第63話 裁断のキネティクス
『――キシャァァァァァッ!!』
それは生物の咆哮ではなく、過剰な排熱音と金属の軋みが混ざり合った、耳障りな合成音だった。
鈍色の怪物が、遥か頭上のパイプからルミナを狙って一直線に跳躍する。
『させませんわっ!!』
ルミナが恐怖で目を細めた瞬間、彼女の頭上を覆い隠すように、巨大な鋼鉄の塊が滑り込んだ。
アイリスの駆る『アイアン・メイデン』だ。
4メートルの巨体から繰り出される分厚い左腕の重装甲を、ルミナを守る巨大な盾として突き出す。
ネオンの手によって完璧に調整され、これまでの道中で傷一つ負わなかった堅牢無比な特殊合金装甲。
いかに高所からの奇襲とはいえ、四足歩行の軽量な機械ごときに容易く貫かれるような代物ではない――はずだった。
ガァンッ! という重い衝突音が響く。
――いや、違った。
ズシャァァァッ!!
『……っ!?』
アイリスが息を呑む。
コックピットに伝わったのは、強固な壁で弾き返した手応えではなく、熱したナイフがバターに沈み込むような、酷く滑らかで嫌な感触だった。
『スクラッパー』の四肢の先端――足首から先は、動物の爪などではなく、それ自体が一本の分厚い軍用ブレードで構成されていた。
超高速の微振動を放つその『高周波ブレード』は、アイアン・メイデンの分厚い腕部装甲をあっさりと切り裂き、内部の駆動フレームにまで深々と達していたのだ。
切断面から、オレンジ色の火花と冷却液が鮮血のように噴き出し、無菌の空間に嫌な焦げ臭さを充満させる。
『くっ……! なんという切断力ですの……!』
装甲ごと左腕を切り落とされまいと、アイリスが咄嗟に機体を強引に捻る。
しかしスクラッパーは、刃が深く食い込むよりも早く、アイアン・メイデンの腕を蹴り台にして軽やかに跳躍した。
ダンッ! と無機質な音を立てて、怪物は再び垂直の壁面へと張り付く。
赤い非常灯に照らされたその姿は、まさに歩く外科手術用メスそのものだった。
鈍色の、光を吸い込むような暗い銀色の装甲。
その隙間からは、油圧シリンダーと黒い人工筋肉の束が剥き出しになっている。
頭部には顔と呼べる構造はなく、ただのっぺりとした金属の奥で、単眼の赤いカメラセンサーだけがギョロリと動き、無機質に明滅している。
この工場の「製品」を解体し、処分するためだけに最適化された鈍色の検体処理機。
微細な振動を続ける四本の刃を壁面に突き立てた異形は、獲物であるルミナを、ただ感情の無い赤光で捕捉し続けていた。
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
無機質な着地音が連続して響き渡る。
壁面から天井の配管へ、そしてまた別の壁面へと、鈍色の異形はまるでピンボールのようにデータ・サイロの空間を縦横無尽に跳ね回っていた。
「くっ……ちょこまかと! これじゃ狙えない……!」
ビャッコがオファニムの銃口を振り回し、忌々しげに顔を歪める。
彼女の動体視力と脳内のA.R.E.S.による照準補正をもってすれば、敵の高速軌道を捉えること自体は不可能ではない。だが、致命的な問題があった。それは『射線の背景』だ。
スクラッパーのAIは明らかに、この部屋の構造と侵入者たちの目的を理解した上で動いている。
壁面を這い回るその軌道は常に、漆黒のサーバー群がビャッコとの間に重なるように計算されていた。
もしここでビャッコが高火力の高速徹甲弾を乱射すれば、敵を穿つより先に、背後のサーバー――絶対に守らなければならない『証拠』を粉砕してしまう。
『ええいっ、鬱陶しいですわね……!』
アイリスがアイアン・メイデンの主武装である長大なランスを鋭く突き出す。
しかし、4メートルの巨体でこの狭いコンソール前の広場に陣取っている時点で、彼女の動きも大きく制限されていた。
周囲のサーバーラックを薙ぎ払わないように配慮すれば、どうしても攻撃は直線的な『突き』のみに限定される。大振りができないのだ。
『――キシャァァッ!』
その僅かな「ためらい」と「死角」を、冷徹な裁断機が見逃すはずもなかった。
突き出されたランスの軌道を紙一重の壁走りで躱すと、スクラッパーはアイアン・メイデンの懐へと滑り込む。
四肢の高周波ブレードが、まるで高速の旋盤のように装甲の表面を削り取っていく。
ギャリリリリィィッ!!
『きゃあっ!?』
「アイリス!」
オレンジ色の火花が激しく散り、アイアン・メイデンの脚部や関節部を覆っていた分厚い装甲板が、鉋にかけられた木材のように次々と薄く削ぎ落とされていく。
ネオンが完璧に仕上げたはずの装甲が、わずか数回の交差で無残な姿へと変えられてしまった。
(早く……! 早く、早く……っ!!)
