黒髪
酌のために、差し出された指先が震えていた。
笑顔も、凍りついている。
——駄目だ。
思考より先に、身体が動いた。
「……瑠璃」
場が、止まる。
差し出されていた徳利を、俺はそのまま受け取った。
そして、震える指先ごと手を握る。
白く、冷たい手。
ユリの目が、大きく揺れた。
「落ち着け」
「……大丈夫だ」
低く、言い聞かせるように告げる。
その瞬間、ユリの貼り付けた笑顔が、僅かに崩れた。
瑠璃の呼吸が、戻る。
だが、静まり返った座敷で馨がゆっくり瞬きをした。
「……瑠璃?」
しまった。
そう思った時には、もう遅い。
後ろで、朝比奈が静かに目を覆っていた。
“やっぱりこうなった”と顔を伏せる。
そんな鷹司側の反応を見て、一瞬で馨は全てを理解した。
「そう……」
「……そうなのね」
深く、静かに頷く。
そして、一度瞳を閉じた。
座敷が、静まり返る。
やがて、馨は何か閃いたように目を開けた。
「わかったわ」
馨はとても穏やかな声で話しだす。
しかし、その内容に空気が変わる。
「私、隠し事は平気だけれど……嘘は嫌いなの」
きっぱりと、言い切った。
「もっ……申し訳ございません」
ユリが、いや瑠璃がその場で土下座する。
白粉を纏った額が、畳へ触れる。
「私からの罰を、受けてちょうだい」
「それで貴女に関する全てを許します」
瑠璃は、動かない。
長いような短い、沈黙。
そして馨は、静かに言った。
「そうね……」
少し考えてから出した答え。
それは……。
「『黒髪』、舞ってちょうだい」
「出来るでしょ?」
空気が、凍る。
瑠璃の肩が、小さく震えた。
「出来ない?」
馨が、ゆっくり立ち上がる。
そして、冷たい声で言った。
「なら、全てお終いにしましょう」
「中途半端な覚悟のものをパートナーとして受けれないわ。それが私の答え」
「貴女、どうするの?」
静まり返った座敷。
誰も、動かない。
音すら無い。
その時、後ろから葵が口を開いた。
「馨様、ここは箱根です」
「祇園ではありません」
「しかも、あれは踊れる期間が決まっています」
「本当に知らないのでは?」
葵の意見は尤もだった。
だが馨は、即座に切り返した。
「いいえ、葵。彼女は出来ます」
馨は何故かユリが踊れると確信していた。
「やらないと、出来ないは違います」
ぴしゃりと、言い切る。
葵は、すぐに頭を下げた。
「差し出口で、ございました。申し訳ございません」
それに対して、馨は冷たく突き放す。
「貴女も罰よ。地方を務めなさい」
「……かしこまりました」
葵は一切逆らわない。
すぐに、持ち歩いていた三味線を取り出す。
景は葵が何故三味線を待ち歩くか理解できなかった。
ただ、用意が良すぎると思った。
葵は、静かに撥を構えた。
三味線の調子を、確かめる音が響く。
その間も。
瑠璃は、震えたまま、まだ動かない。
馨が、最後に問う。
「さあ、最後に聞くわ!」
「貴女、どうするの?」
長い沈黙だった。
俺は瑠璃は馨の要求に答えられないと諦めかけた時だった。
瑠璃がゆっくりと顔を上げた。
「承知……、致しました」
深々と、一度頭を下げる。
顔を上げた時には、もう震えは止まっていた。
迷いのない目で、真っ直ぐ馨を見返す。
馨は、満足そうに微笑んだ。
「そう!」
「それでいいわ!」
「……はい」
瑠璃は、静かに立ち上がる。
邪魔になる荷物を、部屋の端へ寄せる。
その姿を見ながら、俺だけが理解出来ずにいた。
——『黒髪』?
何故。
皆、こんな顔をしている……?
