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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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【閑話】ある、特別幸せな一日①

「……おはようございます」


「本日は、一日密着させていただきます。よろしくお願いします」


 軽井沢の森に囲まれた別荘へ、撮影スタッフが到着した。

 まだ朝の空気は冷たい。

 白い息が、少しだけ見える。


 瑠璃と葵は、支度の為に景と馨より先に会場へ入る予定だったが……。


「それじゃあ、新婦様方はこちらへ」

 スタッフに促され、二人が歩き出す。


 その前に。


「景さん……、後でね」


 瑠璃が、少しだけ振り返る。


「あぁ。待って瑠璃」


 景が短く返す。

 互いに、名残惜しそうな視線が交錯する。


 だが、その後ろでは……。


「待って、葵ちゃん」

 馨が、葵についていこうとする。


「私も一応、新婦なんだし……。一緒に行っても良いんじゃない?」

「ダメです、馨」

 葵が即答する。


「何で?」

「初見は式場です。景さんも『待て』されてるでしょう?」


「……」


 馨が、少し不満そうな顔をする。

 その様子に、スタッフ達が小さく笑った。


 映像には、静かに見つめ合う景と瑠璃。

 そして、駄々を捏ねる馨を慣れた様子で宥める葵。

 対照的な二組の空気が、朝の光の中へ映っていた。



 真っ白な手袋。

 白のネクタイ。

 いつもの運転手が、静かに車のドアを開けて待っていた。


「本日は、おめでとうございます」


 控えめに。

 だが、心から祝うような声だった。


「ありがとうございます」


 瑠璃と葵が、それぞれ小さく頭を下げる。

 スタッフ達も慌ただしく乗り込み、車はゆっくりと走り出した。


 軽井沢の森を抜け、会場へ向かう。

 車内に、大きな会話は無い。


 葵は、窓の外を見ていた。

 瑠璃は、膝の上で静かに指を組んでいる。


 二人とも、少しだけ緊張していた。


 エンジン音だけが、静かに響く。


 その空気を壊さないように、運転手も余計な言葉は挟まない。


 ただ。

 バックミラー越しに、一度だけ優しく目を細めていた。


 会場へ到着すると、二人はそのまま新婦控室へ案内された。


 控室は広い。

 大きな窓から柔らかな光が差し込む。

 白を基調とした静かな空間。


 既に、ドレスやアクセサリー類が整えられていた。


「失礼します」


 スタッフ達が慌ただしく準備を始める。

 その様子も、メイキング用のカメラが静かに追っていた。


「では、お支度前に少しだけ」

 スタッフが、柔らかく声を掛ける。


「今のお気持ち、聞かせて頂いてもいいですか?」


 先に視線を向けられた瑠璃は、少しだけ困ったように笑った。


「……緊張しています」


 小さな声。

 緊張が滲む。


「こんなに、ちゃんとして頂いて……」

「まだ少し、現実感がありません」


 スタッフが優しく頷く。

 次に、葵へカメラが向く。


 葵は、静かに笑った。


「緊張は、しています。でも……」

 一度、言葉を選ぶように間を置く。


「ここへ入れる日が来るなんて、まだ夢みたいです」

 その声は穏やかだった。


 長い時間をかけて、ようやく辿り着いた人の声。

 部屋に、少しだけ静かな空気が落ちる。


 その横で、瑠璃がそっと葵を見た。

 葵も気づき、小さく笑い返す。


 その何気ない視線すら。

 今日の映像には、大切に残されていく。



 数ヶ月前からこの日の為に、二人の肌は丁寧に整えられてきた。


 睡眠。

 食事。

 保湿。


 細かな調整を重ね、ようやく今日を迎える。

 プロの手が、最後のスキンケアを施していく。


 化粧水。

 美容液。

 ゆっくりと、肌へ馴染ませる。


 首筋から、デコルテラインまで入念に整えられていった。


「お肌、本当に綺麗ですね」

 スタッフが、思わず感嘆を漏らす。


 瑠璃は、少し困ったように微笑んだ。

 今日の瑠璃は、コンタクトを入れていない。


 裸眼のまま。


 その瞳へ、薄く光が落ちる。

