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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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契約の、そのあとで

注意タグ GL

前回に引き続き、旧家制度と契約婚に基づき、現在の民法とそぐわない点がございます。ご了承下さい

「もう、サインした契約です」

 馨の静かだが、空気を切るような冷えた声だった。


「……でも、馨」

 馨の母親は、納得しない。

「馨が可哀想じゃない……」

「鷹司さんはそれでいいかもしれない」

 母親はチラリとこちらを見る。

「馨は、初夜もないのよ?白い結婚で……」

「それで“奥”だなんて、無理でしょう?」

「側室風情が、お腹さんだって大きい顔するのよ?」

「……そんなの馨が可哀想じゃない?」


 空気が、凍る。

 瑠璃が、息を呑むのが分かった。

 葵も、表情を消している。


 だが、馨だけは笑った。

 冷たいほど、綺麗に。


「……お母様」

「私、一度でも自分の事を“可哀想”って言いました?」

「……馨」

 母親は急に娘に責められてオロオロする。

「それに……」

 馨は、静かに足を組み直す。

「私は、“側室”なんて思ってませんよ」

「私たちは、役割が違うだけ……」

「景さんを挟んで、争う気もない」

 馨は安心させるように瑠璃を見て頷く。

「だから、葵ちゃんのお腹を借りる気もありません。そんなの許せる訳ないじゃない!」

「契約でそう条件を付けたのは、私」

「私が欲しいのは、“立場”じゃない」

 そこで、一度言葉を切る。

「この人達と、この形を守る事です!」

 真っ直ぐ、言い切った。


 成り行きを静かに見ていた鳳院の祖母が、

「鷹司さん、すみません。ウチの教育不足やわ……」

「嫁として、まだ何も解ってない!」

「……恥ずかしい限りです」

 鳳院の祖母が、静かに頭を下げる。

 鷹司の祖母は、淡々と返した。

「受け取りました」

「記録して」

 朝比奈が、即座に書類へ書き込む。


「気質は、なかなか変えられへんよって……」

「ウチとは意向が合わないようやから……」

 鷹司の祖母がため息を吐く。


「承知しました。今後は、代理を立てます」

「相すみません……」

 鳳院の祖母が深く頭を下げる。

 その後速やかに、馨の母は退出させられた。


 最後まで。

「馨ちゃんが可哀想」

 そう、繰り返しながら……。


 扉が閉まる。

 静寂がもどった。


 その空気を破ったのは、馨だった。

「私は、可哀想じゃない!」

 そして、葵と瑠璃を見る。

「そんな言葉、大嫌い!」

「嘘より嫌いだわ!」

 そう言うと少しだけ、苦笑する。

「……でも母は、〝可哀想な私”が好きなの」

「困ったものよね……」

 肩を、軽く竦めた。


 そして。

 今度は、この場にいる全員に聞かすように真っ直ぐに言う。


「私は、男性になりたい訳じゃない」

「だから、妻で構わないの」

「でもね……」

 馨の視線が、自然と葵へ向く。

「心から愛しているのは、葵なの」

「葵がいないと、生きていけない」

 葵は、静かに目を伏せる。


「……男性とは、生理的に無理なの」

 馨は瑠璃の目を見る。

「景さんに、貴女がいなかったら……」

「そもそも、この契約は成立しない」

 そして、馨は瑠璃へ笑いかけた。

「貴女は、私にとって、愛人でも、側室でもない……」

「パートナーよ」

「それにね、私……」

 馨は、少し困ったように笑った。

「何度か、名前も知らない貴女を探し過ぎて……」

「葵に逃げられた事があるの」

 馨がため息を一つ吐く。

「“消えたい”って」

 瑠璃が、息を呑む。

 状況が思い当たるのだろう。

「もう、すぐ追いかけたわ!」

「追いかけて、追いかけて、追いかけた」

 馨は笑っているのに。

 その声は、少しだけ震えていた。


「だって、私にとって貴女は推しだけど……。葵はいないと上手く空気が吸えないの」