撥が、鳴る。
静かな座敷へ、三味線の音が落ちた。
瑠璃は、一度深く礼をする。
そして。
静かに、舞い始めた。
『黒髪の
結ぼれたる思いには——』
低く。
静かな唄。
結ばれた想い。
ほどけない恋。
そんな意味の唄だと知っている。
だからこそ。
目の前で舞う瑠璃から、目を離せなかった。
『溶けて寝た夜の枕とて
ひとり寝る夜の仇枕——』
指先が、ゆっくり流れる。
白い腕。
揺れる袖。
視線。
その全てへ、目を奪われる。
愛した人と過ごした夜。
その温もりを知ってしまったからこそ、独り寝は辛い。
そういう唄だ。
……分かる気がした。
瑠璃の指先が、その寂しさを語っているように見えた。
『袖は片敷く
妻じゃというて——』
艶やかだった。
だが。
同時に、どうしようもなく寂しい。
情念。
未練。
諦め。
……そんなものが、静かに滲んでいるように見えた。
……知らなかった。
これもまた、俺の知らない顔だ。
妻。
その一語だけが、胸に引っ掛かる。
瑠璃は、俺を想って舞っている。
それは分かる。
分かるからこそ。
この舞の悲しさが、理解できなかった。
『愚痴な女子の
心も知らず——』
葵の三味線。
低く響く唄。
そして。
瑠璃が動く度に、微かに鳴る衣擦れの音。
それしか、聞こえない。
誰も、声を出さない。
祖父達ですら、黙って見ている。
馨も。
さっきまでの高揚が嘘みたいに、息を呑んでいた。
女の心を知らぬ男。
その一節だけが、胸へ刺さった。
……まるで、俺のことを言われているようだった。
……知らない。
俺は、瑠璃の何を知っているというんだ。
笑った顔。
困った顔。
公園の猫に甘いこと。
それだけだ。
何を抱え。
何を守ろうとしているのか。
……何も知らない。
『昨夜の夢の
けさ覚めて——』
——それなのに。
この舞は、何を伝えようとしている。
瑠璃が、ほんの一瞬だけこちらを見る。
胸が締め付けられた。
あの視線は、何だった。
助けを求めたようにも。
何かを覚悟したようにも見えた。
『積もると知らで
積もる白雪——』
最後の一音が、静かに消える。
音もなく積もる雪。
気づかぬうちに積もる想い。
――まるで、俺のことのように。
瑠璃の舞は、言葉では表せない悲しさを、俺の胸へ刻んでいった。
それなのに。
俺の心を離れなかったのは、歌詞の意味ではなかった。
あの一瞬の視線。
あの寂しげな横顔。
そして。
何か大切なものを、このまま失ってしまうような。
音もなく。
雪が積もるように。
言葉にならない焦燥だけが、静かに積もっていった。
誰も、すぐには動けなかった。
静寂が、残る。
最後の余韻だけが、座敷へ薄く漂っていた。
誰も、すぐには口を開けない。
三味線へ置かれた葵の手も、止まったまま。
瑠璃は、静かに礼をした。
芸妓としての、完璧な終わり方。
だが、その肩が、ほんの少しだけ上下している。
……息を詰めていたのか。
最初に動いたのは、馨だった。
「……綺麗」
小さな声。
その一言へ、全部入っていた。
感嘆。
興奮。
理解。
そして。
ほんの少しの、怒り。
馨は、ゆっくり瑠璃を見る。
「貴女」
「最初から、踊れたじゃない!」
瑠璃は、静かに視線を伏せた。
「……申し訳ございません」
「ええ。そこは、怒っています」
はっきりと馨が言う
だが、馨の声に嫌悪は無かった。
「私、言ったでしょう?」
「隠し事は平気。でも、嘘は嫌いなの」
静かな声。
「踊れない、ではなく……」
「踊りたくない、と言ってくれたら良かったのに」
その言葉に。瑠璃の肩が、小さく揺れる。
馨は、少しだけ困ったように笑った。
「そんなに、怖がらなくていいのよ……」
「私は、貴女を嫌いになったりしない」
馨は、静かに微笑んだ。
そしてしばらく瑠璃を見つめていた。
「……やっと会えたわ!」
「……え?」
瑠璃が、僅かに顔を上げる。
馨は、真っ直ぐ瑠璃を見る。
その目に、先程までの試すような色は無い。
ただ。純粋な、感動だけがあった。
「私の推し……」
場が、静まる。
……推し。
馨の後ろで、葵がとうとう吹き出した。
「馨様、それ今言います?」
「だって、仕方ないでしょう?」
「こんなの、好きになるじゃない!!」
馨は本気で言っているのがわかった。
瑠璃は、完全に固まっている。
多分。
人生であまり向けられた事のない感情だ。
軽蔑でも、憐憫でもない。
憧れ。
敬意。
そして、真っ直ぐな好意。
馨は、少し困ったように笑った。
「最初から正直に言ってくれたら、もっと早く仲良くなれたのに……」
「……申し訳、ございません」
「だから、そこはもういいの」
馨が、ぴしゃりと言う。
「嘘は嫌い!」
「でも、隠し事には事情があるでしょう?」
馨は瑠璃に温かい目を向ける。
「私も、全部話して生きてる訳じゃないもの……」
静かな声。
その言葉に、瑠璃の目がゆっくり揺れた。
お読みくださって、ありがとうございます。
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