他の男には……
日光。
これはただの旅行だ。
「……楽しみですね」
小さく、聞こえた声。
誰の言葉か、分からない。
それでいい。
皆が少しずつ同じ気持ちになる。
羽生で、休憩のために一度車を降りた。
混雑はしていないが、他の旅行者の集団はチラホラと見える。
「ここ、面白いですよ」
さゆりが先に立ち、サービスエリア内を歩く。
木の匂い。
低い軒。
どこか、作られた昔。
「わぁ……」
ユリが、小さく声を漏らす。
歩幅が、少しだけ軽い。
——雰囲気が違う。
宴席では、見ない顔に視線が外せない。
「何か、食べますか?」
ユリが振り返る。
こちらを見る。
「……いや、大丈夫だ」
それだけ。
それ以上が出てこない。
『鬼平犯科帳』をモチーフにした江戸の街並みが再現されている。
「私、吉右衛門さんの鬼平、好きなんです」
前を歩いていたユリが、俺の隣に移動してくる。
自然な声。
「……ああ」
俺は先程から同じ言葉しか出てこない。
だが、会話としては成立している。
——なのに、届かない。
説明書きを読む横顔。
伏せた睫毛。穏やかな声。
情報が、一度に押し寄せる。
分けられない。
処理が、追いつかない。
何を見ているのか、分からなくなる。
ただ、視線だけが残る。
離せない。
新緑と言うには、もう初夏の気温。
雲一つない、強い光。
「ソフト食べます。姉さんも、食べましょう」
フードコートへ誘うさゆりが、ユリの手を引く。
おろしたままの、髪が背中で揺れている。
視線が、外せない。
「……」
残された男性陣でテーブルを確保する。
向かいに、朝比奈が座る。
一度だけ、こちらを見る。
呆れた顔で、
「いい大人が、だらしない」
低く小さな声で呟くのが聞こえる。
「……そうか」
一瞬遅れて、返す。
二人が戻ってきた。
「ソフト、来ましたよ」
ユリが、無邪気に笑う。
白い先端が、少し傾く。
危うい。
手が、伸びかけて止まる。
何を、しようとしたのか。
自分でも、分からない。
「先、食べます?」
ユリの何気ない、一言。
「……ああ」
一拍遅れて、返す。
それだけ。
——そのはずだった。
ユリが、少しだけ寄る。
距離が、詰まる。
「はい、あーん」
ユリが笑う。
時間が、止まる。
音が、消える。
ただ、その動きだけが残る。
近い、近すぎる。
——理解が、追いつかない。
手も、言葉も、出てこない。
完全に、動きが止まった。
「…あぁ」
クリームを、舐める。
甘い。
気温との温度差で、少しだけ柔らかい。
ユリの指に、クリームの白が伝う。
伝うものを追いかけてユリの舌を動かす。
迷いなく、そのままペロリと指を舐める。
何事もなかったように、鞄からティッシュを出し軽く拭く。
その一瞬で、夜を想像した。
想像してはいけない未来が、一瞬だけ脳裏を過った。
「早く、溶けちゃう」
無邪気に少しだけ、急かす。
そのまま、カップごと手を掴む。
彼女の指先まで、一緒に。
「キミも、食べなさい」
言い訳のように、言う。
「冷たくて、気持ちいい」
ユリが、少し笑う。
「美味しいです」
——自分の言動が、噛み合っていない。
向かいで、さゆりが一人ソフトを食べている。
視線だけが、こちらを見ている。
隣りに座る朝比奈に何か言ったのだろう。
さゆりの食べかけのソフトクリームを食べた。
「あぁ!」
さゆりが、声を上げる。
「減った!」
騒ぐ声がすぐに、笑いに変わる。
軽いやり取りのはずなのに。
どこか、戻れない感じがする。
ただ、ソフトクリームを食べただけなのに…。
車に戻って来る際に一悶着あったようだが朝比奈が片付けた。
さゆりは、少し気が昂っていたがユリに宥められて落ち着いた。
その後は問題なく予定地に向かった。
昼食に訪れた、日本有数のクラシックホテル。
その看板に相応しい、どっしりとした洋風建築。
重い扉、磨かれた床。
空気が、静かに整っている。
「こちらのお席をご用意致しました」
支配人が、一歩引いて案内する。
軽く頷く。
風景。
距離感。
ユリは兎も角、さゆりは気後れするかと思ったが違った。
自分の席に、静かに座る。
余計な動きがない。
「慣れているな」
「私たち、富士屋ホテルに行くことがありますから」
さらりと返す。
「でも、こちらもとても素敵ですね」
ユリも少しだけ、視線を巡らせる。