 葵が、静かに目を閉じる。

「だからね」

 馨は、今度は俺を見る。

「私と景さんの為に」

「貴女達は〝消える”前に、お互いに相談しなさい」

「貴女達両方とも、他人を気にして自分を後回しにして壊れる。そんなところはそっくりだと思うわ」

 少しだけ、呆れたように笑う。

「人の事は、よく見えるでしょう?」

 瑠璃と葵が、互いを見る。


 そして。

 どちらからともなく、微笑んだ。

 少し困ったように、柔らかく。


 鷹司の祖母が、静かに頷く。

「これで、ええね……」

「はい」

 二人の声が、重なった。


※※※


 午後からは、両家の顧問弁護士立ち会いの元で瑠璃と葵、二人の養子縁組に関する正式な手続きが行われた。


 分厚い書類が並ぶ。

 確認事項と内容の説明。

 そして署名。


 淡々と、だが確実に進んでいく。

 相続権放棄の書類については、二人とも迷いなく署名した。

 だが、生前贈与の項目で瑠璃の手が止まる。

 記載された額を見て、小さく首を振った。


「頂けません……。多すぎます」

 本気で、困った顔をしている。


 弁護士達が、静かに視線を逸らした。

 祖母は、慣れた様子で言う。

「これも、決まりやから」

「でも……」

「受け取るんも、役目です」

 瑠璃は、まだ納得しきれない顔をしていた。

「持つ側の責任、言うのもあるんよ」

 最終的には、押し切られる形で署名した。


 その横で。

 葵は、静かに苦笑していた。


※※※

 全てに、片をつけた。

 帰宅する頃には、もう夕暮れになっていた。

 

 俺の車の助手席に座る瑠璃に話かける。

「何か、食べて帰るか?」

 瑠璃は、流石に疲れた顔をしている。

 デリバリーより、外で済ませた方が負担が少ない。


 そう判断して、外食を提案した。


「はい……」

 いつもなら、瑠璃は簡単なものを作ると言って外食には中々良い返事をしない。


「何が食べたい?」

 そう聞いても、大抵は遠慮する。

 だが今日は、少し違った。


「私、前から一度、食べてみたくて……」

「なんだ?」

「銀座の有名寿司屋でも、予約の取れないレストランでも、何でも良いぞ」

 珍しい瑠璃のリクエストになんでも叶えてやるつもりになる。

「……だったら、あの……」

 言いにくそうに、小さく指を差す。

 その先には、赤い看板。


「……ぎゅうどん」

 思わず、沈黙した。

「……牛丼?」

「置き屋でさゆりちゃん達が帰り道に牛丼を食べる話を聞いて、ずっとどんなのか気になっていて……」

「でも、一人で入る勇気がなくて……」

 瑠璃は真剣な顔で言う。

 俺は、数秒考えた後。

 とうとう、吹き出した。

「景さん?」

「いや……。お前、本当に……」

 笑いを堪えながら、額を押さえる。

「俺の想定、毎回超えてくるな」


 そして。

 信号で止まった時に少し屈み込み、瑠璃の耳元で囁く。


「実は……俺も、まだ食べた事がない」

「……え?」

 瑠璃が、驚いたように目を丸くする。


「本当だ」

「入る機会がなかった」

「……」

 黙ってまじまじと俺を見た。

 それから瑠璃は、じわじわと嬉しそうに笑った。

「お互い、初めてですね!」

 そう笑う瑠璃を見ていると……。

 今日一日、家だ契約だと張り詰めていた空気が、ようやくほどけていく。

 ……初めての牛丼。

 そんな一日も、悪くない。

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― 新着の感想 ―
あー。馨さんのお母さん、馨さんのことを考えて言っているようなことを言いながら、実は自分のことばっかり言っちゃうタイプの人なのかな、と勝手に想像しました。馨さんの家も、景さんのご両親と同じようにいろいろ…
ああああ。 馨さん、カッコイイ。お母さんの気持ちは分からんでもない。でもこれじゃあ……娘と分かり合えないね。 途中退席は然るべきだと思ってしまった。 葵がいないと上手く空気が吸えないの。 なんて素…
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