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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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23/27

見えてきたもの

 暫く、黙った時間が流れる。

 俺は、急かさなかった。

 瑠璃は、何かを考えるように膝へ視線を落としている。


 そして、ようやくぽつりと口を開いた。


「あの、今週末、私……出かけます」

「そうか。車を出すか?」

「いえ!」

 妙に慌てた声。

 俺は、小さく眉を上げる。

 瑠璃は、少し気まずそうに視線を逸らした。

「ただ……」

「二泊三日、戻りません」

 バツが悪そうな顔をする。


 その瞬間、どこへ行くのかすぐに分かった。


 ——箱根。

 この部屋へ来てから、一度も戻らなかった場所。

 瑠璃にとって、簡単には切り離せない場所。

 胸の奥へ、小さな焦燥が走る。


 二泊三日。

 長い。

 だが、ここで行くなとは言えない。

 俺は、静かに息を吐いた。


 誤解を与えないように。

 ゆっくりと、口を開く。

「瑠璃……」

 繋いだ手を軽く握る。

「俺は、お前が『ユリ』だと、既に知っている」

 弾かれたように、瑠璃が顔を上げた。

 今まで俺から箱根の話をしなかった事で、瑠璃は俺が自分と「ユリ」を結びつけていると思わなかったのだろう。

 既に、素顔を毎日見ているのに……。


「仕事か?」

 瑠璃は、少しだけ目を潤ませながら静かに答える。

「……はい」

 最初は、詮索する気も口を出す気も無かった。

 瑠璃が隠したいなら、それでいいと思っていた。


 だが。

 何故、箱根へ向かうのか。

 理由が分からない。


「それは、置き屋の女将からか?」

 応援要請なら、珍しい話ではない。


「いえ……」

 瑠璃は、下を向いたまま黙り込む。

 何かを迷っている顔だった。

 俺は、続きを急かさなかった。


「事情が……あります」

「そうか……」

 今日は、ここまでだな。

 これ以上の追及は、やめる。


 俺は、静かにソファーへ身体を預けた。


「俺は、お前がちゃんと帰って来るなら何も言わない」

 瑠璃の肩が、少しだけ揺れる。


 少し空気を軽くするように、俺は小さく笑った。

「それに、俺もたまには『ユリ』に会いたい」

 

 瑠璃は、数秒ぽかんとした後とうとう耐え切れず、小さく吹き出した。


 俺も、少しだけ口元を緩めた。

「もし……俺が、『ユリ』を指名したら、お前どうする?」


 同一人物だ。

 だが、瑠璃は反応へ困った顔をした。

「え……?」

 口を開き、閉じる。

 何か言いかけて、また止まる。

 そのまま、ぱくぱくと数回繰り返した後。


 ようやく、観念したみたいに小さく息を吐いた。


「……私は」

「少し、やきもちを焼きます」

「でも。『ユリ』なら仕方ないですね」

 真面目な顔で、そんな事を言う。

 ……可愛い。

 俺は、とうとう堪え切れず片手で目元を覆った。


「景さん?」

「駄目だ……」

「何がですか?」

「お前、自分で言ってる意味分かってるか?」

 瑠璃は、少し考えてから。

 はっとしたように、一気に顔を赤くした。

「っ……!」

 俺は、小さく笑った。

 ——やっぱり、重症だ。


「社用で使う事もある……」

 俺は、静かに瑠璃を見る。

「それは、分かるな?」

 瑠璃は、小さく頷いた。


 箱根。

 “はなのや、ユリ”


