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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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5/26

他の男には……

 日光。

 これはただの旅行だ。

「……楽しみですね」

 小さく、聞こえた声。

 誰の言葉か、分からない。

 それでいい。

 皆が少しずつ同じ気持ちになる。


 羽生で、休憩のために一度車を降りた。

 混雑はしていないが、他の旅行者の集団はチラホラと見える。


「ここ、面白いですよ」

 さゆりが先に立ち、サービスエリア内を歩く。

 木の匂い。

 低い軒。

 どこか、作られた昔。


「わぁ……」

 ユリが、小さく声を漏らす。

 歩幅が、少しだけ軽い。


——雰囲気が違う。

 宴席では、見ない顔に視線が外せない。


「何か、食べますか?」

 ユリが振り返る。

 こちらを見る。


「……いや、大丈夫だ」

 それだけ。

 それ以上が出てこない。


『鬼平犯科帳』をモチーフにした江戸の街並みが再現されている。

「私、吉右衛門さんの鬼平、好きなんです」

 前を歩いていたユリが、俺の隣に移動してくる。

 自然な声。


「……ああ」

 俺は先程から同じ言葉しか出てこない。

 だが、会話としては成立している。


——なのに、届かない。


 説明書きを読む横顔。

 伏せた睫毛。穏やかな声。


 情報が、一度に押し寄せる。

 分けられない。


 処理が、追いつかない。

 何を見ているのか、分からなくなる。


 ただ、視線だけが残る。

 離せない。


 新緑と言うには、もう初夏の気温。

 雲一つない、強い光。


「ソフト食べます。姉さんも、食べましょう」

 フードコートへ誘うさゆりが、ユリの手を引く。

 おろしたままの、髪が背中で揺れている。

 視線が、外せない。


「……」

 残された男性陣でテーブルを確保する。

 向かいに、朝比奈が座る。

 一度だけ、こちらを見る。


 呆れた顔で、

「いい大人が、だらしない」

 低く小さな声で呟くのが聞こえる。

「……そうか」

 一瞬遅れて、返す。


 二人が戻ってきた。

「ソフト、来ましたよ」

 ユリが、無邪気に笑う。

 白い先端が、少し傾く。

 危うい。

 手が、伸びかけて止まる。


 何を、しようとしたのか。

 自分でも、分からない。


「先、食べます?」

 ユリの何気ない、一言。


「……ああ」

 一拍遅れて、返す。

 それだけ。

——そのはずだった。


 ユリが、少しだけ寄る。

 距離が、詰まる。


「はい、あーん」

 ユリが笑う。

 時間が、止まる。

 音が、消える。


 ただ、その動きだけが残る。

 近い、近すぎる。

——理解が、追いつかない。

 手も、言葉も、出てこない。

 完全に、動きが止まった。

「…あぁ」


 クリームを、舐める。

 甘い。

 気温との温度差で、少しだけ柔らかい。


 ユリの指に、クリームの白が伝う。

 伝うものを追いかけてユリの舌を動かす。

 迷いなく、そのままペロリと指を舐める。

 何事もなかったように、鞄からティッシュを出し軽く拭く。

 その一瞬で、夜を想像した。

 想像してはいけない未来が、一瞬だけ脳裏を過った。

 