「戦前からある、近代日本の黎明期を支えた歴史ある、日本三大クラシックホテルの一角だけあります」
その言葉に、控えていた支配人たちがわずかに表情を緩める。
「光栄です」
空気を崩さず、応じる。
料理が運ばれる。
「ニジマスのソテーです」
香りが、静かに立つ。
ナイフを入れ、フォークで運ぶ。
口に入れる、咀嚼する、飲み込む。
——静かだ。
音は、ほとんどない。
だが頭の片隅が、痺れている。
取れない。
さっきのソフトクリームの感触が消えないまま、時だけが過ぎていく。
帰り際。
「次回は是非、皆様で当店のブレックファーストをお楽しみ頂きたいです」
距離を保ったまま丁寧に支配人が、穏やかに微笑む。
「こちらのパン、有名ですから…」
ユリが、柔らかい声で自然に返す。
「是非また参ります」
「きっとですよ」
支配人の表情が、さらに緩む。
好々爺のようだ。
——珍しい。
普段は、必要以上に話さないはずの人間が。ここまで、崩れる。
それだけで、十分だった。
——面白くない。
理由は、分かっている。
チェックを済ませる。
これ以上、場に残らない。
そのまま、立ち去る。
少し面白くない気分のまま、東照宮の境内に続く階段を足早に登る。
後ろの気配が、一瞬だけ途切れた。
振り返るとユリが、蹲っている。
慣れない靴に、足を取られたらしい。
さゆりが、慌てて鞄を探りテープを当てている。
急いでユリ達の元へ戻る。
「どうした?」
「……いえ、ちょっと」
ユリは顔を上げて、笑う。
「すぐに行きます。大丈夫」
——違う。
ティッシュに滲む血を見て、頭に熱が上がる。
「大丈夫、じゃないだろう…。こちらに来なさい」
言うより先に、体が動く。
ユリを抱き上げる。
羽のように軽いとは言わないが、思ったほどの体重を感じない。
「ひゃっ」
ユリは驚いた声を上げて、そのまま自然と俺の首元に腕が回る。
近い。
息が、触れる。
階段を、登る。
心配そうな、視線と気配が後ろからついてくる。
開けた場所のベンチに、ユリを下ろす。
「この場所は、キミはここまでだ」
静かに、告げた。
ユリは、明らかにしょげた顔で座る。
だが逆らわない。
「姉さん、あの建物が鳴き龍ですよね?」
さゆりが、指をさす。
「そう」
「私、姉さんの代わりに鳴かせてきますよ!」
明るく言って、離れていく。
その後を、朝比奈も追う。
二人が、距離を取る。
残るのは、静けさ。
「私、今日は仕事で来たのに……」
ぽつりと、落ちる。
「別に、いいだろう」
「良くありません」
思ったよりはっきりと、返る言葉。
「また、来ればいい」
それで終わらせる。
ユリが、少しだけ視線を落とす。
困惑。
それから、ほんの少しの寂しさ。
「申し訳ございません」
「何がだ?」
言葉を選ぶように、ゆっくりと間がある。
「せっかく、楽しみにしていらっしゃったのに……、観光…」
それが、答えのようにユリが言う。
違う。
噛み合っていない。
さゆり達が戻って来た。
「さっきより、顔色良くなりましたね!」
軽い調子で言いながら、テキパキとユリの状態を確認する。
手際がいい、無駄がない。
「眠り猫、奥の院なんです。限定キーホルダー欲しいし、行ってきてもいいですか?お兄さん」
さゆりが確認するように尋ねてくる。
「あぁ、ゆっくり行って来なさい」
それだけで通じる。
「姉さん、キーホルダーいります?」
「ありがとう。でも他の猫はチャッピーが嫌がるから……」
少し困ったように笑って、首を振る。
「そうですか。30分で戻ります」
「オマエは?」
「俺も久しぶりに健康な運動してきます」
朝比奈が軽く肩を回す。
そのまま二人で離れていく。
すぐに遠ざかる声。
「エッチー!」
甲高い声が、境内に響く。
ユリが、思わず笑う。
堪えきれないように。
柔らかく、崩れる。
——あぁ。
この顔も、見たかった。
一つ、終わる。
用意してきたものが、きちんと届いた感覚。
小さく、満たされる。
——だが。
足りない。
次が欲しくなる。
今度は、もう少し違う顔を。
笑いじゃないもの。
困る顔。
迷う顔。
——泣く顔。
見てみたい、と思ってしまう。
次から次へと、浮かぶ。
抑えが利かない。
腹の奥に、熱が溜まる。
抜けない。
消えない。
入れ替わる観光客を、二人で眺める。
人の流れ、足音、ざわめき。
——その中で、ここだけが静かだ。
