第65話 欠損のセクター
みんながくもっているときがいちばんたのしいです
第3詰所の薄暗い整備ドック。
悲鳴のような重苦しい駆動音と、散発的に弾ける火花の音が静寂を破った。
帰還したアイアン・メイデンの姿は、凄惨の一言だった。
4メートルほどの巨体を覆う分厚い装甲には、スクラッパーの高周波ブレードによって抉られた深い亀裂が無数に走り、痛々しくひび割れている。
限界駆動を強いられた左腕の関節部からは、バチバチとオレンジ色の火花が散り、焦げた金属の臭いがドックに充満した。
「みんな、無事だっ――」
ドックで帰りを待っていたネオンが、アイアン・メイデンの様子に驚きながらも駆け寄る。
プシュゥゥ、と排気音を立てて狭小なコックピットのハッチが開き、アイリスが力ない足取りで降りてきた。
しかし、ネオンの「おかえり」という言葉は、喉の奥で完全に凍りついた。
ずるり。ずるり。
鋼鉄の巨体の陰から、重い足取りで歩み出てきた小さなシルエット。ルミナだ。
彼女は、力なく首を垂れたビャッコの体を、小さな背中に必死におぶっていた。
ルミナの衣服や頬には、赤黒く変色し、カピカピに乾ききった大量の血の跡がべっとりとこびりついている。
鉄錆のような強烈な血の匂いが、ネオンの鼻腔を突いた。
そして何よりネオンの両目を大きく見開かせたのは、ルミナの背中で揺れるビャッコの『右肩から先』が――根元からごっそりと消失しているという、あまりにも非現実的な惨状だった。
「……っ!? 嘘、どういうこと……ルミナ、何があったの!? ビャッコの腕が……!」
ネオンは血相を変え、震える手で二人に駆け寄った。
限界だった。ルミナは背中のビャッコを崩れ落ちないように抱えたまま、その場に膝から崩れ落ちた。
いつもの飄々とした、元気なエンジニアの面影はどこにもない。
ルミナは乾いた血に塗れた両手で顔を覆い、過呼吸のように肩を震わせる。
血の汚れを洗い流すように、大粒の涙が彼女の頬に幾筋もの透明な跡を作っていった。
「わたしのっ、わたしのせいだ……っ! わたしが……私が、ちゃんとできなかったから……っ!」
喉が裂けそうなほどの、嗚咽混じりの絶叫。
ルミナは自分の髪をかきむしり、床に額を擦り付けるようにして泣き叫ぶ。
「私が……わたしが、そもそも行こうと言い出したからぁ……っ! ごめんなさい、ビャッコちゃん、ごめんなさい……っ!」
聞いているだけで胸が張り裂けそうな悲痛な声が、ドックの壁に虚しく反響する。
慰めようとネオンが手を伸ばしたその時、横からふらふらと歩いてきたアイリスが、床に視線を落としたまま、ひび割れたような声で呟いた。
「ごめんなさい……」
ネオンが息を呑む。その瞳には、一切の光がなかった。
誇り高い令嬢の面影は微塵もなく、まるで魂を抜き取られた抜け殻のような虚無だけが宿っていた。
アイリスは焦点の合わない目で、片腕のないビャッコを見下ろしている。
「守るとか、偉そうに言っておきながら……。一番大事な時に……なにもできない、ただのクズで……ごめんなさい……ごめんなさい……」
呪文のように謝罪を繰り返すアイリス。
泣き叫び続けるルミナ。
そして、右腕を失い、死人のように青白い顔で横たわるビャッコ。
チームの絶対的な支柱であった少女が破壊された。
その事実が、残された二人の心を根元からへし折り、粉々に砕いていた。
あまりにも異様で、あまりにも可哀想な光景を前に、ネオンはどうすることもできず、ただ寒気を感じながら立ち尽くすことしかできなかった。
ルミナの張り裂けそうな嗚咽と、アイリスの虚ろな謝罪だけが響く地下ドック。
ネオンが絶望的な惨状に言葉を失い、凍り付いていたその時――。
カツン、カツン。
ひび割れたアイアン・メイデンの後部から、重苦しい空気を全く読まない、軽快で場違いなヒールの足音が響いた。
「――お話し中のところ悪いんだけど、この患者を寝かせるところない?」
呆然とするネオンが音のした方へ視線を向けると、そこには、この地獄絵図にはおよそ似つかわしくない女が立っていた。
