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彼のたいせつな、…。  作者: あぐり りょう


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16/28

必然の理由と瑠璃の涙

 結局、会社を出る時に、馴染みの料亭へ仕出し弁当を頼んだ。

 ちょうど帰宅したところで、到着の連絡が入る。

 受け取った弁当を、ダイニングテーブルに広げた。


 瑠璃は慣れた様子で、キッチンに用意された椀や湯呑みを出す。


 外での食事だと、瑠璃は費用を気にする。

 ユリなら仕事だと割り切れるが、瑠璃は自分の分は自分で賄いたいと強く思っている。


 人に甘えることがない。

 もっと頼って、甘えてほしい。

 目の前で、美味しそうに弁当を頬張る姿を見ながら、強く願った。


 食事を終え、ソファーへ移動する。

「少し、疲れたか?」

 俺は、静かに聞いた。

「大丈夫です」

 瑠璃は、力なく笑う。

「大丈夫じゃ、ないだろう?」

 淹れたコーヒーを、テーブルへ置く。

 そして、驚かせないようにそっと隣へ座る。

 瑠璃が、小さく首を傾げる。

 少し考えて、ぽつりと呟く。

「……私のアパート。隣の部屋の方が変わって、夜中になると、ロックバンドの曲を大音量で歌うんですよ」


「隣が?」

「ええ。今まで空室だったので、気にならなかったんですが……」

 小さく、息を吐く。

「最近、少し寝不足です」

「明日は休みだし、泊まるか?」

 俺は、自然な声で言う。

「着替えも、この前の物がそのままある」

「一度、ゆっくり休め。……いいな?」

 畳み掛けるように決める。

 瑠璃が、少し黙る。

 そして、

「……いいんですか?」

 小さく聞いてきた。

「あぁ」

 俺は、少し瑠璃を見てから軽く笑う。

 そして、声を潜めて、

「内緒だがな……隈、酷いぞ?」

 戯けるように言う。

 瑠璃が、困ったように笑った。

「じゃあ……。ソファー、お借りしようかな」

「ベッドを使え」

「でも、景さんは?」

 俺は、当然のように答える。

「隣で寝る」

「先日まで、そうだっただろう?」

「先に寝なさい」

 そう告げて、俺は書斎へ向かった。


 今日は、持ち帰った仕事が捗る気しかしない。

 案の定、会心の出来だった。

 満足して、パソコンを閉じる。


 そのまま、軽くシャワーを浴び主寝室へ戻る。

 照明を落とした部屋に、横たわるシルエット。

 やはり、限界だったのだろう。

 瑠璃は、眠っていた。

 俺が入って来た事にも気づかない、静かな寝息。

 俺は、ゆっくりその隣へ横たわる。

 そのまま、じっと瑠璃を眺めた。


 薄く浮いた隈。

 疲れの残る目元へ、そっと触れる。

 メイクを落とした、素の顔。

 無防備で、柔らかい。


 感情が抜け落ちると、瑠璃は人形のようだった。

 無機質で。

 静かで。

 触れれば壊れそうな、美しさ。

 ずっと、眺めていたかった。


 だが、隣から伝わる体温が心地良い。

 規則正しい寝息。

 柔らかな呼吸。

 それに引かれるように。

 俺もまた、知らぬ間に眠りへ落ちていた。


 一緒に過ごした週末。

 それが、自然な事だと思えた。

 日曜日に帰ろうとした瑠璃を引き留めた。

 月曜日は一緒に出社すればいい。


 だが、

「出社準備があるので」

 そう言って、瑠璃は月曜日の早朝に自宅へ戻っていった。


 そして、週明け。

 忙しない朝が始まる。

 今日は絶対に、定時で帰る。

 そんな強い意志で、積み上がる決裁書類を次々処理していく。


「こちら、確認済みです」

 朝比奈が、淡々と次のファイルを渡してくる。

 勢いに、一切飲まれない。

「お前な……」

「次、いつポンコツになるか分かりませんので」

「今、処理出来る事は増やしておきたいんです」

 感情の無い声。

 そのまま、またファイルを差し出す。


 営業部の書類は、以前より格段に見やすくなっていた。

 誰の仕事か、一目で分かる。


「……キモい」

 朝比奈の暴言が聞こえる。

 だが、全く気にならなかった。


 定時になると、会社を出た。

 いつもの公園に向かう。

 今日は、待ち合わせをして瑠璃の部屋へ行くことになっていた。

 彼女は先に来て、ベンチに座っている。

 傍らにはチャッピーが当然の如くいる。

 目を細め、こちらを笑っているように見える。

「遅くなったか?」

「いえ、今来たところです」

「そうか、では行こうか」

 二人、肩を並べ歩く。


 隣の騒音が、さらに酷くなっているらしい。

「少し、怖いです……」

 普段、滅多に弱みを見せない彼女がそう言った。

 だから、

「確認が必要だ」

 そう押し切って、ついて来た。

「お手数を、おかけします」

 申し訳なさそうに言いながら、部屋へ案内される。


 外からは、何も聞こえない。

 以前と変わらない様子に思えた。


 しかし、瑠璃が鍵を開けた瞬間、爆音が響いた。

 最初は、音楽。

 薄い壁越しに響く音。

 振動で瑠璃の部屋の食器類がカタカタと鳴る。

 

 そして、夜半になると——。

 俺は、眉を寄せる。

「……これは、酷い」

 響く、アダルト映像の音声。

 わざとだ。

 隣はわざと、聞かせている。


「最近、毎晩なんです……」

 瑠璃が、心底困ったように呟く。

 隣の住人はどこかのタイミングで瑠璃を見たのだろう。

 変質者に粘着されたとしか、考えられない。

 ……ここに置いて帰る?

