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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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18/27

迎える朝

 朝、先に目を覚ましたのは俺だった。

 腕の中の柔らかな重み。

 昨夜、眠るまで撫でていた髪が胸元へ流れている。


 静かな寝息。

 規則正しい呼吸。

 触れている場所が温かい。


……危険だ。

 幸せ過ぎる。


 瑠璃は眠っていた。

 無防備に、こちらへ身体を預けている。

 服の裾を掴む指。

 昨夜、無意識に掴んだままなのだろう。


 俺は思わず目を閉じる。

 可愛い。

「……っ」

 危うく声が漏れそうになった。

 朝から心臓に悪い。

 逃げられないよう、閉じ込めたい。

 その衝動が、寝起きの緩んだ理性に滲む。


 だが。

 昨夜、安心したように眠った顔を思い出す。

——壊したくない。

 俺は小さく息を吐いた。

 そのまま、そっと瑠璃の前髪を避ける。


「……ん」

 瑠璃が唸る。

 小さく眉が寄った。

 起きるかと思ったが、またすぐに力が抜ける。

 そして、無意識にこちらに擦り寄ってきた。


「……」

 理性が試されている。

 かなり。


 その時、枕元の端末が静かに振動した。

 朝比奈の母からだ。

 俺は舌打ちを堪えながら、そっと端末を取る。


 小声で応答する。

「……何だ」

『おはようございます』

 いつもの落ち着いた声。

 祖母付きの忙しい彼女からの連絡に嫌な予感しかしない。


『坊ちゃま』

『今、どちらでお休みですか?』

「寝室だ。切るぞ」

 声を潜めて、短く返す。

『坊ちゃま』

「……何だ?」

『大奥様から、朝食のご指示を承りました』

「そうか……」

『リビングにご用意致します』

「……朝比奈」

『はい』

「今、どこにいる?」

 気になった事を聞く。


『坊ちゃまのお宅の、リビングでございます』

『焼き魚は鮭で宜しかったでしょうか?』

「……は?」


『お嬢さん、まだ眠っておられますので小声でお願い致します』


「……ぅ?」

 人の気配に小さな声を上げる。

 瑠璃が、ゆっくり目を覚ましかける。

「……ぅー……?」

 寝惚けたまま、こちらを見る。

 俺は、即座に腕を伸ばした。

「まだ寝ていていい」

「もう少し寝ろ」

 低い声で、宥める。

 瑠璃は、ぼんやり頷く。

 再び眠りへ落ちそうになるが、何か違和感があるのだろう。

 今度は必死に目を開けようとしていた。

 俺は、思わず眉を寄せる。


 昨日、瑠璃は泣いたままだったが、そのまま寝かせた。

 だから今、瑠璃は酷い格好だった。

 髪は乱れ。

 酷く落ちた化粧。

 昨日、着たままの服も乱れて皺になっている。


 何より、無防備過ぎる。

 こんな状態を母とはいえ、『朝比奈』に見せたくない。


 リビングから再び、

「おはようございます!」

 と響く声が聞こえる。


 その声に瑠璃は反射的に

「はい、おはようございます!」

 と答えベッドから起き上がり、リビングへ出る。


 朝比奈の母は、俺の表情を確かめるように見つめ、それから瑠璃の様子をひと目見て、深く笑みを浮かべた。

「ごゆっくり休まれて、何よりです」

「朝食の前に、浴室のご用意は致しました。お着替えは、そちらでどうぞ」

 と浴室に彼女を押し込む。


 瑠璃は、目を白黒させながら素直に従い、浴室に入る。

 戻ってきた朝比奈の母は、

「坊ちゃま。お手つき、されなかったのですね」

 と事実を確認してくる。


「出来る訳ないだろう?」

 一段と深いため息。

 朝の緩まった理性も、一瞬で閉まった。


「良かった、のではございませんか?」

 笑顔のまま、こちらを見る。

「そうか」

「有耶無耶が一番、始末が悪い」

 そう冷たく、切り捨てた。

 