 メイクは、ほとんど“足さない”。


 色を重ねるのではなく、引き算で整えられていく。


 肌の透明感。

 睫毛の影。

 唇の血色。


 元からそこに在る美しさを、静かに際立たせる。


 一方で、葵は少しだけ華やかだった。


 いつもより深い色。

 目元へ足される艶。


 凛とした輪郭が、より際立っていく。

 対照的なのに、並ぶと不思議な統一感があった。


 鏡越しに映る二人は。

 まるで、上質な人形みたいだった。


 触れれば壊れそうなほど美しく。


 けれど。


 ちゃんと、息をしていた。


「では、今からマスカラを入れます」


 ヘアメイクアーティストが、真剣な声で告げる。


「披露宴前のお直しまで、出来るだけ泣かないようにしてください」

「もし涙が滲んだら、すぐ声を掛けて下さい。直ぐに直しますので」


 かなり強めの口調だった。

 それだけ今日の仕上がりへ本気なのだと分かる。


「はい」


 瑠璃が、素直に頷く。

 その隣で、葵も神妙な顔をしていた。


 二人とも、まるで先生に注意される生徒みたいだった。


「本当にお願いしますね」

「今日は皆さん、絶対泣くので」


 スタッフの一言に、控室へ小さな笑いが起きる。


「もう、そこまで分かるんですね」

 葵が苦笑する。


「分かります」

 ヘアメイクアーティストは、即答した。


 その瞬間。

 瑠璃が、思わず俯く。

 景の顔を思い浮かべた。


 葵も、小さく笑いながら目を伏せた。

 その様子を、カメラが静かに映している。


 泣かないようにと注意されながら。

 もう既に、少し泣きそうな顔をしていた。


 最後の仕上げが終わる。


 ヘアメイクスタッフが、そっと距離を取った。

 控室にいたスタッフ達から、小さく感嘆の息が漏れる。


「……ほぅ」


 誰かが、思わず息を吐いた。


 いつもは、決して前へ出ない二人。

 控えめで。

 静かで。


 人目を集める事を、どこか避けるような人達。


 けれど。

 本来持っていた美しさは、隠し切れるものではない。


 瑠璃は、光を透かす硝子細工みたいだった。


 柔らかく広がるプリンセスライン。

 繊細なレース。

 裸眼の瞳。


 動く度、ヴェールとスカートが淡く揺れる。


 一方で。


 葵は、完成された芸術品のようだった。


 身体へ沿うマーメイドライン。

 すっと伸びた背筋。

 美しく浮かぶ首筋。


 対照的なのに。

 二人並ぶと、不思議なほど調和していた。


 最後のドレス調整が終わる。


 裾の流れ。

 背中のライン。

 光の落ち方まで確認しながら、デザイナーがゆっくりと距離を取った。


「……惜しいわぁ」


 ぽつりと漏らした。


「この二人、本当はランウェイを歩かせたいのよね」


 控室に、小さな笑いが起きる。


 今回のドレスは、二人の為だけに作られたオートクチュール。


 骨格。

 肌。

 立ち姿。

 歩き方。


 全てを計算して作られている。


「絶対、伝説になるのに」


 デザイナーは、もう一度ため息を吐いた。


 しかし。

 二人は、そういう世界の人ではない。


 前へ出ない。

 見せびらかさない。


 今日だけ。

 今日だけは。

 誰よりも美しくある為に、ここにいる。


 その時。

 式場スタッフが、そっと扉を開けた。


「お時間です」


 部屋の空気が、すっと張り詰める。


 瑠璃が、小さく息を飲んだ。

 葵は、静かに背筋を伸ばす。


 スタッフ達が最後のヴェールを整えた。

 白い布が、ふわりと落ちる。


「大丈夫です」

「とても綺麗です」


 二人は、小さく頷いた。

 そして。

 花嫁達は、ゆっくりと立ち上がった。


 ◇


 挙式会場へ続く回廊。

 大きな窓の向こうには、軽井沢の森が広がっている。


 そこに。

 景と馨は、背中を向けて立っていた。


「まだ?」


 馨が聞く。


「まだです」

「もう来てる?」

「馨様、振り返らないでくださいね」

「振り返ってないでしょう?」

「身体ごと斜めになっています」


「……」


 馨が、真っ直ぐに戻る。

 隣で、景が小さく息を吐いた。


「落ち着け」

「景には言われたくない」

「俺は落ち着いてる」

「さっきから三回、時計見てるけど?」