 無理だ。

「このアパートはセキュリティがまともじゃない」

 俺は、即答する。

「瑠璃、ここはもう引っ越しだ」

 だが、瑠璃は、首を横に振った。

「費用が、賄えません」

「俺が出す」

「それは、いただく理由がありません」

 きっぱりと瑠璃が断った。

「なら……」

 一歩近づく。

「俺の部屋へこい」

 その瞬間、瑠璃が泣きそうな顔をする。

「だから……そういう話では、ないです」

 さらに、首を振る。

 俺は静かに問う。

「理由が欲しいのか?」

「……」

「理由ならいくらでもある」

「だが、オマエはそのどれでも首を振るだろう?」

 瑠璃が、息を呑む。

 俺は、小さく笑った。

「……なら、仕方ないな」

「必然の理由を作るだけだ」

「来い」

 腕を掴み、瑠璃を立たせる。

 部屋の中を見回す。

 最低限必要そうな物を、淡々と纏め始めた。


 延長コードに繋がれた充電器類を一つずつ外し、纏める。

「瑠璃、保険証や必要な薬はあるのか?」

「他に当座必要なものはどれだ?」

 瑠璃は、呆然と立ち尽くしている。

「け、景さん……」

 だが、俺は止まらない。

「この部屋にあるもので、何が必要かわからないな……」

 借りは作りたくないが…。

「仕方ない……」

 朝比奈の母へ連絡を入れる。

 住所を告げ、必要な物、残す物、処分する物、その選別を頼む。

「先に出る場合は、鍵は開けたまま玄関脇へ置いておく」

『承知しました』

 短いやり取り。

 続けて、配車アプリを操作する。


 瑠璃は、ただ困惑したように立っていた。

 自分が想像していた方向と、全く違う方向へ話が進んでいる。

 

 隣の部屋からは、さらに酷い音が響く。


 俺は、ゆっくり目を閉じる。

——煽られている。

 自分でも、分かる。

 かなり、酷い方向へ。

 だが、止められない。

 もう、止まらない。


 タクシーより先に、朝比奈の母が到着した。

 そして。

 部屋へ入った瞬間に、状況を理解する。


「こんばんは。お久しぶりですね」

 穏やかな声で、安心させるようにそっと瑠璃の手を握る。

「大丈夫。大丈夫ですよ」

「私が、片付けます」

「私の事は、覚えていますね?」

 まるで、怯えた子どもへ話しかけるようにゆっくりと、優しく。

 次の瞬間。

 瑠璃の涙腺が、決壊した。


 ぽろぽろと静かに涙が零れる。

 綺麗な涙だった。


 朝比奈の母は、

「うん、うん」

 と頷く。

「お部屋はこのままが、良いのですね?」

 瑠璃が、大きく頷いた。

「ゴミと冷蔵庫の食品は、処分しても良いですか?」

 また、頷く。

 頷く度に、涙も溢れた。


「後日、必要な物はお届けします」

「それまでは、坊ちゃまのお部屋の物をお使い下さい」


 そして、ゆっくりと瑠璃を抱きしめる。

 それは母の抱擁だった。

 

「良い子です」

「坊ちゃまを、頼みます」


 ちょうど、その時。

 端末へ、タクシー到着の通知が入った。


 タクシーは、マンションの車寄せへ到着した。

 俺は決済を済ませ、そのまま部屋へ入った。

 瑠璃は、手を引けば、大人しくついて来る。


 瑠璃はもう、今日は何も考えられないのだろう。

 着替え、化粧。

 そんな事は、どうでも良かった。

 俺は、そのまま瑠璃を主寝室へ連れて行く。

「……今日はもう寝ろ」

 瑠璃が、小さく頷く。

 そのまま、ベッドへ入った。

 俺は静かに主寝室の灯りを落とし、一度、書斎へ向かった。

 一人で考える時間が必要だった。


 しばらくして主寝室へ戻り、瑠璃に背を向けて横になる。

 だが、瑠璃は寝つけない様子で、何度も寝返りをしていた。

 たまに、こちらをじっと見ていることを背中で感じる。


「落ち着かないか?」

 振り向きざまに言って、そのままそっと瑠璃を抱き寄せた。

 びくり、と瑠璃の身体が強張る。

 俺は静かに息を吐く。

「寝ろ。今日は何もしない」

 そう言って、瑠璃の髪を撫でる。

 何度も。

 安心させるように……。

 やがて、瑠璃の力が少しずつ抜けていく。

 そして、ようやく安心したように、深い眠りへ落ちていった。


 ……これでいい。

 今夜だけは、それで十分だった。

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― 新着の感想 ―
瑠璃よなぜ我慢したんだ。 怖いよね、分かるよ。 人に頼るのも嫌だよね分かる。 でもこれは……無理。 助けてくれる人がいて良かったねぇ( ;ᯅ; )
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