だらしなく着崩した白衣の奥から、豊満な胸の谷間を無防備に晒し、短いボトムスからは黒いガーターベルトが覗いている。むせ返るような血と焦げた金属の匂いの中に、ツンとした安っぽい香水の香りが混じった。
「……え? 奥に、仮眠室があるけど……あなたは?」
警戒する余裕すらなく、ネオンが戸惑いの声を漏らす。
やたらと扇情的な格好をしたその女は、赤いリップを塗った唇からふぅ、と紫煙を吐き出すと、面倒くさそうに首を鳴らした。
「私はスラムの地下闘技場のところで医者をやってる者だよ。そこのアイアン・メイデンが血相変えて飛び込んできたから、この嬢ちゃんの治療をしといたんだよ」
女医は親指で、床に横たわるビャッコを指差した。
その視線の先にあるビャッコの右肩――無惨に切断されたはずの断面には、すでに血の気配はなく、代わりに鈍く光るチタン製の『接続端子』が綺麗に埋め込まれ、強固に縫合されていた。
「神経系が特殊だったからね。今後のことも考えて、とりあえずベースだけは作って塞いでおいた。んで、二人とも見てられない状態になってるから、アフターケアがてらついてきたわけ」
女医はルミナとアイリスを顎でしゃくると、持っていた大きな医療バッグを肩に担ぎ直した。
「お話を続けたければ勝手にどうぞ。金をもらえば治療はするし、余計なことはしゃべる気もないから。でもね――」
ドライで突き放したような口調。だが、その言葉には裏社会を生き抜いてきたプロの凄みが確かに宿っていた。
「今はこの患者を優先してほしいかな。さ、案内しな。地べたに寝かせてたら、せっかく繋いだ神経がダメになっちまう」
女医の言葉にハッとしたネオンは、慌ててルミナを立たせ、ビャッコの体を奥の仮眠室へと運ばせた。
仮眠室の簡素なベッドにビャッコが寝かされると、女医は扇情的な見た目からは想像もつかないほどの手際で動き始めた。
バッグから輸液パックを取り出して手早く点滴のラインを確保し、ビャッコの胸元にバイタルモニターのセンサーを貼り付けていく。
「ピッ……ピッ……」
静かな部屋に、電子的な心拍音が規則正しく響き始めた。
女医が淡々と、まるで「日常の業務」のように医療器具を扱うその姿は、逆にビャッコの『右腕がない』という非日常の残酷さを浮き彫りにしていた。
血と泥に塗れたルミナとアイリスは、魂が抜けたようにソファに座り込んでいる。
その痛々しい姿から目を逸らすように、ネオンはメインコンソールに向かい、ルミナが命懸けで持ち帰った端末を接続した。
「……データの解析、始めるわね」
カタカタとキーボードを叩く音が、やけに大きく響く。
モニターに【展開中:75%】というプログレスバーが表示され、膨大なファイル群がリストアップされていく。
非人道的な生体実験の記録、末端の取引ルート、資金の横流し先。
工場の闇を暴くには十分すぎる証拠が次々と画面を流れていく。
だが、ネオンの指がピタリと止まった。
「……嘘でしょ」
一番肝心なディレクトリが開かない。
データの深層、『黒幕の直接的な関与を示すID』と、『中枢施設の正確な座標』が記録されているはずのマスターセクターが、ごっそりと欠落していたのだ。
「ネオン、ちゃん……?」
ルミナが、怯えたような、掠れた声を絞り出す。
モニターの【ERROR:欠損セクター】という無慈悲な赤い文字を見た瞬間、ルミナの瞳から再び大粒の涙が溢れ出した。
「あんなに……ビャッコちゃんが、体を張ってくれたのに……っ! 私が途中で抜いたせいで、データが、足りないの……っ!?」
己の選択が招いた結果に、ルミナが再び顔を歪め、過呼吸のように肩を震わせる。
アイリスもまた、己の無力さを呪うように強く唇を噛み締め、血を滲ませた。
これ以上、この子たちの心を壊すわけにはいかない。
ネオンはギュッと拳を握り締めると、無理やり口角を上げ、努めて明るく、力強い声を取り繕った。
「データを洗い直すから、二人とも少し寝なさい。大丈夫よ。……きっとなんとかなるから」
