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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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【閑話】大奥様は今日もご機嫌

 端末が鳴る。

 誰からか、通知を確認する。

「大奥様、坊ちゃまからです。失礼します」

 主人にことわりを告げて、通話する。

「はい、朝比奈でございます」

『……頼みたい事が、ある』

 珍しく、少し掠れた声だった。


「承知致しました」

 内容を聞き終え、静かに通話を終える。

 そして、部屋の主人へ向き直った。


「大奥様、坊ちゃまから諸用のご依頼でございます」

「まぁ。あの子が、自分から?」

 少し驚いたように、主人が目を丸くする。


「珍しいこと」

「いかが致しますか?」

「ここは、ええよ。早よ、行っておあげ」

 その声は、どこか柔らかかった。

「かしこまりました」

 告げられた住所へ向かう。

 到着後、まだ坊ちゃまたちが部屋にいた。

 二、三確認してから、この部屋の住人共々一度外へ出す。


 そのまま、静かに片付けへ取り掛かった。


 ……酷い。

 私は小さく目を伏せる。

 なんとも、質素な生活だった。

 最低限すら、満たせていない。


 隣室からは、相変わらず下品な音が響いている。

 冷蔵庫をそっと開ける。

 冷蔵庫の中にはほんの少しの野菜、僅かな調味料。

 処分するものがほとんどない。

 まともな食事をしているとは思えなかった。


 押し入れのケースを開く。

 そこにも、華美な物は一つも無い。


 補修跡のある下着、擦り切れた部屋着。

 くたびれた外出着。


 私は静かに息を吐いた。

 正直。

 ここまで、とは思っていなかった。


 それでも。

 最後まで、“ここは無くせない”と頑なだった彼女。


 ……居場所、だったのだ。

 たとえ、こんな場所でも。

 思わず、小さくため息が零れた。


 ゴミ類だけを分け、静かに処分用の袋に入れる。

 それ以外は、極力そのまま残した。


 家具の位置、生活の痕跡。

 小さな癖。


 見た目には、何も変わらないよう整える。

 最後に、部屋を静かに見渡した。


 ……帰る場所は、残しておくべきだろう。


 私は何度目かのため息を吐く。

 必要なものと処分する袋を持つ。

 そのまま、部屋を後にした。


 本邸へ戻る。

 部屋の主人の様子を確認すると、ちょうどベルが軽く鳴った。

「失礼致します」

「あら、もう戻っとったの?」

 少し驚いた顔を見せた主人は、

「お茶、飲みたいんやけど……」

「かしこまりました」

 主人のお気に入りの茶葉を使い、丁寧に日本茶を淹れる。


 ふわりと、柔らかな香りが広がった。

 テーブルへ静かに置く。


 主人は、ゆっくりと口に含む。

 ほぅ、とため息を吐き私を見る。

「それで……どう、どうやった?」

「予想以上、でございました」

 先程までの光景が、まだ頭に残っている。


 主人は、小さく頷いた。

「そう」

 何かを考えるように、暫く沈黙が落ちる。

「あちらさん、お母さん。大分アカンみたいやねぇ」

 手元の紙を眺めながら、静かに呟く。

「左様でございますか」

 ……納得した。

 あの生活。

 あの諦め。

 あの、“自分を後回しにする癖”。


 全てが綺麗に繋がる。


「お嬢さん、どんな子やった?」

「この前会いに行った時は病気やったし……」

 軽いため息と共に、

「余裕が無い所へ、坊ちゃまの想いが重なり……」

「限界だったようです」

 そう報告する。

「あらまぁ!」

 主人が、ころころと笑う。

「普段から、目立つ事がお嫌いなようで、埋没しようと努力されていた所……」

 なんと言おうか考えていたところへ、主人が言葉を被せる。

「あの子に、見つかってしもたの……」

「……難儀な宿命やねぇ」

 主人はまた一口、静かにお茶を飲む。


「朝比奈」

 主人にはっきりと名前を呼ばれる。

「明日は、あの子の所で栄養あるもの、作ったげなさい」

「こちらは……そやね、佐島に任せます」

 明日の係を決める。

「承知しました。引き継ぎ致します」

 一礼して、扉を閉めた。

 同僚の佐島に、不測の事態に備え、明日一日の主人の予定と手配すべき内容を細かく引き継ぐ。