ユリと二人肩を並べる。
この距離が、当たり前に感じてくる。
そこへ、軽く言い合いながら二人が戻ってくる。
そして、一枚の紙を差し出す。
「コレ、上で観光客の人に貰ったんです」
雑に書かれた、案内のようなもの。
「ベリーデンジャー。しかし、最高!って…。時間があれば、行ってみたいんですが…」
視線が、こちらに向く。
「予定、どうです?」
「今なら、まだ間に合うでしょう」
朝比奈が、短く言う。
「行こうか」
それで、決まる。
そのまま、ユリの手を取る。
抵抗はない、離されない。
それを、肯定と受け取る。
鬼怒川ライン下りの船着場。
船頭たちが、注意事項を告げている。
「あっ!そこの美形カップル!」
声が飛ぶ。
「女性、外側ね。重心が傾く!」
さゆりが、軽く手を挙げる。
「ワタシ?」
「残念!儚げ系の他!」
ユリを指す。
「同じことなんで、隣の船の説明を聞いてくださいね」
軽い。
雑にも見える。
——だが。
「この季節ね、水量が多いから割と大変なんですよ」
「だからね、水被っても怒っちゃやーよ!」
笑いを取る。
同時に、舵は正確だ。
悲鳴が上がる。
水音、笑い声が混ざる。
さっきまでの、軽さはない。
船頭の目が、変わる。
川の流れを読む。
外さない。
そして——
「あっ」
庇う間もなく、水の塊が、降る。
避けられない。
「キャッ」
小さな悲鳴。
ユリの全身と、自分の半身が、一瞬で濡れる。
水は思ったより冷たい。
重い。
一瞬、息が止まる。
流れが緩んだところで、船頭がフェイスタオルをこちらに投げる。
「お兄さん、ごめんね!」
受け取ったタオルをユリに渡す。
ユリは、
「ありがとうございます」
と言いながら、水のかかった顔を拭う。
「降りたら大きいタオル売ってるから、お姉さんにかけてあげてね」
そして、ニヤリと笑う。
「眼福!ありがとう!」
そのまま、自分の仕事へ戻っていく。
また、同じような事故があちこちで起こる。
笑いと、悲鳴。
混ざりながら、船は進む。
やがて、船着場。
「面白かったね」
さゆりが笑う。
ユリも、笑っている。
足元が少し揺れる。
二人とも、よろけながら立ち上がる。
桟橋で客たちが救命胴衣を返す。
同じように、外す。
その横で——
視線が、止まる。
「……なっ」
言葉が、出ない。
薄いワンピースの生地が、ユリの肌に張り付く。
水を含んだ布は、本来かくれるはずの線まで浮かび上がらせる。
視線が止まる。
思考も。
——全部。
目を逸らすべきだった。
だが、遅い。
後ろで、気配が動く。
振り返ると、さっきの船頭がニヤニヤと見ている。
「……タオルをくれ!すぐに!」
思わず、声が強くなる。
その瞬間、掴んでいたユリの手がびくりと震える。
潤む瞳。
濡れたままの、無防備な姿。
息が、浅くなる。
——まずい。
どこかで、分かっている。
それでも、止まらない。
自分の中で、何かが焼き切れる音がした。
駐車場への帰り道。
車に乗るまで、視線を遮る。
人の流れを、切るように進む。
見せない、見せたくない、他の男には。
当然のように、ユリをタオルで包む。
そのまま、抱き上げる。
「重いので、歩きます」
上で、少し暴れる。
落としはしないが落ち着かない。
——危ない。
ぴしゃりと尻を打つ。
「じっとしていろ。危ない」
低く、押さえる。
それで止まる。
朝比奈達が、無言で道を作る。
短い距離がとても長く感じる。
ようやく車内へたどり着いた。
ユリとさゆりを、押し込む。
ドアが閉まる。
空気が、切り替わる。
朝比奈の顔が、歪む。
「……デンジャーで、最高、か」
吐き捨てる。
皮肉にもならない。
血が、まだ熱い。
一度、下げたい。
車内を、見る。
さゆりが、手早く着替えをさせている。
申し訳なさそうにしている。
ユリが小さく首を振る。
励ますように、さゆりの肩を軽く叩く。
「……」
「景さん、俺にもタバコください」
「あぁ……」
短く返す。
火をつける。
煙を吸う。
肺に落とす。
「お前が俺の名前呼ぶの、久しぶりだな」
「自分の顔見てから、言ってください」
互いに、それ以上は言わない。
余裕がない。
煙だけが、ゆっくりと上がる。
ようやく、少しだけ呼吸が戻る。
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