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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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君の名は

 会議室に沈黙が落ちる。

 二人とも——優秀が故に、処理しきれない事態に、遭遇した経験がない。


 だからこそ、分かる。

 今、それを初めて体験している。

 朝比奈は、頭を振る。

「……待って下さい。私も彼女を見てましたけど、無いでしょう?」

 朝比奈は聞きながら、自分の回答をもう一度考える。

「……いや。分からんか」

 そして小さく、呟く。

 端末を取り出すとどこかに連絡を入れた。

「……今、大丈夫か?」

「折り返し?あぁ……そうか。待ってる」

 通話を切る。

 ゆっくり息を吐く。

「もう一度、確認します」

 視線が戻る。

「調査対象は一人、なんですか?」

「そうだ」

 朝比奈は何かを考えながら尋ねる。

「……では、公園の女性は?」

「——あれは、ユリだ」

「……青い鳥かよ」

 小さく吐き捨てる。

「分かりました。承知しました」

 投げやりに、返す。

「……さっさと、名前でも何でも——聞いてください、やがれ」

 また沈黙する。

 ため息が出る。

「出来ないから、調べてる」

 彼女を前に口説く行為ができない。

「……マジか」

 朝比奈がこちらをまじまじと見る。

「アンタ、初恋童貞かよ」

 朝比奈は力が抜けたようにそのまま机に突っ伏した。


「分かりました」

「承知しました」

「全力で調べます。これで、いいですか」

 朝比奈は、眉間を揉む。

「ああ、頼んだ」

 そう言って、部屋を出る。

 自席には、部屋に篭っていた時に齎された連絡、書類、付箋が置いてあった。

 その中に——

 一つだけ、異質な封筒。

 綺麗な文字で、忘れ物と書かれてあった。

 景は封を開ける。

 中から出てきたのは、見覚えのあるササミ味のチュール。

 手が、止まる。


「おい。この封筒、誰が届けに来たか見たか?」

「……さぁ?」

「誰か、見てないか?」

 視線が散る。

 だが——はっきり覚えている者はいない。


 それでも、ここにある。

 彼女からの接触。


 ——そう思った瞬間、ほんの僅かに希望が湧く。


 だが。

 その横で、

「メール便です」

「どうぞ」

 そう言って、配って歩く女性に誰も気を止めるものはいなかった。


※※※

 夜半。

 朝比奈の端末に通知が入る。

 すぐに通話に切り替える。

「姉さん?昼はお稽古と挨拶」

 版で押したように同じ答えだ。


「…。違うだろう」

「そう言う決まりだから……」

仕方ないよね?とさゆりは笑う。

「だって、お客さんはここに夢を買いに来てるんだよ?」

「学生でーす、とか未成年です。は、見りゃ分かるから止められないケド、芸妓の姉さん達は違うじゃん?」


 ——花街の常識。


「さゆりちゃん、何か欲しいモノないかな?」

 朝比奈は猫撫で声で尋ねる。

「何それ。買収?」

「やだよー。もぅ!」

 急に冷えた声で答える。

「よくない?」

「もう、ココに来れば多分会えるんだし」

 知らないケド。っと小さく呟く声も拾う。

「さゆりちゃん、それじゃ困るんだよ……」

「知らない」

「大人の事情は知らない」

 強い拒絶。

 この際、情報はオープンにした方がいいか、朝比奈は攻め方を変える。


「ウチの上司、ユリさんを都内で見つけたんだよね……」

「そう。それで?」

「名前、本名知らないかな?」

「聞けばいいじゃん」

「それが出来ないから聞いてるんでしょ……」

「なんなの?ホント、暫く連絡しないで!」

——切れる。

 通話が、途切れた。


※※※

 帰宅が深夜近くになった。

 流石にこの時間はいないと思いながらも公園の方へ足を向けてしまう。


 ストレートの髪に、スウェット姿の女が猫を撫でている。

 猫は独特な模様なので、間違える事はない。

 チャッピーだ。


 女は、昼間とは全く違う顔の”ユリ“だった。

 彼女は、日光でみたユリに近かった。

 いや、それ以上に目を引いた。

「こんばんは」

 声をかけると彼女は驚いて跳ねた。

「あっ。こんばんは」

 見知った顔であるとわかると、少しだけ力が抜ける。


「チュール、受取ったよ」

「良かった」

 彼女が朗らかに笑う。

