日常を重ねる
何気ない日常を重ねる。
瑠璃は、この部屋へ帰る事に少しずつ怯えなくなっていた。
増えていく私物。
クローゼットの一角にかけられた服。
洗面台に並ぶ化粧品。
本棚へ増えた文庫本。
部屋の隅には、いつの間にか瑠璃専用のスペースが出来ている。
合鍵を使う事にも、もう慣れたようだった。
扉が開く。
「ただいま」
自然に零れた声へ、俺はリビングから返す。
「おかえり」
その一言だけで、瑠璃の肩から力が抜けるのが分かった。
以前なら帰る場所を持つ事、そのものへ怯えていた。
居過ぎてしまうのではないか。
迷惑になるのではないか。
そんな事ばかり考えていた瑠璃。
今では、冷蔵庫の中に自分で選んだ食材を入れ、当然のように、自分のマグカップを使う。
ソファーへ座れば、迷いながらも隣へ来る。
そういう小さな変化を、俺は静かに見ていた。
「景さん」
「なんだ?」
「今日、旬の果物が安かったんです」
嬉しそうに、袋を見せてくる。
俺は、小さく笑った。
「なら、今日はそれを食べよう」
瑠璃も、小さく笑い返す。
そんな何気ない日々。
気がつけば、俺にとっても当たり前になっていた。
出社時間の違いから、先に家を出るのは瑠璃だった。
洗面台の前に立ち、鏡を見ながら、慣れた手付きで髪を整えていく。
流行りのメイクは、瑠璃には似合わない。
どこにでも居そうな、地味なOL。
探してもなかなか見つからない無個性。
だが。
俺は、敢えて何も言わない。
これは、瑠璃の“外用”の顔だからだ。
目立たないように。
絡まれないように。
余計な視線を集めないように。
自分を守る為に作った、仮面。
以前、企画部の男に絡まれた時。
瑠璃は、本気で困っていた。
粘着質に迫ってくる男から必死に逃げ道を探していた。
目立たない格好をしていても、ある種人を惹きつけてしまう。
その姿を見てから、俺は、瑠璃が“地味”を選ぶ理由を完全に理解した。
だから、否定しない。
むしろ。
内側と外側の違いを、自分だけが知っている事へ密かな優越感すら覚えていた。
部屋で見せる、気の抜けた顔。
風呂上がりの薄い頬色。
無防備に笑う瞬間。
外の人間は知らない。
知っているのは、俺だけだ。
時折、俺は思う。
——その顔を、外へ見せるな。
知られたくない。
誰にも。
※※※
同じフロアにあった、営業部の席は空いたままだ。
適性。
そういう名目で、各部署から“お試し”を希望する声は、未だに止まらないらしい。
だが、企画部への配属だけは瑠璃自身が辞退した。
大した事件ではない。
周囲は、そう処理した。
だが、瑠璃はある種目立つ。
本人にその気が無くても、妙な執着を向けられる事がある。
そして。
あの時の、僅かに怯えた顔を俺はまだ覚えていた。
瑠璃の所属は、企画部ではなく今は、マーケティング本部付きになっている。
フロアも違う。
以前なら、視線を上げれば、彼女が居た。
資料を抱えて歩く姿。
小さく会釈する姿。
静かにコーヒーを飲む姿。
別に、話す訳ではない。
視界のどこかへ居る事が、いつの間にか当たり前になっていた。
だから今、その席が空いているだけでもう違和感を覚える。
……居ないことは分かっている。
別フロアで、普通に仕事をしているだけだ。
それなのに、見渡してそこに彼女の姿が無いだけで落ち着かない。
「部長?」
声を掛けられ、俺は視線を戻した。
「……なんだ?」
部下は、少し困ったような顔をしている。
どうやら、数秒止まっていたらしい。
俺は、小さく息を吐いた。
——重症だな。
部下が提出した稟議書へ目を通す。
問題がなければ、可決印を押す。
社内外の動きへ目をやり、必要な判断を下していく。
見積会議、人事会議、企画決定会合。
他社との面会。
やる事は山積みだ。
時間を逆算し、優先順位をつけなければ、今日も家へ帰れなくなる。
各部署から、定期レポートが届く。その中へ混ざる、マーケティング本部からのメール。
差出人は小沢 瑠璃。
内容は、ただの部内レポートだ。
数字、進捗、添付資料。
仕事として、特別な内容ではない。
それなのに俺は、無意識にそのメールを優先して開いていた。
『本日の会議資料を添付いたします。ご確認よろしくお願いいたします』
簡潔な文章。
『お疲れ様です。』
ただ、それだけの一文。
以前なら、こんな定型文へ何も思わなかった。
だが最近、瑠璃を知っている上長達の間で妙な現象が起きている。
「……癒されるんだよな」
「分かる」
「俺に言ってくれてる?」
「今日も頑張ろうって気になる」
そんな馬鹿みたいな会話を、いい歳をした男達が真顔でしている。
全員、よく人を見て、判断できる、いわゆる仕事が出来るタイプの人間だ。
俺は、静かにメール画面を閉じた。
——分かるが……。
分かるが、それは俺宛だ。
少しだけ、独占欲に似た感情が胸を掠める。
「部長……」
声を掛けられ、視線を上げる。
部下が、少し困った顔をしていた。
どうやらまた無意識に、口元が緩んでいたらしい。
※※※
帰宅すると、電気はついておらず、リビングは暗いままだった。
僅かに差し込む外の灯りだけが、室内をぼんやり照らしている。
その中で、ソファーへ座り膝を抱え込む瑠璃の姿が見えた。
顔を埋めたまま、動かない。
「……瑠璃?」
返事はない。
俺は、静かに近づいた。
「どうした?」
その声で、ようやく肩が小さく揺れる。
どうやら、俺が帰宅した事にも気づいていなかったらしい。
瑠璃は、ゆっくり顔を上げた。
少し赤い目。
泣いていた訳ではない。
だが、酷く考え込んでいた顔。
「……おかえりなさい」
掠れた声。
俺は、ネクタイを外しながら視線を向ける。
「何があった?」
瑠璃は、すぐに答えない。
黙ったまま、動かない。
そして。
ぽつりと、小さく呟いた。
「……私」
「ちゃんと、ここに居ていいんでしょうか……」
胸の奥が、重く軋む。
まだ……。
まだ、そんな顔をするのか。
俺は、静かに息を吐いた。
そして、当然のように瑠璃の隣へ座る。
逃げ場を塞ぐように。
けれど、追い詰めない距離で。
「瑠璃」
軽く手を握る。
「俺は、お前が帰って来る前提で仕事の予定を組んでる」
「冷蔵庫の中身も、生活の導線も、全部お前込みだ」
「今更、いなくなると言われた方が困る……」
瑠璃の目が、ゆっくり見開かれる。
俺は、小さく息を吐いた。
「だから、帰って来い」
「毎日。ここへ……」
「はい」
噛み締めるように、瑠璃は小さく頷いた。