「早く、溶けちゃう」

 無邪気に少しだけ、急かす。

 そのまま、カップごと手を掴む。

 彼女の指先まで、一緒に。


「キミも、食べなさい」

 言い訳のように、言う。

「冷たくて、気持ちいい」

 ユリが、少し笑う。

「美味しいです」

——自分の言動が、噛み合っていない。


 向かいで、さゆりが一人ソフトを食べている。

 視線だけが、こちらを見ている。


 隣りに座る朝比奈に何か言ったのだろう。

 さゆりの食べかけのソフトクリームを食べた。

「あぁ!」

 さゆりが、声を上げる。

「減った!」

 騒ぐ声がすぐに、笑いに変わる。


 軽いやり取りのはずなのに。

 どこか、戻れない感じがする。

 ただ、ソフトクリームを食べただけなのに…。



 車に戻って来る際に一悶着あったようだが朝比奈が片付けた。

 さゆりは、少し気が昂っていたがユリに宥められて落ち着いた。

 その後は問題なく予定地に向かった。


 昼食に訪れた、日本有数のクラシックホテル。

 その看板に相応しい、どっしりとした洋風建築。


 重い扉、磨かれた床。

 空気が、静かに整っている。


「こちらのお席をご用意致しました」

 支配人が、一歩引いて案内する。

 軽く頷く。


 風景。

 距離感。


 ユリは兎も角、さゆりは気後れするかと思ったが違った。

 自分の席に、静かに座る。

 余計な動きがない。

「慣れているな」

「私たち、富士屋ホテルに行くことがありますから」

 さらりと返す。

「でも、こちらもとても素敵ですね」

 ユリも少しだけ、視線を巡らせる。


「戦前からある、近代日本の黎明期を支えた歴史ある、日本三大クラシックホテルの一角だけあります」

 その言葉に、控えていた支配人たちがわずかに表情を緩める。


「光栄です」

 空気を崩さず、応じる。


 料理が運ばれる。

「ニジマスのソテーです」

 香りが、静かに立つ。

 ナイフを入れ、フォークで運ぶ。

 口に入れる、咀嚼する、飲み込む。


——静かだ。


 音は、ほとんどない。

 だが頭の片隅が、痺れている。

 取れない。

 さっきのソフトクリームの感触が消えないまま、時だけが過ぎていく。


 帰り際。

「次回は是非、皆様で当店のブレックファーストをお楽しみ頂きたいです」

 距離を保ったまま丁寧に支配人が、穏やかに微笑む。


「こちらのパン、有名ですから…」

 ユリが、柔らかい声で自然に返す。

「是非また参ります」

「きっとですよ」

 支配人の表情が、さらに緩む。

 好々爺のようだ。


——珍しい。

 普段は、必要以上に話さないはずの人間が。ここまで、崩れる。


 それだけで、十分だった。

——面白くない。

 理由は、分かっている。

 チェックを済ませる。

 これ以上、場に残らない。


 そのまま、立ち去る。

 少し面白くない気分のまま、東照宮の境内に続く階段を足早に登る。


 後ろの気配が、一瞬だけ途切れた。

 振り返るとユリが、蹲っている。

 慣れない靴に、足を取られたらしい。


 さゆりが、慌てて鞄を探りテープを当てている。

 急いでユリ達の元へ戻る。

「どうした?」

「……いえ、ちょっと」

 ユリは顔を上げて、笑う。

「すぐに行きます。大丈夫」


——違う。


 ティッシュに滲む血を見て、頭に熱が上がる。

「大丈夫、じゃないだろう…。こちらに来なさい」

 言うより先に、体が動く。

 ユリを抱き上げる。

 羽のように軽いとは言わないが、思ったほどの体重を感じない。

「ひゃっ」

 ユリは驚いた声を上げて、そのまま自然と俺の首元に腕が回る。


 近い。

 息が、触れる。

 階段を、登る。

 心配そうな、視線と気配が後ろからついてくる。


 開けた場所のベンチに、ユリを下ろす。

「この場所は、キミはここまでだ」

 静かに、告げた。

 ユリは、明らかにしょげた顔で座る。

 だが逆らわない。


「姉さん、あの建物が鳴き龍ですよね?」

 さゆりが、指をさす。

「そう」

「私、姉さんの代わりに鳴かせてきますよ!」

 明るく言って、離れていく。

 その後を、朝比奈も追う。


 二人が、距離を取る。

 残るのは、静けさ。


「私、今日は仕事で来たのに……」

 ぽつりと、落ちる。


「別に、いいだろう」

「良くありません」

 思ったよりはっきりと、返る言葉。

「また、来ればいい」

 それで終わらせる。

 ユリが、少しだけ視線を落とす。

 困惑。

 それから、ほんの少しの寂しさ。

「申し訳ございません」

「何がだ?」

 言葉を選ぶように、ゆっくりと間がある。

「せっかく、楽しみにしていらっしゃったのに……、観光…」

 それが、答えのようにユリが言う。


 違う。

 噛み合っていない。


 さゆり達が戻って来た。

「さっきより、顔色良くなりましたね!」

 軽い調子で言いながら、テキパキとユリの状態を確認する。

 手際がいい、無駄がない。


「眠り猫、奥の院なんです。限定キーホルダー欲しいし、行ってきてもいいですか?お兄さん」

 さゆりが確認するように尋ねてくる。

「あぁ、ゆっくり行って来なさい」

 それだけで通じる。

「姉さん、キーホルダーいります?」

「ありがとう。でも他の猫はチャッピーが嫌がるから……」


 少し困ったように笑って、首を振る。

「そうですか。30分で戻ります」


「オマエは?」

「俺も久しぶりに健康な運動してきます」

 朝比奈が軽く肩を回す。

 そのまま二人で離れていく。

 すぐに遠ざかる声。


