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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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25/30

憧れの人

馨と葵はGLです。タグにご注意下さい

 久しぶりに見る婚約者は、相変わらず嫌そうにこちらを見た。

 以前、彼女が嫌がる理由を聞いた事がある。

「オスって感じが嫌!」

 即答だった。

 それ以来、妙に納得している。


 今日も、彼女の後ろにはパートナーの葵が控えていた。

 こちらを見る目は楽しそうだ。


「本日は——」

 長々とした口上。

 寿ぎ。


 耳を素通りしていく。


 条件の最終確認。

 新たな同意事項。

 修正書類。

 互いに確認し、淡々とサインをしていく。

 全て滞りなく終わると、身内以外は控えの間へ下がった。


 残るのは、ごく限られた人間だけ。


 “御前様“と呼ばれる祖父が、静かに口を開いた。

「馨さん……」

「婚姻を、こちらの都合で早めてしまいすまないね」

 馨は、何でもない事みたいに答える。

「いえ、決められた事です」

「早いか、遅いかの違いで……」

 祖父は、静かに頷いた。

「こちらも、お祖父様には無理なお願いをしました」

「いや、構わない」

 穏やかな会話。

 だがその後ろでは、結婚式当日の衣装選びが進んでいく。

 本人達を置いて。

 ドレス、和装、宝飾。

 細かな仕様。

 どちらも、当人は興味が薄い。

 だから、朝比奈と葵が中心になって決めていく。


「こちらの方が、馨様のお好みに沿うかと……」

「では、それで」

 女性のドレスに合わせて男性の衣装を決める。

 何事も、問題なく進んだ。

 予定より、かなり早く終わった。


 時計を見る。

 まだ、17時まで少し時間があった。


 隣を見る。

 馨も、先程から妙に落ち着きがない。


 茶を一口飲み、また時計を見る。

 分かりやすい。

「……」

 視線が合う。

 馨は、一瞬だけ気まずそうな顔をした。

 それから、露骨に視線を逸らした。


「なんだ?」

「別に……」

 その後ろで、葵が肩を震わせている。

 笑っているな。


 馨の祖父が、面白そうに目を細めた。

「楽しみなんか?」

 少し間を置いた後、馨は静かに続けた。

「これから生で会えるのが、楽しみなだけです」

「ウチの祖父が、自慢するのです」

「でも、私はまだ早いと連れて行って下さらない……」

「彼女は私の今日の日のご褒美なんです!」

……なるほど。


 頭が痛い。

 馨の後ろでは、葵がとうとう吹き出していた。

「馨様、本音が……」

「だって……」

 珍しく、少し恥ずかしそうな顔。

 当然、まだ馨は知らない。


 これから会う“ユリ”が。

 俺と暮らしている瑠璃と同一人物だという事を。


※※※

 17時。

 カチリと扉が開く音がした。

 音もなく、静かに開けられた襖。

 二人がスッと入り、位置につく。

「本日は、箱根強羅へお越し頂き……」

 滑らかな口上。

 流れるような挨拶。

 視線。

 指先。

 その一つ一つが、完成されている。


 空気が、変わった。


 ただの和装ではない。

 芸妓姿のユリ。

 隣には、同じく日本髪のさゆり。

 話には聞いていたが、二人とも初めて見る姿だった。

……これも、先方の希望か。


 ユリが、あまりにも違う。

 いつもはしない白粉の香り。

 息をしていなければ、人形かと思うほど……。


 静かで。

 冷たく。

 美しい。

 瑠璃の柔らかさは、どこにも無い。

 そこに居たのは、“箱根芸者のユリ”だった。


 空気を支配しているのに、触れれば消えそうな錯覚を起こす。

 視線を上げたユリが、静かにこちらを見る。

 ほんの一瞬だけ、その目が揺れた。

 だが、次の瞬間にはもう完璧に隠されている。


 隣に座る馨が、完全に固まっていた。


「…………」

 その後ろで、葵が小さく笑う。

「馨様」

「息、止まってます」

「…………」

 馨が、固まったまま動かない。

 その視線の先。

 ユリは、静かに微笑んでいた。

 完璧な笑み。

 隙がない。


 だが、俺は知っている。

 あれが“作られた顔”だと。

「本日は、どうぞごゆるりと……」


 ユリが、静かに座へ入る。

 その動きに合わせて、場の空気まで流れていく。


 さゆりも、自然に後ろへ控えた。

 朝比奈が、小さく息を吐く。

 ……分かる。

 胃が痛い。


 馨は、数秒遅れてようやく口を開いた。


「綺麗……」

 思わず漏れた、みたいな声。


 ユリは、柔らかく微笑む。

「ありがとうございます」

 その声音すら、瑠璃と違う。

 普段より低く、ゆったりとしていて。


 男を酔わせる声。

 ……頭が痛い。


「お祖父様が、自慢する理由が分かりました」

 馨が、真面目な顔で言う。

 後ろで、葵がまた肩を震わせている。

 ユリは、静かに視線を伏せた。

「そのようなお言葉、光栄です」


 完璧だ。

 完璧過ぎる。


 盃を置く瞬間。

 ほんの僅かにだけ、こちらを見る目が揺れた。

——景さん。

 そう呼ぶ瑠璃の気配が、確かにそこにいる。

 