「……」


 景が腕を下ろした。

 朝から密着しているカメラが、その様子も残さず撮っている。


「景様も緊張されてます?」


 スタッフに聞かれ。


「……まあ」


 短く答える。


「瑠璃様のお姿、楽しみですね」


 その瞬間だけ。

 景の表情が柔らかくなった。


「ああ」


 一言。


「早く見たい」


 その隣で。


「私も」


 馨が即答した。


「朝からずっと我慢してるの。何度も見に行こうとしたのに、葵ちゃんがダメって」

「初見は式場で、と仰っていましたね」

「そう。頑固なのよ」


 不満そうに言いながら。

 馨は、嬉しそうだった。


 その時。

 スタッフが二人の後方へ視線を向けた。


「いらっしゃいました」


 空気が変わる。

 景は黙っている。

 馨も、今度こそ黙った。


 遠くから、衣擦れの音がする。


 それから。

 小さな足音。


 一歩。

 また、一歩。

 近づいてくる。


 景の手が、僅かに動いた。

 馨が、小さく息を吸う。


「……まだ?」

「もう少しです」


 珍しく弱い声だった。


 カメラは、待つ二人と、その背後から近づいてくる、二人の花嫁を一つの画角へ収めていた。


 瑠璃が、景の後ろへ立つ。

 葵が、馨の後ろへ立った。


 スタッフが、小さな声で告げる。


「それでは、お二人とも。肩へ手を置いてください」


 瑠璃が、そっと手を伸ばす。

 景の肩へ。

 白い指先が触れた。


 その瞬間。


 景が息を止めた。

 馨の肩にも、葵の手が触れる。


「……葵ちゃん?」

「はい」


 後ろから返ってきた声に。

 馨の口元が、もう緩んでいた。


「では――」

「振り返ってください」


 景が振り返る。

 馨も振り返った。


 景は何も言わなかった。

 ただ、瑠璃を見つめていた。


「……景さん?」


 瑠璃が、不安そうに呼ぶ。

 それでも返事がない。


 サファイアのような裸眼の瞳。

 白いヴェール。

 柔らかく広がるドレス。


 景の目が、ゆっくりと瑠璃の姿を辿って。

 もう一度、顔へ戻る。


「……綺麗だ」


 やっと。

 それだけ言った。

 瑠璃の顔が、くしゃりと崩れそうになる。


「ダメだ。まだ泣くな」

「……景さんが、そんな顔するから」

「俺?」

「泣きそうです」


 景は何か言おうとして。

 口を閉じた。


 自分もだった。

 瑠璃が、小さく笑う。


 その隣では。


 馨が、葵を見たまま動かなかった。


 身体の線に沿う、白いマーメイドドレス。

 いつもより華やかな目元。

 すっと伸びた背筋。

 馨の知っている葵なのに。

 知らない人みたいに、綺麗だった。


「……っ」


 馨が、口元を押さえる。


「馨?」


 葵が笑う。


「まだ何もしてませんよ?」

「だって……」


 声が震えている。


「葵ちゃん……」


 馨の目から、ぽろりと涙が落ちた。

 

「あぁ……もう」


 葵が困ったように笑う。


「メイクさんに、絶対泣くって言われたでしょう?」

「私の事じゃないと思ってた」

「誰の事だと思ってたんですか」


「景」

「おい」


 景が横から低く返す。

 その目元も。

 僅かに赤い。

 葵が気づいた。


「景さんも、人の事言えませんよ」

「……泣いてない」

「時間の問題ですね」


 馨が涙を拭きながら笑う。

 瑠璃まで笑った。


 朝。


 ヘアメイクアーティストが言っていた。


『今日は皆さん、絶対泣くので』


 どうやら。

 その予想は、当たりそうだった。


 カメラは回り続ける。

 

 言葉を失った景も。

 泣いてしまった馨も。

 そんな二人を見て笑う、瑠璃と葵も。


 今日という日の。

 

 まだ、始まりだった。

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― 新着の感想 ―
いい話だったー!! 朝比奈さんで見た軽井沢のところ。 こう見るとまた全然違って。 この二人(景と馨)は歳を重ねていく度に、この映像を瑠璃や葵と振り返って、泣きそうな顔するんだろうなぁ。 いいです…
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