強引に二人を奥の部屋へ追いやると、リビングにはネオンだけが取り残された。
静寂が降りてきた瞬間、ピンと張り詰めていたネオンの糸が、限界を迎えた。
ふらつく足取りで、ネオンは狭い洗面所へと逃げ込む。
ドアを閉め、震える手で蛇口を限界までひねった。
ジャァァァァッ! と、冷たい水が勢いよくシンクに叩きつけられる。
ネオンは鏡に映る自分の顔を見ることができず、冷たいタイル張りの壁にこつんと額を預けた。
大人ぶっていた仮面が、音を立てて崩れ落ちる。
せき止めていた涙が、ポロポロととめどなく溢れ出し、頬を伝ってシンクへと落ちていった。
「あんなことになるなら……私が、ちゃんと止めていればよかった……っ」
激しい後悔と、仲間を守れなかった不甲斐なさが、ネオンの胸を内側から引き裂く。
壁にすがりつくようにして、彼女は声を殺して泣き崩れた。
「あんな小さな体に、私たちが全部押し付けて……っ。痛かったはずよ……あんなになるまで……っ」
あの惨状が脳裏にフラッシュバックし、ネオンは自分の胸を強く掻きむしった。
「どうして……どうしていつもあの子ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないの……っ!」
出しっぱなしの激しい水音に混じって、狭い洗面所に、ネオンの押し殺した悲痛な嗚咽だけがいつまでも響き渡るのだった。
◆
場面は切り替わり、スラムの最深部に位置するヴァレリオの拠点。
薄暗い執務室で重厚なデスクに腰を下ろし、ヴァレリオは不機嫌そうに葉巻の煙を吐き出していた。
「……まだ特定できねぇのか。無能どもが」
苛立ちに任せて、吸いかけの葉巻を灰皿へ乱暴に押し付ける。
データ・サイロを襲撃し、スクラッパーと渡り合った正体不明の機体。
現場の監視映像は破壊され、スラム特有の妨害電波のせいで、逃走した犯人の足取りは完全に途絶えていた。
そこへ、一人の部下が足早に入室してくる。
その手には、厳重にロックされた透明な特殊保管ケースが抱えられていた。
「ボス。現場の『血だまり』から、面白い置き土産を回収してきました」
部下がデスクの上にケースを置く。それを見たヴァレリオの目が、微かに細められた。
透明なケースの中に無造作に収められていたのは、主を失ったオファニムと――雪のように白い肌をした、華奢な『右腕』だった。
切断面から覗く赤黒い肉塊と砕けた骨が、無機質なケースの中でひどく猟奇的なコントラストを描いている。
「ほう……」
ヴァレリオの不機嫌だった顔に、歪で冷酷な笑みが張り付いた。
彼はケース越しに、その白い腕を指先でなぞる。
「ご丁寧に、極上の『遺伝子サンプル』をまるごと置いていってくれたか。……おい、すぐに解析機へ回せ」
「ハッ」
部下がうやうやしく一礼し、部屋の奥に鎮座する巨大なDNAシーケンサーのトレイに、華奢な右腕をセットする。
ウィィィン……という低い稼働音と共に、緑色の冷たいスキャンレーザーが、白い肌を執拗に舐め回すように往復し始めた。
巨大なメインモニターに、『DNA塩基配列抽出・データベース照合中……』という無慈悲な文字列が浮かび上がる。
【照合プロセス開始:1%】
ゆっくりと、だが確実に進み始めるプログレスバー。
データベースから持ち主の身元を特定し、その所属や潜伏先を割り出す死のカウントダウンに他ならなかった。
「ネズミの身元が割れ次第、俺の上級クリアランスで適当な『国家反逆罪』でもでっち上げろ。証拠なんて後からどうとでもなる」
ヴァレリオは新しい葉巻に火を点け、紫煙の向こうで凶悪な牙を剥き出しにして嗤った。
「公的なテロリスト討伐として、治安維持部隊の精鋭どもを合法的にけしかけてやる」
自分は一切手を汚さず、表の権力を乱用して敵をすり潰す。
それこそが、この都市の裏表を牛耳る男の冷酷なやり方だった。
「一匹残らず、駆除してやる」
彼女たちのささやかな安息の地が、理不尽な暴力と業火に包まれるまでの残酷なタイムリミットが、今、静かに動き出したのだった。




