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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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24/29

境界を越えて

 夜半過ぎ。

 玄関の扉が、静かに開いた。


「……ただいま」

 少し掠れた瑠璃の声。


 俺は、手元の書類から視線を上げる。

「おかえり」

 出来るだけ、自然な声で迎えた。

 瑠璃は、部屋の明かりを見て小さく息を吐く。

 ……ホッとした顔。

 その表情を見て、胸の奥のざわつきが少しだけ静まった。

 化粧は崩れていない。

 髪も綺麗に整っている。

 それでも、隠しきれない疲労が滲んでいた。


 俺は、立ち上がりキッチンへ向かう。

 瑠璃のために、温かい茶を淹れた。


「座れ」

 瑠璃は、少し迷ってから静かにソファーへ腰を下ろす。

 俺は、湯気の立つ湯呑みを前へ置いた。

「お疲れ様」

 瑠璃は、両手で湯呑みを包み込む。

 その指先が、少し冷えているようだった。


 俺は、静かに口を開く。


「もう、湯は沸いている」

「入浴して、寝ろ」

 瑠璃は、少し目を丸くした後。

 小さく笑った。

「……はい」

 その笑い方があまりにも儚く、疲労を感じさせた。

 俺は、無意識に眉を寄せていた。


 週の前半は何事もなく、過ぎた。

 そして、水曜日の夜に。


「瑠璃、話がある。頼みたい事だ」

 ソファーに呼び、隣に座るように言う。

 瑠璃は俺の真剣な声に、何かを感じとった様だ。

 顔に諦めが浮かぶ。


 俺は瑠璃に向かい、手を取る。

 瑠璃は静かにこちらを見る。


 目を合わせて言う。

「来週、婚約者と打ち合わせがある」


「……はい」

 別れを予想しているのだろう。

 目を伏せて、諦めきった表情になる。

 ここで手放す事が、瑠璃の幸せだろう。

 と一瞬は、考えた事もある。


 だが、それは……。

 俺が耐えられない。

 俺の家の事情に、瑠璃の人生を巻き込む。

 もう、他の選択肢を与える余裕はない。


「瑠璃、よく聞いてくれ」

「俺はお前を手放せない」

 嫌々と言うように首を数度振る。

 目を逸らし、手を離そうとする。

 俺は再度瑠璃の手を握りしめて、

「こちらを見ろ!」

 語尾が強くなった。

 瑠璃が、びくりと肩を震わせる。


 こちらを見ながら、見えていない。

 暗い、深海のような瞳の色。

 これも綺麗だ……。


 けれど今は、そんな顔をさせたい訳じゃない。


 俺は、掠れた声で続ける。

「瑠璃、愛してる。好きなんだ。離せない……」

「離したくない。すまない……」


 瑠璃がゆっくり、息を吸い、吐く。

「今はそうでも心は……心は変わります」

「私がいては……」

「違う!」

 遮るように言う。

 強い口調になる。

 瑠璃は黙ったまま、目を伏せる。

 言葉にならない想いを呑み込む。


 分かり合えない、平行線の感情。

 瑠璃は、小さく唇を震わせた。

「………消えたい」

 消えそうな声。

 消えそうな気配。


 何故か、不意に川の音の幻聴と橋の幻影が見えた。

 この幻に瑠璃が取り込まれそうに感じた。

 渡したら二度と逢えない……。

 それだけは確信した。


「瑠璃!」

 堪え切れず、抱き寄せる。

 たが、腕の中の瑠璃の身体は、強張ったままだ。


 俺は、その背中へ腕を回したまま、瑠璃の耳元で囁く。

「お前には悪いが、もう決まってしまった。お前はウチの戸籍に入る」

 その囁きは瑠璃に届いた。

「え?」

 急になんの事だ?そう言いたげに、瑠璃が怪訝そうな顔でこちらを見る。


 俺は、抱き締めたまま続ける。

「話はついている。……俺たちの関係は、表向き兄妹になる」

 瑠璃は、完全に処理が追いついていない。

「……」

 戸惑いながら、おろおろと視線を彷徨わせる。

 声が、届くようになった。

 さっきまでの、“消えそうな顔”じゃない。

 見えていた幻影が消える。


 もう一度、彼女の手を軽く握りしめる。

「妻の座は動かせない。これは家の契約だ。だが、先方も大事な者を連れてくる」

「俺は、お前と先方の連れ。一気に二人も兄妹が増える」

 瑠璃が、完全に混乱した顔で俺を見る。

 

