見えてきたもの
暫く、黙った時間が流れる。
俺は、急かさなかった。
瑠璃は、何かを考えるように膝へ視線を落としている。
そして、ようやくぽつりと口を開いた。
「あの、今週末、私……出かけます」
「そうか。車を出すか?」
「いえ!」
妙に慌てた声。
俺は、小さく眉を上げる。
瑠璃は、少し気まずそうに視線を逸らした。
「ただ……」
「二泊三日、戻りません」
バツが悪そうな顔をする。
その瞬間、どこへ行くのかすぐに分かった。
——箱根。
この部屋へ来てから、一度も戻らなかった場所。
瑠璃にとって、簡単には切り離せない場所。
胸の奥へ、小さな焦燥が走る。
二泊三日。
長い。
だが、ここで行くなとは言えない。
俺は、静かに息を吐いた。
誤解を与えないように。
ゆっくりと、口を開く。
「瑠璃……」
繋いだ手を軽く握る。
「俺は、お前が『ユリ』だと、既に知っている」
弾かれたように、瑠璃が顔を上げた。
今まで俺から箱根の話をしなかった事で、瑠璃は俺が自分と「ユリ」を結びつけていると思わなかったのだろう。
既に、素顔を毎日見ているのに……。
「仕事か?」
瑠璃は、少しだけ目を潤ませながら静かに答える。
「……はい」
最初は、詮索する気も口を出す気も無かった。
瑠璃が隠したいなら、それでいいと思っていた。
だが。
何故、箱根へ向かうのか。
理由が分からない。
「それは、置き屋の女将からか?」
応援要請なら、珍しい話ではない。
「いえ……」
瑠璃は、下を向いたまま黙り込む。
何かを迷っている顔だった。
俺は、続きを急かさなかった。
「事情が……あります」
「そうか……」
今日は、ここまでだな。
これ以上の追及は、やめる。
俺は、静かにソファーへ身体を預けた。
「俺は、お前がちゃんと帰って来るなら何も言わない」
瑠璃の肩が、少しだけ揺れる。
少し空気を軽くするように、俺は小さく笑った。
「それに、俺もたまには『ユリ』に会いたい」
瑠璃は、数秒ぽかんとした後とうとう耐え切れず、小さく吹き出した。
俺も、少しだけ口元を緩めた。
「もし……俺が、『ユリ』を指名したら、お前どうする?」
同一人物だ。
だが、瑠璃は反応へ困った顔をした。
「え……?」
口を開き、閉じる。
何か言いかけて、また止まる。
そのまま、ぱくぱくと数回繰り返した後。
ようやく、観念したみたいに小さく息を吐いた。
「……私は」
「少し、やきもちを焼きます」
「でも。『ユリ』なら仕方ないですね」
真面目な顔で、そんな事を言う。
……可愛い。
俺は、とうとう堪え切れず片手で目元を覆った。
「景さん?」
「駄目だ……」
「何がですか?」
「お前、自分で言ってる意味分かってるか?」
瑠璃は、少し考えてから。
はっとしたように、一気に顔を赤くした。
「っ……!」
俺は、小さく笑った。
——やっぱり、重症だ。
「社用で使う事もある……」
俺は、静かに瑠璃を見る。
「それは、分かるな?」
瑠璃は、小さく頷いた。
箱根。
“はなのや、ユリ”
あの世界は、ただの過去ではない。
仕事にも、人脈にも繋がっている。
切り捨てれば済む話ではない事ぐらい、俺も理解している。
俺は、静かに息を吐いた。
「全て辞めて欲しいと、今までの俺なら言うだろう……」
瑠璃が、少しだけ目を見開く。
否定しない。
実際、以前の俺ならそうした。
囲い、閉じ込め、外へ出さない。
その方が、安心出来た。
だが、それでは瑠璃は消える。
俺は、もう知っている。
だから……
「俺はお前の意思を尊重する」
瑠璃の目を見て、断言する。
「お前が、何を抱えているのか……」
「話せる時期まで待つ」
瑠璃の瞳が、ゆっくり揺れる。
「不安になるな」
「だが、隠し事だけはするな」
瑠璃は、しばらく俺を見つめていた。
そして。
少しだけ、泣きそうな顔で笑う。
「……はい」
その返事で、俺はようやく小さく息を吐いた。
瑠璃が箱根へ向かう中、俺は祖母の呼び出しを受けた。
鷹司の本邸。
奥に、その人はいる。
「景です」
使用人が扉を開ける。
最高級の絨毯をはじめ、家具、食器、茶葉に至る何もかもが、一流の品。
それを普段使いする。
祖母。
「あぁ、景ちゃん。来てくれて、ありがとう」
「まずは、お茶でも飲みなさい」
スッと音もなく置かれる煎茶。
一口飲む。
まろやかな、茶葉の甘みに少し緊張を解す。
