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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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19/26

初めての応え

 演目が終わる。

 大きな拍手と歓声が静まり、ゆっくりと人波が動き始めた。

 瑠璃と祖母、朝比奈の母と共に歌舞伎座を後にする。

 瑠璃は、まだ余韻の中にいる。

 こちらの呼びかけに曖昧な返事しかせず、大事そうにパンフレットを胸に抱く。

 その仕草に少し面白くないと感じてしまう。


「ふぅー……」

 瑠璃が小さく息を吐く。

 その瞳は、まだ舞台の熱を映したままきらきらと輝いていた。

 可愛い。

 俺は、無意識にそう思う。


 祖母が楽しそうに笑った。

「ええねぇ。ちゃんと分かってくれる人と観られるんは……」

「景ちゃんも、玲ちゃんも、解らん言うて途中で寝よる」

 ころころと笑う。

 瑠璃が、信じられない物を見るような顔でこちらを見た。

 俺は少し気まずく、視線を逸らす。


「……お祖母様。この後、我々は何処へ向かうんですか?」

 話を逸らす。

「お茶会よ。」

「帝国さんで、アフタヌーンティーの新作」

 祖母はそう言って、カバンから招待状を取り出す。

「お誘い受けてん」

 その言葉を聞いた瞬間に、

「……っ!!」

 また、瑠璃の目が輝いた。

「し、新作発表前の!?」

 祖母が、にこにこと頷く。

「瑠璃ちゃん、甘いの大丈夫?」

「勿論です!」

 即答だった。

「おばあちゃんだけやと、食べ切れへんし……」

「良かったわぁ」

 そのまま、祖母は自然に瑠璃の手を取る。

 まるで、最初から孫娘だったかのように。

「一緒に行こね」

 そう言って、優しく瑠璃の手を引いて車の待機場所まで歩いた。


 帝国ホテルを後にする頃には、外はすっかり夜だった。

「今日はありがとうねぇ」

 祖母は満足そうに笑う。

「瑠璃ちゃん、また遊んでね」

「はい、喜んで」

 自然に返す瑠璃。

 その様子を見て、俺は静かに目を細めた。


 車寄せに祖母を迎えに来た車が停まっている。

「景ちゃん」

 乗り込む直前、祖母がこちらを見る。

「大事にしょし」

 静かな声。

 だが、その意味は重い。

「はい」

 俺も短く返した。

 祖母は満足そうに頷き、車へ乗り込む。

 そのまま、ゆっくり走り去って行った。


 都会の夜風が抜ける。

 瑠璃が、ふぅっと小さく息を吐いた。

「凄い一日でした……」

「疲れたか?」

「少し」

 そう言いながらも、表情は柔らかい。

 楽しかったのだろう。

 俺は、少し迷ってから、口を開いた。

「……瑠璃」

「はい?」

「このまま、戻るか?」

「え?」

「部屋……」

 一瞬、瑠璃の呼吸が止まる。

 “俺の部屋”。


 もう何日も過ごしている、安心出来る場所。

 眠れる場所。


 けれど、それを“当たり前”にして良いのか、まだ怖いのだろう。

 瑠璃は少し俯く。


「……甘え過ぎると、戻れなくなります」

 小さな声。

 俺は、静かに聞いていた。

「戻れなくて、何が悪い?」

 そう、当たり前のように返す。

 瑠璃が、ゆっくり目を伏せた。


 夜風が、静かに髪を揺らす。

 

 瑠璃は、少し迷うように息を吐いてから小さく笑った。

「……なら、帰りたいです」


 俺の呼吸が、一度止まる。

 瑠璃が、こちらをじっと見る。

「貴方の部屋へ……」


 その一言を聞き、すぐに流しのタクシーを拾った。

 

