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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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【閑話】『彼のたいせつな、彼女の話(もう戻れない)

「景さん……」

 私は、彼の肩へ頭を預ける。


「……終わりました」

 ぼんやりと、呟く。


「なんか……疲れちゃった」

 小さく、笑った。

「……そうか」

 彼の低い声が鼓膜をくすぐる。

 たった、数日。

 それだけしか、離れていないのに……。

 何年も、感じられなかったみたいに、彼の温もりが身体へ染みる。


 彼の匂い。

 私はやっと、息が出来る。

 いつのまにか、彼がいないと上手く息ができなくなっていた。

 離れてみて、初めてわかった。


 彼は、小さく息を吐く。

 そして。

 一通の封書を、こちらへ差し出した。


「前のアパートの管理人から、届いていた」

 白い封筒。

 見慣れた、不動産会社の名前。


 それはアパートの更新通知だった。


「……どうするか、お前が決めろ」

「ただし……」

 彼が、低い声で付け加える。

「行くのは、昼間だ。夜は危ないから……」

「はい」

 それには、素直に従う事にする。


 数日後。

 私は、いつもの公園を通る。

 ベンチにチャッピーはいない。

 見慣れた道。

 何度も歩いた、帰り道。


 なのに、少しだけ遠く感じた。


 数ヶ月ぶりの、『自宅』


 慣れていた筈の鍵を鍵穴へ差し込む。


 回す。

 錠がカチリ。

 解錠の音が、やけに大きく響いた。


 記憶にあるものは、記憶のままそこにあった。


 小さな棚。

 使い慣れた食器。

 安いカーテン。


 畳んだままの、洗濯物。

 何かが、増えている事も、減っている事もない。


 持ち込まれたものも。

 持ち出されたものも。

 何もない。


 ワンルーム。

 一瞬で、全てを見渡せる。


 空っぽの部屋。

 空っぽの空気。


 そして。

 鏡に写る、そこに住まう、空っぽの人間。


 冷蔵庫を、開ける。

 中は、空っぽだった。

 増える事もない。


 勝手に、食材が補充される事も。

 誰かが、気を回す事もない。


 ここは……。


 中身がない者だけが、生活する場所。


 ぼんやりと、そう思った。


 今の私は……、

 なんて遠いところまで行ってしまったのだろう。


 そして。


 昔の私は……、

 どうして、こんな空っぽの場所で、平気な顔をして生きていけたのだろう。


 ……怖い。


 空っぽの冷蔵庫。

 空っぽの空気。

 空っぽの部屋。


 そして。

 空っぽの、人形みたいな私。


 ……どうして、今までここを。


 『戻る場所』だと思えたのだろう……。


 これはまるで——


 そこで。

 張り詰めていた糸が、切れる音がした気がした。


 ぷつり。

 そして。

 ガラン、ガランと……。


 崩れ落ちる、マリオネット。

 糸を失い、支えるものもなく、ただ倒れていく。


 その顔は、母であり……。

 そして、私だった。


 そんな幻想が、見える場所。


 急に、吐き気がした。

 息が、浅くなる。


 嫌だ。

 怖い。

 ここに居ると……。

 また、空っぽになる。


 母みたいに。

 幻想の人形みたいに。


 何もないまま、終わってしまう。


 駄目だ。

 これ以上。

 ここには、居られない。


 そのまま、靴を履く。

 鍵も。

 部屋も。

 何も、確認しなかった。


 ただ、逃げるように外へ飛び出す。


 走る。

 走る。


 息が苦しい。

 肺が、痛い。

 それでも、止まれなかった。

 後ろから孤独が追いかけてくるのが怖くて、振り返れなかった。


 いつもの公園へ辿り着いた頃。

 とうとう、息が限界を迎える。


 肩が上下する。

 上手く、呼吸が出来ない。


 苦しい。

 そして怖い。


 頭に浮かぶのは、たった一つだけ。

 

 帰りたい。


 後ろは、振り返らない。


 ただ、真っ直ぐ目指す。

 あの人の元へ。

 自然と、また足早になる。


 思っていたより、随分早い帰宅だった。

 彼は、少しだけ驚いた顔をした後。


 すぐに、私を迎え入れてくれた。

 彼の胸に顔を埋める。

「……アパートの更新は、しません」

「もう、出来ません」

「……」

 彼は、静かに私を見る。

「何か、あったか?」

 無言で、首を振る。

「他の場所を、探すか?」

 また、首を振る。


 それでも。

 彼は、私を縛らない。


 まだ、私の自由に出来るようにと。

 我慢を、振り絞ってくれる。


 だから……。

 私は、ちゃんと口にした。

「景さん……」

 彼の穏やかな目を見る。

「私は、貴方のいる場所へ帰りたい」

「他の場所は、怖い……」

 少しびっくりした顔をした彼。

 一つ、ゆっくり呼吸した。

 そして、

「……そうか」

 彼は、小さく頷いた。

「わかった。契約は、破棄しておく」


 そう言うと、彼は腕の中にいる私をゆっくりと抱き締める。

 それから、そっと私の額へ口付けた。

お読みくださって、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
泣いちゃいました。 ずっとずっと心を殺して、なんでもない振りをして、人形として瑠璃さんは生きてきたんですね。景さんに出会って、やっと人間としての人生が始まるんですね。 玲さんパートの最初の登場シーン…
そうだね。怖いよね…… 元の自分に戻るのが 空っぽになるのが 大切なものが出来たからこそ、失うのが怖くなる。 それが人というもの。 お母さんからの束縛からやっと自由になった瑠璃さんは前を向いて、景…
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