ルミナは悲痛な思いでコンソールに張り付きながら、祈るように手元の端末に目を落とす。
しかし、画面中央のプログレスバーは、無慈悲なほどゆっくりとしか進んでいなかった。
端末の画面で、もどかしいプログレスバーがようやく【50%】を超えた。
その瞬間、壁面に張り付いていた怪物の動きが、不自然なほどピタリと止まった。
ギョロッ、と。のっぺりとした装甲の奥で赤く光る単眼センサーが、カシャカシャと不気味な瞬きを繰り返す。
『――対象ノ脅威度ヲ再計算。最適解へプロトコルヲ移行シマス』
無機質なシステム音声。スクラッパーのAIが、冷徹な演算結果を弾き出したのだ。
機動力で翻弄できているとはいえ、高火力の銃使いと、分厚い装甲を持つ機甲兵。
この二体の相手に時間をかけるのは「非効率」であると。
防衛システムとしての最優先目標は、メインコンソールからのデータ流出阻止。
ならば、狙うべきは――。
赤い単眼が、ビャッコたちを完全に無視し、コンソールに張り付くルミナへと真っ直ぐに向けられた。
『……っ! 標的が変わりましたわ! ルミナさん!!』
アイリスの悲痛な叫びと同時だった。
スクラッパーはアイアン・メイデンの牽制を意にも介さず、天井のパイプを力強く蹴り、一直線にコンソールへとダイブした。
「くそっ……!」
ビャッコが射線を気にしている暇すらない、恐るべき速度。
『ルミナさんッ!!』
アイリスは迎撃を諦めた。長大なランスをその場に投げ捨てると、アイアン・メイデンの4メートルの巨体を、ルミナとコンソールを覆い隠すように覆い被せる。文字通りの「肉の盾」だ。
ズガガガガガァァッ!!
『くぅぅぅっ!?』
アイリスの苦悶の声が、コックピットのスピーカーから漏れる。
ルミナを庇って丸まったアイアン・メイデンの背中に、異形の怪物が容赦なく取り付いたのだ。
四肢の高周波ブレードが、狂ったような速度で背面装甲を乱れ斬る。
オレンジ色の火花が滝のように降り注ぎ、けたたましい装甲の損壊アラートが鳴り響く。
ルミナが丹精込めて組み上げた内部フレームが、金属の悲鳴を上げて軋んでいた。
「アイリスちゃん……っ!」
自分の上に覆い被さる巨大な鉄の背中が、みるみるうちに薄く削り取られていく。
ルミナは恐怖に顔を歪めながらも、コンソールから決して手を離さなかった。
ここで抜けば、アイリスの犠牲も、これまでの戦いも全てが無駄になる。
端末の画面では、進捗がようやく【60%】になったところだった。
(――そこだっ!)
ビャッコの瞳孔が鋭く収縮する。
サーバー群にも、アイリスのコックピットにも当たらない、ほんの一瞬の射線。
A.R.E.S.の照準補正がロックオンした瞬間、ビャッコは迷わずオファニムのトリガーを引いた。
ズガァァァンッ!!
無菌室の空気を震わせる重低音。放たれた大口径の徹甲弾が、スクラッパーの胴体を正確に捉え――る直前だった。
『――脅威検知。回避行動』
弾丸が着弾するコンマ数秒前、スクラッパーは異常な反応速度でアイアン・メイデンの左腕を強烈に蹴りつけ、斜め上方へと跳躍した。
ギャリィィィッ!!
高周波ブレードの足先が蹴り台にされた腕部装甲を抉り、激しい火花が散る。
ただでさえ装甲を削られて踏ん張りが利かなくなっていたところに、想定外の強烈な反動を受けたことで、ついにアイアン・メイデンの巨体が大きく体勢を崩した。
『ああっ……!?』
ガクンッ、と巨大な鉄の背中が傾く。
ビャッコの放った弾丸は空しく虚空を切り裂き、完璧だった防御陣形が崩れ、ルミナの頭上に、致命的で決定的な死角が生まれた瞬間だった。
『――対象ノ防壁崩壊ヲ確認。最優先目標ヲ排除シマス』
アイアン・メイデンを蹴り飛んだ勢いのまま、天井の最も高い位置にある太い配管へと張り付いたスクラッパー。
その四肢の先端への出力が最大まで引き上げられ、高熱によって禍々しい赤色に発光し始めた。
狙いはただ一つ。無防備に晒されたルミナの心臓と、その奥の端末だ。
『ルミナさん、逃げてッ!!』
体勢を崩したアイリスの絶叫が響く。だが、ルミナはコンソールから両手を離せない。
「だめ、あと少し……!」
『キシャァァァァァッ!!』
金属の咆哮。致死の赤光を帯びた鈍色の流星が、天井から一直線にルミナへと死のダイブを放つ。
(次弾装填じゃ間に合わない……!)
ビャッコは瞬時に悟った。体勢を立て直して銃口を向ける時間はない。
圧倒的な死の気配に、ルミナが覚悟を決めてきつく目を閉じた、その直後だった。
ガシャンッ!!
無菌室の硬い床に、愛用の重火器が乱暴に投げ捨てられる音が響いた。
「ルミナッ!!」
声と共に、強い力で突き飛ばされる。
目を開けたルミナの視界を覆ったのは、迫り来るブレードの赤光ではない。
自らの生身の体を盾にするように、ルミナとコンソールへ覆い被さるように飛び込んできた、ビャッコの背中だった。
GW中は喜びの一日一話投稿します。
皆様よい休日を!




