当たり前を重ねて
朝。
先に起きたのは俺だった。
隣には、まだ眠る瑠璃。
その寝顔を少し見つめてから、静かにベッドを抜け出す。
キッチンへ向かい、コーヒーを淹れる。
スイッチを入れると、小さなランプが灯る。
コポコポ、と静かな音を立てながら湯が豆を通り、ゆっくりと抽出が始まる。
湯気とともに立ち上る深い香りが、静まり返った部屋を満たしていく。
ガラスサーバーには琥珀色のコーヒーが少しずつ溜まり、穏やかな時間だけがゆっくりと流れていた。
少しして。
ぱたぱたと、控えめな足音が聞こえた。
振り向くと、瑠璃がまだ少し眠そうな顔で立っていた。
「……おはようございます」
「おはよう」
少しだけ、お互いの視線の置き場に困る。
昨夜を、思い出してしまうからだ。
俺は、小さく息を吐いて。
「コーヒー、飲むか?」
「はい」
瑠璃は、少しだけ笑った。
向かい合って座る、静かな朝。
カップから立ち上る湯気。
その沈黙が、不思議と心地良い。
瑠璃が、ぽつりと呟く。
「……なんだか、本当に帰ってきたみたいですね」
瑠璃が、また小さく笑う。
俺の指先が、ぴくりと止まる。
危険だ。
朝から、そんな顔で言うな。
俺は平静を装い、コーヒーカップを口元へ運ぶ。
瑠璃も、両手でカップを包み込む。
静かな朝。
窓から差し込む光。
コーヒーの香り。
誰かと、こんな時間を過ごした事などあっただろうか。
ふと、瑠璃が小さく首を傾げる。
「景さん……」
「なんだ?」
「凄く眠そうです」
「……」
原因は誰だ。
昨夜。
部屋で一人、散々取り乱していた癖に。
いや、こちらも人の事は言えない。
浴室に薄く残っていた瑠璃の香りを思い出す。
俺は、そっと目元を押さえた。
瑠璃が、少し不思議そうに見ている。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃない」
低く掠れた本音。
瑠璃が、ぴたりと止まる。
それから、昨夜の“近寄るな”を思い出したのか、みるみる顔が赤くなる。
俺は、とうとう堪え切れず。
笑った。
「……本当に、分かりやすいな」
「だって、景さんが変な事言うから……」
「変な事ではない」
瑠璃は、完全に視線を逸らした。
その時、部屋のインターフォンが鳴る。
二人同時に、視線を上げた。
「おはようございます。書類を、受け取りに参りました」
何も知らない、朝比奈が来た。
オートロックを解除して朝比奈を招き入れる。
すぐに、玄関のドアを開ける。
朝比奈は入室して一瞬で何かを察して、踵を返す。
「明日、社内で……」
と言いながら、逃げようとする。
俺は即座に後ろから手を掴む。
「せっかくだ。淹れたてのコーヒー、飲んでいけ」
奴を中に引き入れ、鍵をかける。
朝比奈は、逃げられない絶望を浮かべ、すごすごと中のリビングに入った。
そこには、煎りたてのコーヒーの香り。
湯気が二つ並んだカップと、寝起き顔の瑠璃。
彼女が着ている、明らかにサイズの違うシャツ。
「仏滅か?今日は……」
「いや、俺の神が死んだのか?」
と天を仰いだまま、呟く。
暫くそのままの状態だった。
「何をしている?」
「俺が淹れた。冷める前にサッサと飲め」
とカップをテーブルの上に置く。
「いえ、神に祈っていました」
「何を言っている?」
テーブルを挟んで向かい合う二人の様子を見て、瑠璃はまた主寝室へ入っていった。
朝比奈はその様子を見て、
「おめでとうございます」
死んだ魚のような目をして、思ってもない事を口にする。
「何がだ?」
「いや、何がって。『御本懐を遂げられた』のでは?」
確信したように言う。
暫く沈黙が落ちる。
「……。まだだ」
「はっ?」
「何度も言わせるな!」
と言いながら、朝比奈が回収する書類を渡す。
朝比奈は受け取りながら、信じられない顔をする。
「アンタ、不能か?」
「は?」
「すぐに医者を——」
「違う」
唸るような低い声で即答する。
「……では何故です?あんなの前にして、無理でしょ?」
男なら無理だと真顔で聞いてくる。
深い深いため息を吐く。
俺のそんな様子を見て、朝比奈は一つの可能性があった事を思い出した。
「除草剤?見たんですね……」
今度は気の毒そうな顔をする。
「なんだ?それは?」
奴がなにをどう捉えたのか、まるでわからない。
朝比奈は平然と書類を確認し終える。
「確かに、受け取りました。帰ります」
そう言い、玄関へ向かう。
そして帰り際。
爽やかな笑顔で、
「ドンマイ!」
と俺の肩を叩いて出ていった。
主寝室から出てきた瑠璃は、着替えていた。
「どうした?」
「あの、買い物に行ってきます」
「そうか、車を出そう」
「いいんですか?」
瑠璃は少し迷ってから、
「郊外の大型ショッピングモールへ行きたいんですが……」
と言う。
「ならドライブも兼ねて。たまにはいいだろう?」
その言葉に、瑠璃はうれしそうに笑う。
郊外のショッピングモール。
駐車場に入る際は少し並んだ。
日用品と、嵩張る食料品をカートへ入れていく。
俺は、普段カートを引く事などないので新鮮な経験だ。
瑠璃は野菜類を真剣に吟味しながらカートへ入れる。
果物売り場で立ち止まるが、値札を見て首を振り歩きだそうとする。
「……俺は旬の果物が食べたい」
そう言うと、慌てて戻ってくる。
「どれがいい?」
「今の旬はコレなんです。でもお値段が、可愛くない」
手に取っては返す。
しかし、一点をチラチラ見ている事に気づく。
「俺はこれが食べたい」
と手に取りカートへ入れる。
呆気に取られた顔で目を瞬くと、くしゃりと嬉しそうに笑う。
その後も瑠璃が値段を気にする所を強引にカートへ入れる。
すぐに買い物カゴはいっぱいになる。
会計の時はレシートが帯のような長さになった。
瑠璃は慌てていたが、何事もないように俺は決済する。
他に寄りたい所はないかと聞くが、
「今日は充分です」
と瑠璃は満足気に答えた。
後部座席にたくさんの荷物を積み、帰路に着いた。
日々は過ぎる。
朝を迎え、食卓を囲み、買い物へ行く。
小さな幸せを、一つずつ積み重ねていく。
それだけで、十分だった。
これは、特別な時間ではない。
この日々は日常なのだ、と丁寧に教える。