 俺は笑う。

 口の中に苦味を感じる。


「瑠璃、この事情を呑み込めるか?苦しいな……。苦しい」

「すまない、すまない……。でも、俺は……お前を離せないんだ、どうしても」

 ポツリ、ポツリと手に雫が落ちる。

 熱い雫が何なのか、どこから落ちたのか……。

「大丈夫……泣かないで」

 瑠璃は潤んだ瞳を俺に向けて言った。

「ごめんなさい。私は、大丈夫……」

 よし、よし。

 と俺の背中を摩ってくる。


 物心がついてはじめて、俺は涙を流した。


 ようやく俺の息が整った頃に、

「兄妹って、どう言う事ですか?」

 と瑠璃が尋ねてくる。

 俺は瑠璃に婚約についての契約内容を話す。

「重婚は違憲だ。だが、本来のパートナーはお前だ。養子縁組制度を使い、お前達を本家が迎え入れると長老達が決めた」

「身内以外立ち入れない時があるからな……」

 想定される時は命のやり取りだ。

「わかり……ました」

 とても正気とは思えない、鷹司家の決定に瑠璃はまだ混乱しながらも、先程とは違い落ち着いて返事をした。


「それで、頼みと言うのは……。来週の打ち合わせにお前を連れていくが、心の準備をして欲しい」


「婚約者の方は……」

 また、迷った顔をする。

「先方も連れてくる。来れば納得できる……。筈だ」

 自然と苦虫を噛んだ顔になる。

 そんな俺の顔をキョトンと見る彼女。

 もう一度手を握りしめて、

「頼むから、俺以外を見るな」

「その場で戸籍等の説明も併せて、祖母が説明する」

 この場で話せる事を順番に説明する。

「わかりました」

 瑠璃はようやく頷いた。

「それと、場所は強羅なんだ。一泊する」

「先方の都合だ……」

 頭の芯が痺れたままだ。

 重い頭で、瑠璃に寄りかかる。


「……泣き疲れですね。後で冷やしましょう」

 先程までの、消えてなくなりそうな気配は消え、ようやくホッとした。


 何事もなく、そのまま日々は過ぎた。


 仕事へ向かい。

 帰宅し、同じ食卓を囲む。

 そんな日常が、静かに続いていく。


 来週の件も。

 瑠璃は、必要以上に聞いてこなかった。

 俺も、無理に説明はしない。


 ただ。

 互いに少しだけ落ち着かないまま時間だけが過ぎていく。


※※※

 当初、俺は瑠璃を連れて行くつもりだった。


 だが。

 先方から届いた連絡を見て、予定を変えざるを得なかった。


 届いた連絡は、

『ユリという箱根芸者がみたい』

 その一文だけだった。

 ……嫌な予感しかしない。


 俺は、深く息を吐く。

『婚約者のパートナー』より、箱根芸者の“ユリ”へ興味を持っている。

 箱根芸者に会うついでに婚約の打ち合わせと考えている事が嫌でも伝わる。

 頭が痛い。

 端末を置き、ソファーへ身体を預ける。


 その時。

 風呂上がりの瑠璃が、リビングへ戻ってきた。


「景さん?どうかしました?」

 俺は、黙ったまま瑠璃を見つめ、ため息を吐いた。

 そして、静かに端末の画面を見せた。


 瑠璃は、内容を読んだ瞬間。

 ぴたりと固まった。


 翌日。

 同じメールを受け取った朝比奈は、露骨に頭痛が酷いという顔をしていた。

「……部長」

「なんだ?」

 朝比奈は、深くため息を吐く。

「当日ですが、17時から、ユリとさゆりを指名」

「翌日17時まで、一日分の花を付けるという事で置き屋の女将と合意しました」

「……」

 朝比奈は、こめかみを押さえながら続けた。

「当初は、他の花も勧められましたが……」

「余計な噂話をされては困るので、この条件で押さえています」

 

 確かに、それが最善だろう。

 下手に人数を増やせば、“ユリ”へ余計な憶測が向く。


 朝比奈は、疲れ切った顔でこちらを見る。

「この条件で、先方へ連絡しても?」

 俺は、静かに息を吐いた。

「……わかった」


 朝比奈は、完全に“面倒事が増えた”という顔をしたまま、小さく頭を下げた。


 そして、部屋を出る直前にぽつりと呟く。


「婚約者顔合わせ前に、芸者遊びしたいなんて普通無いんですよ……」


※※※

 当日。

 俺達は、予定より少し早めに家を出た。

 渋滞もなく、箱根へ向かう道は静かだった。


 せっかくだからと、途中で少し観光をする。


 土産物屋、甘味処。

 土産を見ながら、瑠璃は小さく笑っていた。


 だが、強羅へ近づくにつれ、少しずつ口数が減っていく。


 やがて、強羅駅前へ車を停めた。

 瑠璃は、静かにシートベルトを外す。


「……じゃあ」

「あぁ……」

 置き屋で、支度がある。

 だから、ここから先は一緒には行けない。

 瑠璃は、少しだけ迷うようにこちらを見た。

 俺は、静かに口を開いた。

「無理はするな」

 瑠璃は、小さく目を見開く。

 少しだけ、安心したみたいに笑った。

「はい」


 車の扉が閉まる。

 瑠璃は、駅の向こうへ歩いていく。

 途中で一度だけ、振り返った。

 俺は、軽く手を上げた。

 瑠璃も、小さく会釈を返す。


 そして、そのまま駅の向こうへ消えていった。


 静かになった車内で、俺は深く息を吐く。

 これから会うのは、瑠璃ではない。

 “ユリ”だ。

 箱根芸者。

 俺の知らない時間を生きてきた女。

 朝比奈が調べ切れなかった、空白の一部。


 ハンドルへ片手を置き、ぼんやり駅を見る。

 ……妙な気分だ。

 同じ女なのに。

 少しだけ、知らない誰かへ会いに行く感覚がある。


 そして同時に。

 多分、俺はまた惚れ直す。

 そんな確信が、嫌になるほどあった。

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― 新着の感想 ―
景さん泣いたー!! よっぽど失いたくなかったんですね。 でも良かった……身投げしないでくれて。 いや、それは景さんの妄想なのですが…… さてはて、これで色々と繋がっていくんですね……裏側面白い!
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