくるような速度で掬い上げる。
ルミナは腕の中で、不完全なデータが入った端末と、冷たくなっていくビャッコの体を必死に抱きしめた。
『しっかり捕まっていてくださいませッ!!』
アイリスが叫ぶと同時、アイアン・メイデンは元来た分厚い隔壁――出入り口へと巨体を向けた。
左腕はスクラッパーに攻撃されたことで火花を散らしているが、まだ動く。
右腕でしっかりとルミナとビャッコを抱えたまま、左腕にマウントされた12.7ミリ汎用機関銃の銃口が、猛然と火を噴いた。
ズドドドドドドドガァァァァンッ!!
無菌室に、鼓膜を破るような重低音とオレンジ色のマズルフラッシュが激しく明滅する。
放たれた大口径の弾幕が、閉ざされた堅牢な隔壁を瞬く間に蜂の巣へと変え、構造上の限界を迎えさせた。
『退きなさいッ!!』
アイアン・メイデンは残る出力を全開にし、ひしゃげた隔壁へ巨体を叩きつける。
轟音と共に分厚い壁が吹き飛び、大穴が開く。アイリスたちは振り返ることなく、工場の暗がりへと決死の撤退を敢行した。
――嵐が、去った。
ぽっかりと空いた大穴から、粉塵が舞う。
サーバールームに取り残された鈍色のスクラッパーは、破壊された壁の縁に立つと、逃げ去っていく巨大な鉄の背中を、赤い単眼センサーで静かに見送っていた。
追撃のプロトコルは起動しない。防衛システムとしての最優先目標である『サーバー群の保護』は、ルミナが自ら接続を絶ったことで完全に達成されたからだ。
静寂を取り戻したデータ・サイロ。
無傷のサーバー群が、冷たい稼働音を立て続けている。
そして、メインコンソール前の純白の床に広がる、凄惨な血の海。
そこには、主を失ったオファニムと――雪のように白い肌をした『ビャッコの右腕』だけが、ポツンと無残に取り残されていた。