 あの世界は、ただの過去ではない。

 仕事にも、人脈にも繋がっている。

 切り捨てれば済む話ではない事ぐらい、俺も理解している。

 俺は、静かに息を吐いた。

「全て辞めて欲しいと、今までの俺なら言うだろう……」

 瑠璃が、少しだけ目を見開く。


 否定しない。

 実際、以前の俺ならそうした。


 囲い、閉じ込め、外へ出さない。

 その方が、安心出来た。


 だが、それでは瑠璃は消える。

 俺は、もう知っている。


 だから……

「俺はお前の意思を尊重する」

 瑠璃の目を見て、断言する。

「お前が、何を抱えているのか……」

「話せる時期まで待つ」

 瑠璃の瞳が、ゆっくり揺れる。


「不安になるな」

「だが、隠し事だけはするな」

 瑠璃は、しばらく俺を見つめていた。

 そして。

 少しだけ、泣きそうな顔で笑う。


「……はい」

 その返事で、俺はようやく小さく息を吐いた。


 瑠璃が箱根へ向かう中、俺は祖母の呼び出しを受けた。

 鷹司の本邸。

 奥に、その人はいる。


「景です」

 使用人が扉を開ける。


 最高級の絨毯をはじめ、家具、食器、茶葉に至る何もかもが、一流の品。

 それを普段使いする。


 祖母。


「あぁ、景ちゃん。来てくれて、ありがとう」

「まずは、お茶でも飲みなさい」

 スッと音もなく置かれる煎茶。

 一口飲む。

 まろやかな、茶葉の甘みに少し緊張を解す。


「今日は、ちょっと難しい話しよ思うんやけど……」

 来た。これは家絡みだ。


「景ちゃん、あの子の事。どうするか、決めた?」

「はい」

 目は逸らさない。

「さよか。よろしい」

 もう一口飲む。


「わかってるやろうけど、妻は馨さん」

「……これは絶対や」

「昨今流行りの『好きな人が出来たから婚約破棄する』言うのは幻想や。わかってるやろね?」

「……はい」


「瑠璃ちゃんは、ちょっと難しい子や」

「うちらみたいな家の事はようわかってる。その弊害もよう『知ってる』人や」

 困ったように笑う、祖母。


「今日は、瑠璃ちゃんはお家にいてる?」

 確認するように尋ねてくる。

「いえ。外出してます、箱根へ……」

 珍しく、祖母が大きくため息を吐く。

「そうか。まだアカンか……」

「景ちゃん、瑠璃ちゃんが出かける事、ちゃんと聞いた?」

「はい。帰るならそれで良いと……深くは聞いていません」

 祖母がうんうんと頷く。

「待て。が覚えられて良かったわ」

 要領の得ない話。

「お祖母様?」

「せやねぇ……何処から話そ。結論からがええかしら?」

「はい」

 即答する。

「景ちゃんと瑠璃ちゃんは、夫婦には“なれません”」

 俺は息を呑む。

 祖母から聞く事実に、膝に置く手に力が入る。

 これは動かせない、自分の家の柵。

 俺と家の契約。

 わかっていても堪える。

 

 覚悟していた答えだった。

 それでも胸の奥が鈍く痛む。

「そう、ですね」

 祖母はそんな俺の様子を見て、小さく息を吐いた。

「でもね……」

 俺を真っ直ぐ見つめて、続ける。

「兄妹になります」

「……。え?」

 思ってもなかった事を言われた。

「先方さんのとこから来る子も、兄妹になります」

「はぁ?」

「身内にいれとかな、あかん子達なんよ。あんたのお母さんにはもう了承もろてます」

「関係的にちょっと、ややこしいケド……」

「これは決まりです」

 キッパリと俺の目を見て言う。


「瑠璃ちゃんとこ、お母さんが『アカン』のやけど、瑠璃ちゃんはよぅ捨てん……。この件は、奥向きで処理するから、景ちゃんは口出ししたらアカン」

「なにが起こっても、あの子を支えて、よう言って聞かせなさい」

「はい」

 決意を込める。

「うん。ええね。それと、来週。先方さんと打ち合わせって聞いとるね?」

「……はい」

「瑠璃ちゃん、連れてきなさい。先方さんと顔合わせします」

「承知しました」

「お祖母様、一つだけよろしいでしょうか?」

「なに?」

「お祖母様は瑠璃を何処までご存知ですか?」

「ないしょ。って言うても聞かんね……。生まれた頃から噂は聞いてる子やわ。まさか景ちゃんとこないなるとは思わんかったけど……」

 そう言ってコロコロと軽く笑う。


 俺は残った茶を飲み干し、部屋を後にした。


 戻った一人きりの部屋で考える。

 朝比奈に調べさせた、“ユリ”の経歴は途中から追えなかった。

 記録が、不自然に途切れている。


 一方で。

 瑠璃として提出された経歴書は、綺麗に整えられていた。

 学歴、職歴、資格。

 表面上は、何も問題ない。

 だが。

 妙に、不安定だった。


 昼と夜のダブルワーク。

 勤勉。

 遅刻もなく、金遣いも堅実。

 贅沢をしている形跡は、ほとんど無い。


 ブランド品も持たず、外食も少ない。

 生活水準は、むしろ質素だ。

 

 それなのに。

 いつも、金に余裕が無い。


 貯蓄も、ほとんど残らない。


 不自然だった。

 あれだけ働いて、生活が安定しない方がおかしい。

 朝比奈も、報告書の最後へ短く記していた。


『原因は母親かと』

 その一文だけで、十分だった。

 瑠璃は、家族を切れない。


 ……多分。

 切り捨てるという選択肢を、持っていない。


 だから、金も、時間も、感情も。

 ずっと、吸い取られていた。


 祖母の言葉を思い出す。

 ——『瑠璃ちゃんとこ、お母さんが“アカン”のやけど』


 静かに、息を吐く。


 ……なるほど。

 だから、あんなに“消え癖”があるのか。


 欲しがる前に諦める。

 迷惑を掛ける前に離れる。

 居場所が出来ると、怖くなる。


 全部、繋がっていた。

 あの日、暗い部屋で電気すら点けられなかった理由も。

 俺の部屋で『ただいま』と言うたび、どこか怯えていた理由も。

 ——俺は、まだ瑠璃を何も知らなかった。


お読みくださって、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
やっと読みにこれた! 今回の瑠璃、可愛かったですね。 素直に「少しやきもちを妬きます」だなんて!景さんじゃないけど、悶絶しちゃいました(´>∀<`)ゝ 分かる!分かるよ!あれは悶絶するね笑 そして…
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