彼のたいせつな、…。
瑠璃は、一度自分のアパートへ行った。
もしかしたら……
また、『戻る』と言い出すかもしれない。
俺は、それに耐えられるのか……。
……。いや、出来ない。
引き止めたい思いを、必死に飲み込んで……。
それでも、行かせた。
瑠璃に選ばれるために。
帰って来るまで、待つ。
その間に、溜まった仕事を片付ける。
そうしていれば、帰宅時間を気にせずに済む。
書斎へ入る。
決裁書類待ちの書類を確認する。
関係会社や他部署のメールを確認する。
部下から上がってきた資料の数字を拾い上げる。
間違いへ、赤を入れる。
メールに返信する。
決まった事を淡々と、処理する。
だが。
頭の片隅では、ずっと考えていた。
瑠璃は、戻るのか……。
それとも。
また、消えるのか……。
瑠璃の気持ちは疑っていない。
それなのに、彼女の不安定さに引きずられている。
喉の渇きを覚え、部屋を出る。
キッチンへ足を向けようとした、
丁度その時。
玄関の扉が、開いた。
振り返る。
瑠璃だった。
慌てたように、靴を脱ぐ。
そして。
真っ直ぐ、こちらへ来て抱きついてきた。
俺は、その身体をぎゅっと抱き締める。
時計を見ると予想していた時間より、随分早い。
息も、上がっている。
……何かあった。
そう思った。
瑠璃は、俺の胸に顔を埋めたまま、
「アパートの更新は、しません」
きっぱりと言った。
リビングへ移動し、瑠璃をソファへ座らせる。
確認するように、問い掛けた。
「何か、あったのか?」
以前のように……。
隣人のトラブルか。
それとも、盗難でもあったのか……。
何か、瑠璃が怖がる理由があるのか……。
思い当たるものを、探す。
あれこれ尋ねるが、瑠璃は、無言で首を振った。
……場所の問題か。
「他の場所を、探すか?」
また。
静かに、首を振る。
「景さん……」
今度は俺の目をみて言う。
「私は、……貴方のいる場所へ帰りたい」
「他の場所は、怖い……」
嬉しさの余り、言葉がすぐに出てこない。
そして、
「……そうか」
俺は小さく頷いた。
「わかった。契約は、破棄しておく」
そう言うと、俺は腕の中の彼女をゆっくりと抱き締める。
そして、そっと額に口付けした。
※※※
夕食は、いつものように……。
特別な事は、何もしなかった。
瑠璃が作る料理を食べる。
食後には、コーヒーを飲む。
ゆっくりと、時間が流れた。
今日は、先に瑠璃が入浴する。
その間に、俺は瑠璃のアパートの契約更新を破棄する手続きを終えた。
引越しの荷物選別を一緒に行う予定も入れる。
書斎の扉が、軽くノックされた。
「……お先でした」
瑠璃が、扉の向こうで言う。
「先、寝ます……」
いつもの、挨拶。
何も変わらない。
「……わかった」
それから、俺も入浴を済ませた。
いつもどおり、主寝室へ向かう。
ライトを落とした、薄暗い部屋。
ベッドには、瑠璃が横たわっている。
『帰る場所』を俺の側だと決めてくれた。
その事実が、静かに胸へ沁みる。
思わず、眠っている瑠璃の旋毛へ軽く口付ける。
起こさないように……。
今日も背を向け、横になった。
その時。
寝返りを打った瑠璃の額が、そっと俺の背中へ触れる。
柔らかい体温。
甘えるような、縋るような……。
そんな小さな接触。
ただ寝ぼけただけの接触だろう。
起こさないよう、そのままで……。
けれど。
背中越しに伝わる熱が、意識を掻き乱しす。
帰って来た。
俺の側へ。
そう思った瞬間から、抑えていた感情が静かに暴れ続けている。
触れたい。
抱きたい。
もう離したくない。
だが。
選ぶのは、瑠璃だ。
そう何度も、自分へ言い聞かせてきた。
その時だった。
消えそうなほど、小さな声が聞こえる。
「……箱」
「開封、しませんか?」
呼吸が止まる。
一瞬、意味を理解出来なかった。
いや。
理解したくなかった。
理解した瞬間、理性が壊れる。
すぐに、振り返る。
瑠璃は、恥ずかしそうに俯いていた。
暗い中でもわかるくらい耳が赤い。
シーツを握る指先が、小さく震えている。
それでも。
逃げない。
視線を逸らしながらも、ちゃんとここにいる。
そして、もう一度。
覚悟を決めるように、小さな声で言った。
「……しませんか?」
落とした灯りの残滓だけが残る、薄暗い部屋。
それでも、分かった。
深海のような黒から青に見える煌めき。
不安。
覚悟。
そして、欲情。
揺れる感情全てが、瑠璃の瞳に宿っていた。
感情によって色が入れ替わる多色な目。
あぁ、綺麗だ。
こんなにも感情を宿した瑠璃を、俺は初めて見る。
手に入れた。
これから、
ようやく、完全に手に入れる。
俺の、
サファイア。
俺はゆっくりと身体を起こす。
逃がさないように。
もう、離れないように。
腕の中へ、瑠璃を捕まえた。
触れた唇は、軽い口付けでは終われなかった。
積み重なった時間ごと、飲み込むみたいに深くなる。
何度も何度も繰り返す。
瑠璃は、小さくまつ毛を震わせ、逃げずにそれへ応える。
その瞬間。
長く押し殺していたものが、音を立てて切れた。
「もう、待たない」
掠れた声で、そう告げる。
そして俺は……。
瑠璃を、強く抱き締めた。
長い夜が始まった。
※※※
誰も見ていない夜。
いつもの公園のベンチに、ぬいぐるみが座っていた。
元は、白と黒のハチワレ。
今は、濁った灰色。
毛並みは潰れ、片目の糸も少しほつれている。
何かを覗きみる、深い色の目。
「今回は、そう分岐したか」
ぬいぐるみは、楽しそうに首を傾げた。
「絶望しながら、ちゃんと帰ってくる」
「やっぱり、人間は面白い」
ふふ。と笑い、
機嫌良さげに、ブヒ、ブヒと小さく喉を鳴らす。
「あれ?」
「今日は、いつもの猫の格好じゃないのかいって?」
「飽きたからね」
「この姿は、キミの代わりにぼくがいただいていくよ」
「だってコレは、いつも絶望で芳しいだろ?」
灰色のぬいぐるみは、楽しそうに笑った。
完