 翌日、坊ちゃまたちの朝食後の片付けを終え、私は再び主人の元へ戻った。


「大奥様、戻りました」

「あぁ、ご苦労様。どうやった?」

 主人が、どこか楽しそうに聞く。

 私は、静かに答えた。

「坊ちゃまには、残念ながら……」

 一つ息を吐き、告げる。

「成りませんでした」

 静寂が場を包む

 外から鳥の鳴き声が聞こえる。

 そして、

「まぁ!」

 主人が、思わず声を上げる。

「あの子が!?」

「欲しいものを前にして!?」

 本気で驚いていた。

 私は見た光景を静かに続ける。

「寝乱れてはおりましたが、痕跡はございませんでした」

 その瞬間。

 主人は、堪えきれず声を上げて笑った。

 笑い涙を拭きながら、

「せや、せや」

「今度の土曜日やけど……景ちゃんと、お嬢さん連れて行きたいわぁ」

「頼める?」

 聞いては、いる。

 だが。

 これは、既に決まった事だ。

「承知しました」

「それから……。やはり、サファイアでございました」

 主人は静かに目を閉じた。

「……そう」

 一息の沈黙。

「やはりね……。景ちゃん、しっかり捕まえられるかしら……」

 主人が少しの懸念を示した。


※※※

 ホテルから、本邸へ向かう車内。

「ほんに、楽しかったねぇ」

 主人が、静かに呟く。

 その表情は、ひどく満足げだった。


「皆んなにも見せびらかせたし、気分ええわぁ」

 上品な紙へ視線を落とす。


 そこには、“そちらのお嬢さんは、どちらの方の?”そんな内容ばかり並んでいた。

 主人は、ころころと楽しそうに笑う。

「また、行きたいわぁ」

 と呟きながら、

「せや、思い出した。玲ちゃんとこのお嫁さんは?」

「一緒に来ぃひんの?」

 楽しそうに聞かれる。

 朝比奈の母は、静かに姿勢を正した。


「愚息は、相当な奥手だったようで……。まだ、捕まえ切れておらず……と」

 思わず零れそうになるため息を、静かに飲み込む。

 夫は玲が決めたその日からいろいろと動き始めた。

 家に入れるための調整を進めているのに、玲は彼女に何も告げていない。

 彼女の進路や可能性を考えているそうだが、鷹司の血だ。

 決めた相手を離す事など出来ないのに、無駄に足掻いている。


「まぁまぁ!あの卒のない、玲ちゃんが?」

 主人が、面白そうに目を細める。


「御前様へ申し上げた内容に、間違いはございません。……ですが、当人達に進展が無いようで……」


……息子の、非常にのんびりした動きに頭が痛い。


「彼女の家の調整まで、まだ話が出来ておりません」

 主人が、思わず吹き出す。

「まぁまぁ!」

「玲ちゃん、そういう所あるわねぇ」

「石橋叩き過ぎて、橋無くすタイプや」

「全くでございます」

「お嬢さんの気ぃ変わらんよう、早う捕まえとかな」

「全くでございます」

 深く同意する。


「せやけど景ちゃん、顔変わったねぇ」

 車が静かに走る。

 窓の外には、流れていく夜景。

 私は小さく微笑んだ。

「えぇ」

「今は、“待て”を覚えられている最中、でございます」

 大奥様が、ころころと笑う。

「前まで、なんでも簡単やったからねぇ」

「今、えらい難儀するんは、ええ事や」


「坊ちゃまも、ようやく“欲しい”だけでは駄目だと理解され始めております」

「遅いくらいやわ」

「本当に……」

 二人、静かに笑う。


 少し間を置いて。

 大奥様が、ふと窓の外を見た。


「瑠璃ちゃん、怖がりやのに頑張るねぇ」

 朝比奈も、静かに頷く。


「逃げる事には慣れておられます」

「ですが……、留まる事には慣れておられないのでしょう」

 車内に、静かな空気が落ちる。


 主人は小さくため息を吐いた。

 窓へ映る夜景を見つめ、その口元にはどこか楽しげな笑みが浮かぶ。


「せやけど……景ちゃん、“帰りたい”言われたら、もう終わりやねぇ」

 私は少しだけ笑みを深くする。

「今頃、大変かと……」


 一方その頃。

 書斎。

 景は、全く仕事へ集中出来ていなかった。

お読みくださって、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
そうか、それで瑠璃はこんな生活を。 涙の理由、そしてここが彼女にとって大切な居場所だった事。それを理不尽に奪われてしまったことが悔やまれて仕方ない。 待てを覚えてる最中でございますって所の会話が笑 …
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