 シャワー室から出て来た気配を察知すると、また瑠璃の方へ向かう。

 常にない甲斐甲斐しさに少し驚く。

「こちらは、目が腫れていますのでご負担です。今日は外したままにしましょうね」

 有無を言わさずコンタクトを取り上げ、髪も乾かし、美しく整える。


「まぁ、素敵になりました」

 そう言ってリビングへ瑠璃を向かわす。


「ウチも、坊ちゃまも、男の子ですから。女の子のお世話は楽しいですね」

 とニコニコしている。

 されるままの瑠璃は、まだ困惑している。


「では」

 朝比奈の母が、静かに立ち上がる。

 穏やかな笑顔。

 そのまま、手際よくリビングを片付けていく。

 使った食器を洗い、朝食の残りを片付ける。

 

 瑠璃が使って濡れたタオルや着替えも備え付けの洗濯機に入れてセットする。


「お嬢さん。また、必要な物をお届けに参りますね」

「はい……」

 まだ少し困惑したまま、瑠璃が頷く。

 朝比奈の母は、満足そうに微笑んだ。


「それでは、一度失礼致します」

 そのまま、静かに部屋を出て行く。

 玄関が閉まる音。

 不意に、部屋が静かになったと感じた。

 

 広い部屋に、二人だけの静けさ。


 朝比奈の母が去った後、生活音の消えた空間。

 不思議と、空虚ではない。

 これが自然だ。

 そう俺は静かに噛み締めていた。


 ふと、視線を感じる。


 瑠璃が、何かを言いたそうにこちらを見ていた。

 けれど、言葉には出来ないまま。

 その瞳だけが、揺れている。

 色々な感情が浮かんでは消える。


 迷いと困惑。

 安心と諦め。

 そして、微かな熱。


 コンタクトで隠されていない、瑠璃本来のサファイアのような瞳の煌めきでよく分かった。

 俺は、静かに息を吐く。

「……何だ」

 瑠璃は少し迷ってから。

「景さんって」

 小さく、笑った。

「意外と、強引ですよね……」

「今更か?」

 瑠璃が、ふふっと吹き出した。

 その笑顔に、俺の胸がまた少しだけ満たされる。


「こんな事になるなんて……」

 瑠璃が、小さく俯く。

「ご迷惑を、おかけして……」

 その言葉を俺は、途中で遮った。

「迷惑じゃない」

 迷いなく、静かな声で言い切った。

 

 瑠璃が、ゆっくり顔を上げる。

 俺は、そのまま続けた。

「あそこに、瑠璃を置いておく事の方が、俺には耐えられない」

 低く、押し殺した声になった。

 瑠璃の瞳が、微かに揺れる。

 俺は、自嘲するように笑った。

「俺も驚いてる。こんなに、我慢が効かないとは思わなかった」

「……景さん」

 名前を呼ばれる。

 それだけで、胸の奥がじわりと熱くなる。


 俺はゆっくりソファへ背を預けた。


「お前は……。もう少し、人を頼る事を覚えろ」

「……」

「全部、一人で耐えるな」

 瑠璃は、返事をしない。

 ただ、膝の上でそっと指を握り締めていた。


「それと一つ、先に謝っておくが……」

 俺は、少し視線を逸らす。

「なんですか?」

 瑠璃が、小さく首を傾げる。

 俺は、小さくため息を吐いた。

「ウチの祖母が、土曜日に歌舞伎座へ行くらしい……」

 朝比奈の母から伝えられた。

「……。それで、お前と一緒に行きたいと、駄々を捏ねている」

「まぁ、そうなんですか?」

 瑠璃が、少し驚いたように目を丸くする。

「今の演目、何だろう……」

 そのまま、端末を開く。

 数秒後。

「……えっ?」

 珍しく、瑠璃が、本気で驚いた顔をした。

「コレのチケット!?」

 俺は、少し眉を上げる。

「そんなに凄いのか?」

「凄いなんてレベルじゃないです!」

 瑠璃が思わず身を乗り出す。

 その顔が、昨夜まで泣いていた人間とは思えない程、生き生きしていた。

 俺は、静かに目を細める。

「それなら、一緒に出掛けてくれるか?」

 瑠璃は、一瞬も迷わなかった。

「喜んで!」

 と嬉しそうに笑う。


 その笑顔に、俺はまたどうしようもなく満たされる。

お読みくださって、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
甘ーい朝の風景。 何も無かったはずなのに めっちゃ甘ーい。 そして景さんが幸せそうでなにより……。 こんなに幸せ噛み締められるともう、可愛くて仕方ないですね!!
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