「エッチー!」


 甲高い声が、境内に響く。

 ユリが、思わず笑う。

 堪えきれないように。

 柔らかく、崩れる。


——あぁ。

 この顔も、見たかった。

 一つ、終わる。

 用意してきたものが、きちんと届いた感覚。


 小さく、満たされる。


——だが。

 足りない。

 次が欲しくなる。


 今度は、もう少し違う顔を。

 笑いじゃないもの。


 困る顔。

 迷う顔。

——泣く顔。

 見てみたい、と思ってしまう。


 次から次へと、浮かぶ。

 抑えが利かない。


 腹の奥に、熱が溜まる。


 抜けない。

 消えない。


 入れ替わる観光客を、二人で眺める。


 人の流れ、足音、ざわめき。

——その中で、ここだけが静かだ。

 ユリと二人肩を並べる。

 この距離が、当たり前に感じてくる。


 そこへ、軽く言い合いながら二人が戻ってくる。

 そして、一枚の紙を差し出す。

「コレ、上で観光客の人に貰ったんです」

 雑に書かれた、案内のようなもの。

「ベリーデンジャー。しかし、最高!って…。時間があれば、行ってみたいんですが…」

 視線が、こちらに向く。

「予定、どうです?」

「今なら、まだ間に合うでしょう」

 朝比奈が、短く言う。


「行こうか」

 それで、決まる。


 そのまま、ユリの手を取る。

 抵抗はない、離されない。

 それを、肯定と受け取る。


 鬼怒川ライン下りの船着場。

 船頭たちが、注意事項を告げている。


「あっ!そこの美形カップル!」

 声が飛ぶ。

「女性、外側ね。重心が傾く!」

 さゆりが、軽く手を挙げる。

「ワタシ?」

「残念!儚げ系の他!」

 ユリを指す。


「同じことなんで、隣の船の説明を聞いてくださいね」

 軽い。

 雑にも見える。


——だが。

「この季節ね、水量が多いから割と大変なんですよ」

「だからね、水被っても怒っちゃやーよ!」

 笑いを取る。

 同時に、舵は正確だ。

 悲鳴が上がる。

 水音、笑い声が混ざる。


 さっきまでの、軽さはない。

 船頭の目が、変わる。


 川の流れを読む。

 外さない。

 そして——


「あっ」

 庇う間もなく、水の塊が、降る。

 避けられない。

「キャッ」

 小さな悲鳴。

 ユリの全身と、自分の半身が、一瞬で濡れる。


 水は思ったより冷たい。

 重い。

 一瞬、息が止まる。

 

 流れが緩んだところで、船頭がフェイスタオルをこちらに投げる。

「お兄さん、ごめんね!」

 受け取ったタオルをユリに渡す。

 ユリは、

「ありがとうございます」

 と言いながら、水のかかった顔を拭う。

「降りたら大きいタオル売ってるから、お姉さんにかけてあげてね」

 そして、ニヤリと笑う。

「眼福!ありがとう!」

 そのまま、自分の仕事へ戻っていく。

 また、同じような事故があちこちで起こる。

 笑いと、悲鳴。

 混ざりながら、船は進む。


 やがて、船着場。

「面白かったね」

 さゆりが笑う。

 ユリも、笑っている。

 足元が少し揺れる。

 二人とも、よろけながら立ち上がる。

 桟橋で客たちが救命胴衣を返す。

 同じように、外す。


 その横で——

 視線が、止まる。


「……なっ」

 言葉が、出ない。

 薄いワンピースの生地が、ユリの肌に張り付く。

 水を含んだ布は、本来かくれるはずの線まで浮かび上がらせる。


 視線が止まる。

 思考も。

——全部。


 目を逸らすべきだった。

 だが、遅い。


 後ろで、気配が動く。

 振り返ると、さっきの船頭がニヤニヤと見ている。


「……タオルをくれ!すぐに!」

 思わず、声が強くなる。

 その瞬間、掴んでいたユリの手がびくりと震える。

 潤む瞳。

 濡れたままの、無防備な姿。

 息が、浅くなる。

——まずい。


 どこかで、分かっている。

 それでも、止まらない。


 自分の中で、何かが焼き切れる音がした。

 

 駐車場への帰り道。

 車に乗るまで、視線を遮る。

 人の流れを、切るように進む。


 見せない、見せたくない、他の男には。

 当然のように、ユリをタオルで包む。

 そのまま、抱き上げる。


「重いので、歩きます」

 上で、少し暴れる。

 落としはしないが落ち着かない。

——危ない。


 ぴしゃりと尻を打つ。

「じっとしていろ。危ない」

 低く、押さえる。

 それで止まる。

 朝比奈達が、無言で道を作る。

 短い距離がとても長く感じる。


 ようやく車内へたどり着いた。

 ユリとさゆりを、押し込む。

 ドアが閉まる。

 空気が、切り替わる。


 朝比奈の顔が、歪む。

「……デンジャーで、最高、か」

 吐き捨てる。

 皮肉にもならない。


 血が、まだ熱い。

 一度、下げたい。

 車内を、見る。


 さゆりが、手早く着替えをさせている。

 申し訳なさそうにしている。

 ユリが小さく首を振る。

 励ますように、さゆりの肩を軽く叩く。

「……」

「景さん、俺にもタバコください」

「あぁ……」

 短く返す。


 火をつける。

 煙を吸う。

 肺に落とす。


「お前が俺の名前呼ぶの、久しぶりだな」

「自分の顔見てから、言ってください」


 互いに、それ以上は言わない。

 余裕がない。


 煙だけが、ゆっくりと上がる。


 ようやく、少しだけ呼吸が戻る。

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