 馨が、少しだけ身を乗り出した。

「あの……ポスターに、サインいただきたくて持参しましたの……葵ちゃん、持ってきて!」


 場が、一瞬静まる。

 ……持ってきたのか。


 後ろで控えていた葵が、完全に笑いを堪えながら大事そうな筒を取り出した。


 ユリも、僅かに目を見開いている。

 さゆりに至っては、もう駄目だ。

 俯いたまま、肩が震えている。

 朝比奈は、静かに目を閉じた。

 ……収拾役が、完全に諦めた顔だ。


 馨は、広げられたポスターを見ながら、少し嬉しそうに言う。

「限定掲示の物なので、かなり苦労しました」


 そこには芸妓姿で微笑む、“ユリ”がいた。


 スナックキャッセルで見た一枚と同じ。

 これは、確かに綺麗だ。


「あぁ、あの時の。まだあったの……」

 と呟きながら、ユリは少しだけ目を細めた。


 そして、迷いなく筆を取る。

 さらりと流れる筆先。

 決められた崩し字。

 装飾された、“はなのや ユリ”。

 その姿に、馨は完全に目を輝かせていた。

「ありがとうございます……!」

 ユリは、小さく笑う。

 馨が目を細め、本当に嬉しそうに笑う。

 ……驚いた。

 婚約者が、こんな顔をするのを初めて見た。

 後ろでは、葵が完全に面白がっている。


 朝比奈は、静かに遠い目をしていた。

 “だから嫌な予感がしたんです”の顔だ。


「今日は、地方じかたいないの?」

「ユリさん、立方たちかたでしょ?」

 馨が、期待した目で尋ねる。

 ユリは、少し困ったように笑った。


「今日は、地方のお姉さん方は生憎……」

「え?」

「ユリ姉さん、踊れるんですか?」

 横から、さゆりが素で聞く。

「こらっ、さゆりちゃん……」

 珍しく、ユリが即座に止めた。

 そして。

 何事も無かったように、柔らかく微笑む。


「このとおり生憎私も、箱根踊りは勉強不足です」

「精進します」

 踊れない。

 そう、綺麗に伝えている。

 だが、馨はまだ諦めていない顔だった。

 

 ユリは、完全に話題を流そうとしている。

「お姉さん、ごめんなさい」

 そう言いながら、さり気なく酒を勧める辺り、慣れている。

 馨は、少し残念そうにしながらも素直に頷いた。


「私……」

 馨が、ふと思い出したように口を開く。

「貴女の踊り、見た覚えがあるの」

 その瞬間。

 ユリの表情が、一瞬だけ消えた。


 空気が、止まる。

 本当に、一瞬だった。

 だが、俺は見逃さなかった。


「ねぇ……都をどり、出てなかった?」

 場が、静まり返る。

 さゆりですら、ぴたりと止まった。


 次の瞬間、ユリは柔らかく笑っていた。


「私は、此方の検番ですので……あり得ません」

 ふふ、と。

 少し困ったみたいに笑う。


 完璧だ。

 何も知らなければ、そう思っただろう。


 だが、さっきの、“無”の表情。

 あれは、確実に何かあった顔だ。


 馨は、首を傾げる。


「そう……?でも、絶対見たのよね……」

 ユリは、静かに盃を置いた。


「似た方が、いらしたのかもしれません」

 その声音は、もう完全に落ち着いている。


 ……逃がした。

 朝比奈が、小さく息を吐いた気配がした。

 多分、俺と同じ事に気づいている。


 その後、さゆりが馨に他所の芸妓達の話を聞き出していた。

 馨は、本当に機嫌が良さそうだ。

 恋愛でも、政治でもない。

 純粋に、文化として好きなのだろう。


「民俗学者みたいですね」

 さゆりが、妙に納得した顔で言う。

 馨は、少し考えた後、

「……確かに近いかも」

 真面目に頷いた。


 ユリが、思わず小さく吹き出す。


「日本舞踊。好きになったきっかけは、何ですか?」

 さらに、さゆりが身を乗り出す。

 馨は、待ってましたと言わんばかりに目を輝かせた。


「それ、聞いちゃう?」

「見せちゃおうかな!」

 急に、テンションが上がる。

「見たい!見たい!」

 さゆりも、即座に乗った。

「葵ちゃん、準備して!」

「早く!」

 葵はそのまま控えの間へ入り、荷物を持って戻ってきた。

 馨は、大事そうに機材を受け取る。


「これはね……」

「私が、この方を見た時から好きなの。ずっと探しているの!」

「可愛いんだから」

 機材を繋ぐ。

 映し出されたのは、昔ローカル局で放送された番組の録画だった。


 ……相当好きだな。

 気づけば、両家の祖父母達まで寄ってきていた。

 皆で、画面を覗き込む。


 映像が始まる。

 ざらついた、少し古い画質。


 そして。

 音楽と共に、一人の子どもが現れた。

 藤の枝を持ち、小首を傾げる。


 愛らしい仕草。

 まだ幼いのに、妙に完成された目線。


「お姉さん、この子のこれって藤娘ですか?」

「可愛い!」

 さゆりが、目を輝かせる。

「そうなの。何度見ても飽きない、可愛い」

「それで、最後が……」

 馨が、嬉しそうに続きを促す。


 映像のラスト。

 子どもは、困ったような顔で小さく呟いた。

「コマーシャル……」


 そのまま、映像が終わる。


「可愛い……」

「これは確かに」

「よく残っていたな」


 周囲が、口々に感想を言う中。


 俺は、ユリを見た。

 ……血の気が引いている。


 白粉の下からでも分かるほど、顔色が変わっていた。

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― 新着の感想 ―
葵さんが後ろでクスクス笑ってるのがなんかいいですね笑 そして景さんはずっと馨さんのペースに踊らされっぱなし。 ここら辺のお話、表のほうが気になるので後で補完しに行ってきます! そしてラストの子供の映…
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