 二人で、俺の部屋へ戻る。

 ただ、それだけの事だ。


 互いに、窓の外を見ている。

 流れていく夜景。

 信号、街灯。

 そして、静かな時間。

 会話はない。

 けれど、手だけは離れていなかった。


 触れ合った指先から、互いの温度だけが静かに伝わってくる。


 何も言わない。

 言えば、今の空気が壊れそうだった。

 だから、ただ隣いる気配を感じる。


 ふと、車窓へ映る瑠璃を見る。

 夜景に重なる横顔。

 少し疲れた表情。

 それでも、どこか安心したような顔。


 俺は、静かに目を細めた。

——帰る。

 その言葉が、胸の奥で何度も反芻されていた。


 部屋に入る。

「ただいま。……みたいですね」

 瑠璃は自然な手つきで、俺が脱いだジャケットにブラシをかけ、玄関クローゼットへ掛けた。


 お互い手を洗い、俺は浴室に湯を貯める。

 瑠璃は鏡の前で簪一本で結えていた髪を下ろす。


「なんですか?」

「いや、器用だな……」

 素直な感想に瑠璃は軽く、ふふっと軽く笑う。


 湯が貯まるまで瑠璃とソファーに座り、パンフレットを一緒に見る。


 そこで、思い出すようにふわりと微笑み、

「楽しかったです」

 と呟く。

「また、行くか……」

「……。はい」

 積み重なる小さな約束。

 そして、重なり、絡み合う視線。

 先に視線を逸らし、俯く瑠璃。

 軽く抱き寄せ、旋毛に軽くキスをする。

 リップ音に顔を上げる。


 ゆっくり顔を近づける。

 瑠璃は逃げない。

 軽く目を閉じるまつ毛の先が、少し震えている。


 そして、そっと唇を重ねる。

 少しだけ跳ねた身体を安心させるように摩る。

 合わせた唇が離れる。

 瑠璃が目を開ける。

 絡み合ったままの視線。

 今度は角度を変えやや深く。


 結ばれていた唇が、ゆっくりと解かれる。

 迎えいれられる。


 瑠璃からの初めての応え。


 血が騒ぐ。

 しかし、慎重に、深く何度も何度も。


 段々と呼吸が乱れる。

 さらに抱き寄せる。

 こんなに口づけを甘く感じた事はなかった。

 夢中になる。


 瑠璃がそっと服を掴む。

 それを合図に顔を離す。

 つうっとお互いの唾液が糸をひく。

 再度、顔を寄せる。

 再び瑠璃が目を伏せた。


 唇を合わせる直前に軽快な音楽と共に聴こえた。

『お風呂が沸きました』

 お互いに顔を見合わせて、吹き出す。


 俺たち『らしい』。


「瑠璃が先に入れ」

「俺は……、少し仕事をする」

「……はい」

 瑠璃が、小さく頷く。

 俺は先に席を立ち、書斎へ入る。


 静かな部屋。

 少しして、浴室から水音が聴こえる。

 俺は、そこでようやく深く息を吐いた。


「……」

 熱い。

 身体の奥が、まだ熱を持っている。


 瑠璃が応えた。

 逃げなかった。

 受け入れた。

 その事実だけで、理性が、酷く揺れる。


 俺は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。

——焦るな。

 ここで壊したら、終わる。


 だから、少し昂った熱を逃がすように。

 静かに、息を吐いた。


 目の前には、開いたままの書類。

 いつもならすぐに読み込む数字の羅列。

 だが、今は全く頭に入らない。


 俺は、小さく息を吐いた。


——応えた。

 無意識に、唇へ触れる。

 思い出すだけで、また身体の奥が熱を持つ。


……危険だ。

 このまま瑠璃の顔を見れば、理性が保つ気がしない。


 その時。


 浴室側の扉が、静かに開く音がした。

 反射的に視線を向ける。


 瑠璃が遠慮がちに、書斎の扉をノックする。

 薄く開く扉から、顔を出す。

 風呂上がりの薄く火照った頬。

 まだ少し湿った髪。


 そして、浴室に置いたままの、洗濯済みの俺の部屋着を着る彼女。


 少し大きい。

 袖から覗く指先が、妙に目につく。

 俺は、静かに視線を逸らした。


……駄目だ。

 今、見るな。

 そんなこちらを知らず、瑠璃は少し困ったように笑う。

「やっぱり、大きいですね」

「……」

「景さん?」

 名前を呼ばれる。

 低く、短く息を吐いた。

「瑠璃……」

「はい?」


「今日は、もう俺に近寄るな」

 言葉だけがキツく響く。

 誤解される言い方になる。

 だが、他に言いようがなかった。

 俺は顔に血が昇るのを感じていた。


 やはり、その言葉に困った顔のまま固まってしまった瑠璃だったが……。

 

 一呼吸置いてから瑠璃の顔が、みるみる赤くなった。

 俺は、とうとう耐えきれず片手で目元を覆った。

「……本当に、無理だ」

 完全に、負けた。


 瑠璃は小さい声で、

「お先でした……。寝ます。おやすみなさい」

 と早口で言い残す。

 主寝室のドアの開閉の音。


 また静寂に包まれる。

 今日はこれ以上、仕事にならない。

 諦めて、浴室へ向かう。


 まだ残る湯気、彼女が使うボディーローションの残り香。

 普段意識しない事が次々と積み上がる。

「落ち着け」

 と自身に向けるが、熱はもっと上がる。

 頭から冷水を浴びると気持ちいいぐらいだった。


 寝室へ行くと、小さく体を抱えて眠る瑠璃。

 その横に入り、彼女に背を向ける。


 明け方。

 目が覚めると、いつの間にか彼女を抱き込んでいた。


 彼女はまだ、夢の中。

 いつ見ても、綺麗だ。


 満足して、再び目を閉じる。

お読みくださって、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
熱が……すんごい! 序盤のほんわかな空気。一瞬で私の中からララバイしました笑 濃厚すぎるぅぅ!!ドキドキドキドしました!! 景さん、ヤバい。そりゃ瑠璃ちゃんも顔真っ赤になるよ! でもギリギリで抑えて…
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