「家、近いの?」

「え?」

「いや、詮索じゃなくて。昼間と違う服装だから」

 視線が、落ちる。

 ラフなスウェット。

 学校名と名字が刺繍されている。


「三浦さん?」

「はい?」

 景は視線をジャージに戻す。

「それ、学生の頃の?」

「あぁ、家で着る分には問題ないかなって。少し、くたびれてますけど……」

 と笑う。


「でも、誰も私なんて気にしませんから……」

「そうか?」

「そうですよ。慣れてます」

「さて、」

と言いながら立ち上がる。

「遅いんで帰ります。貴方も気をつけて」

「あぁ」

 そのまま、別れる。


 残るのは——夜の空気と撫でられていた猫だけ。


 翌朝。

 早速、出勤してきた朝比奈を捕まえる。


「彼女の名字が分かった」

「へぇ……聞けたんですか」

 朝比奈は晴れ晴れとした笑顔で言う。

「おめでとうございます。じゃあ、この件は終わりで——」

「よくない」

 被せるように言う。

「調べろ」

「この会社にいる、“三浦”だ」

「名前は?」

「知らん」

「……何で、名字が分かったんですか?」

「書いてあった」

「は?」

「学生ジャージだ」

「学校名は、京都の地名だった」

「……個人情報、丸出しじゃないですか」

 朝比奈はあり得ない、という顔をする。

 だが——これで、掴める。

 ——はずだ。


 昼前。

 顔を顰めた朝比奈が、近づいてくる。

「部長、名字、“三浦”で間違いないんですよね?」

 疑り深く聞く。

「返事をしていた」

「……そうですか」

 朝比奈がため息を吐く。

「社内、社員、派遣、業者、凡ゆるデータベースを洗いましたが——、」

「三浦、多すぎます。しかも女性は旧姓も登録されています。絞りきれません」

「経歴は足したか?」

「入れました。ですが、引っかからない」

 暫し沈黙が支配する。

「一体、どこの“三浦”なんでしょうね」

 朝比奈は呆れたように言う。

「学校の卒業生は?」

「貴方、本気で言ってます?」

 朝比奈は睨むように間髪入れずに、

「出来るわけないでしょう」

 と冷たく、言い放つ。

「愛人の身元調査くらいですよ。ウチでも、許可が出るのは……」

「それでいい」

「よくない!」

 朝比奈が被せるように否定する。

「何故だ?」

「そもそも——、愛人は、名字も名前も、はっきりしてる」

 一つ呼吸してから、

「こんな情報、論外です」

「落ちつけ。昼だ、お前も行くか?」

「いえ、まだやる事あるんで」

 朝比奈はそう言い残し、席に戻る。


 昼間の公園。

 ペンチには、いつもの巻き髪の彼女が先に来て本を読んでいた。

 今日はチャッピーがいない。

「君の名は。か……」

 隣りに座りながら、タイトルを読む。

 彼女は本から目を上げて、こちらを見る。

「こんにちは。昨晩ぶりですね」

 にこやかに、彼女が笑う。

「髪、いつも巻いてるんだ?」

「えぇ、流行りでしょ?」

「そうか……」

 一つ呼吸を置いてから、

「君は、下ろした髪も綺麗だったが?」

「口説き文句?」

「は?」

「今、同じ事が書いてありましたよ?」

 彼女がクスクスと笑う。

 そんな彼女を見つめながら、

「君の名は?」

 今度は、真面目に聞いてみる。

 その時、休憩終了5分前に合わせたアラームが、鳴る。

 何も答えずに、彼女は本を閉じて帰り支度をする。

 ゆっくり歩き出し、そして振り向く。

「マチコ!」

 と満面の笑みで去って行った。


「マチコですか。それは、昭和の方ですね」

 朝比奈は頭痛がすると言う顔で、

「大奥様のお母様の時の流行りだそうですよ」

 と淡々と返してくる。


 彼女の笑顔は可愛いかったが、ズレている。

「久しぶりに、本気で言ったんでしょ?残念でしたね」

 同情の声すら、ない。

 ただ沈黙する。


「今度、夜に会ったら、”月が綺麗ですね”と言えばいい」

 朝比奈は投げやりに言う。

「愛してる。は通じないでしょ?」

 それも良いかもしれない。

お読みくださって、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
マチコw 確かに彼女には月が綺麗ですね くらいが丁度いいのかもしれない。どこかズレてて、掴めない。 掴もうとするとすり抜けますね! 三浦さん……一体どこの三浦さんなんだろう……恋愛ミステリー。笑 …
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