「今日は、ちょっと難しい話しよ思うんやけど……」
来た。これは家絡みだ。
「景ちゃん、あの子の事。どうするか、決めた?」
「はい」
目は逸らさない。
「さよか。よろしい」
もう一口飲む。
「わかってるやろうけど、妻は馨さん」
「……これは絶対や」
「昨今流行りの『好きな人が出来たから婚約破棄する』言うのは幻想や。わかってるやろね?」
「……はい」
「瑠璃ちゃんは、ちょっと難しい子や」
「うちらみたいな家の事はようわかってる。その弊害もよう『知ってる』人や」
困ったように笑う、祖母。
「今日は、瑠璃ちゃんはお家にいてる?」
確認するように尋ねてくる。
「いえ。外出してます、箱根へ……」
珍しく、祖母が大きくため息を吐く。
「そうか。まだアカンか……」
「景ちゃん、瑠璃ちゃんが出かける事、ちゃんと聞いた?」
「はい。帰るならそれで良いと……深くは聞いていません」
祖母がうんうんと頷く。
「待て。が覚えられて良かったわ」
要領の得ない話。
「お祖母様?」
「せやねぇ……何処から話そ。結論からがええかしら?」
「はい」
即答する。
「景ちゃんと瑠璃ちゃんは、夫婦には“なれません”」
俺は息を呑む。
祖母から聞く事実に、膝に置く手に力が入る。
これは動かせない、自分の家の柵。
俺と家の契約。
わかっていても堪える。
覚悟していた答えだった。
それでも胸の奥が鈍く痛む。
「そう、ですね」
祖母はそんな俺の様子を見て、小さく息を吐いた。
「でもね……」
俺を真っ直ぐ見つめて、続ける。
「兄妹になります」
「……。え?」
思ってもなかった事を言われた。
「先方さんのとこから来る子も、兄妹になります」
「はぁ?」
「身内にいれとかな、あかん子達なんよ。あんたのお母さんにはもう了承もろてます」
「関係的にちょっと、ややこしいケド……」
「これは決まりです」
キッパリと俺の目を見て言う。
「瑠璃ちゃんとこ、お母さんが『アカン』のやけど、瑠璃ちゃんはよぅ捨てん……。この件は、奥向きで処理するから、景ちゃんは口出ししたらアカン」
「なにが起こっても、あの子を支えて、よう言って聞かせなさい」
「はい」
決意を込める。
「うん。ええね。それと、来週。先方さんと打ち合わせって聞いとるね?」
「……はい」
「瑠璃ちゃん、連れてきなさい。先方さんと顔合わせします」
「承知しました」
「お祖母様、一つだけよろしいでしょうか?」
「なに?」
「お祖母様は瑠璃を何処までご存知ですか?」
「ないしょ。って言うても聞かんね……。生まれた頃から噂は聞いてる子やわ。まさか景ちゃんとこないなるとは思わんかったけど……」
そう言ってコロコロと軽く笑う。
俺は残った茶を飲み干し、部屋を後にした。
戻った一人きりの部屋で考える。
朝比奈に調べさせた、“ユリ”の経歴は途中から追えなかった。
記録が、不自然に途切れている。
一方で。
瑠璃として提出された経歴書は、綺麗に整えられていた。
学歴、職歴、資格。
表面上は、何も問題ない。
だが。
妙に、不安定だった。
昼と夜のダブルワーク。
勤勉。
遅刻もなく、金遣いも堅実。
贅沢をしている形跡は、ほとんど無い。
ブランド品も持たず、外食も少ない。
生活水準は、むしろ質素だ。
それなのに。
いつも、金に余裕が無い。
貯蓄も、ほとんど残らない。
不自然だった。
あれだけ働いて、生活が安定しない方がおかしい。
朝比奈も、報告書の最後へ短く記していた。
『原因は母親かと』
その一文だけで、十分だった。
瑠璃は、家族を切れない。
……多分。
切り捨てるという選択肢を、持っていない。
だから、金も、時間も、感情も。
ずっと、吸い取られていた。
祖母の言葉を思い出す。
——『瑠璃ちゃんとこ、お母さんが“アカン”のやけど』
静かに、息を吐く。
……なるほど。
だから、あんなに“消え癖”があるのか。
欲しがる前に諦める。
迷惑を掛ける前に離れる。
居場所が出来ると、怖くなる。
全部、繋がっていた。
あの日、暗い部屋で電気すら点けられなかった理由も。
俺の部屋で『ただいま』と言うたび、どこか怯えていた理由も。
——俺は、まだ瑠璃を何も知らなかった。
お読みくださって、ありがとうございます。
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