俺のサファイア
それを見たのは、偶然だった。
朝から、会議が詰まっていた。
昼も、夕方も。
夜半。
ようやく、最後の会議が終わった。
帰宅前に一度、自席へ戻ろうとした。
その時、まだデスクトップが光っている席が目に入った。
そこは瑠璃の席だった。
しかも荷物もまだ残っている。
「……まだいたのか」
少し待って、話でもするか。
そう考えた時だった。
物音が聞こえた。
このフロア内ではない。
非常階段側だった。
何か、声が聞こえる。
足を止める。
そこにいたのは、瑠璃と自分と同じくらいの年頃の男だった。
——誰だ?いや、見覚えがある。
……企画会議。
確か、あの辺りの部署の——。
記憶の引っかかり。
だが、そんな事よりも彼らの様子がおかしかった。
男が、一方的に瑠璃へ詰め寄っている。
「……出来るだろ?」
低い声。
「出来ません」
何かを問答している。
「御曹司も誑かしたんだったら、簡単だろ?」
男が、USBを見せる。
「これ、ちょっと繋ぐだけ」
「そしたら、“あの事”を黙っててやってもいい」
「出来ません!」
今度は、瑠璃の少し強い声。
硬い、拒絶。
「お堅いな。それとも“お硬い“のが好みなのか?」
瑠璃を卑下して醜く笑う。
「オマエみたいな不細工が御曹司の好みか?趣味悪いな。お前なんか他に手を出すヤツいないだろ?」
続くハラスメントな言葉の数々。
「出来ないなら、コッチ。慰めてくんない?」
男が瑠璃に何かを要求している。
「触らないで下さい」
今まで聞いた事がない低い、冷たい声。
「おぉ、怖っ。まぁ、さっきのババァなパンツ思い出したら萎えたわ」
「次、この時間の会議を狙えよ?」
「しません。私はそんな事、しません!」
「ケッ。明日には気が変わる」
そう言って男はこちらに気づかずに立ち去る。
瑠璃は疲れた顔をして、乱れた服装を整えている。
逆光でこちらが見えないのだろう。
迂闊だった。
公園は、確かに誰かに見られる場所だった。
もっと配慮するべきだったと思い知らせるのは翌朝の事だった。
一通の社内メールが、一斉送信された。
営業部、管理部、秘書部など関係なく。
全社員宛。
そこに貼られていたのは。
瑠璃の社員証の顔。
そして、悪意だけで作られた卑猥なコラージュ画像。
『粉飾決算はこの女の仕業!東央を喰いつぶす悪女!』
誰かが、笑った。
誰かが、すぐに閉じた。
誰かが、見なかった振りをした。
だが、全社に広がるには十分だった。
瑠璃は、内容を確認すると。
静かに立ち上がった。
そのまま、営業部長の席へ向かう。
「申し訳ございません」
瑠璃の声がはっきりと俺の席まで聞こえた。
営業部長は、送られてきた画面を一瞥する。
「イタズラだ。処理する」
淡々とした声だった。
「ウイルスメールの線もある、サーバーも確認する」
「だから、気にするな」
「はい……申し訳ございません」
深々と頭を下げている。
その様子を見ながら営業部長は
「だが……」
と続ける。
営業部長の声が、少し低くなる。
瑠璃の机に積まれた書類を一瞥する。
「キミは今、営業部だ」
「他部署の仕事を抱えるのは、感心しない」
瑠璃が、一瞬黙る。
「……はい。申し訳ございません」
「よろしい。この件は終わりだ」
そして、営業部全体へ向き直る。
「キミ達。以上だ」
一段、フロア内の空気が引き締まった。
「……コレですね」
朝比奈が、画面を見ながら呟く。
「馬鹿が……」
朝比奈はいつも以上に、辛辣だった。
「防犯カメラの時間、送信履歴、アクセスログ。ど素人かよ」
淡々と、証拠を並べていく。
記録元は企画部管理課。
最近作られた資料、企画、数字。
様々な成果で、社内の注目を集めていた部署。
その中の一人。
社員証の顔が昨日、非常階段にいた男と一致する。
昨日、瑠璃は、あまりにも淡々としていた。
そして男に対して見た事もない程冷えた態度。
あれから結局、瑠璃とは顔を合わせなかった。
いや。
あれは、俺が話しかけられる状況ではなかった。
込み上げる苛立ちを抑える為、手を洗いに行った。
戻った時には、瑠璃の席の電源は落ち、荷物ももう無かった。
すぐ側にいたのに。
俺は守れなかった。
悔しさが蘇る。
「それで?」
朝比奈が、こちらを見る。
淡々とした口調で続ける。
「どうします?これを機に彼女から手を引きますか?」
「貴方が目を掛ける限り……」
「増える。湧く。分かりきった事でしょう?」
静かな声。
「……彼女の方が、対応が大人ですね」
朝比奈のこちらを見る目が冷えて厳しいものになる。
「いつものようにもう面倒になった。彼女を処理すればこれから煩わされる事もない。違いますか?」
違う。
だが言い返せない。
「……分からないんですか?」
静かな声。
「貴方の自由な時間は、後一年もないんです」
「その後は……。家の為に、生きる」
空気が、重くなる。
「それまでに、彼女を繋ぎ止められるのか?」
朝比奈が指を折り数える。
「家の為に、貴方が彼女に煮湯を飲ませ続ける」
「それに、貴方が耐えられるのか……」
「……そこまで含めて、考えて下さい」
朝比奈が、端末を閉じる。
「貴方の結論が決まってから話してください。振り回される側は時間の無駄です」
俺は彼女をまだ全て掴めていない。
強い繋がりも、ない。
なのに、この様だ。
いつもなら、ここで面倒になる。
いや、もっと前から面倒だな。
わからない名前や経歴を調べ、認識が合わない輪郭や間違えた名前をずっと探していた。
そこまでする意味が自分でもわからない。
そもそもまだ手に入れていない女を手放せ。
可笑しな話だ。
俺と関わらない人生の方が彼女は穏やかで幸せだろう。
うるさい、古風な家の柵に縛られる暮らし。
それよりも、もっと幸せな道が……。
別の男と幸せになる彼女を想像する。
吐き気がする。
あれは俺のものだ。
俺のサファイア。
誰の手にも渡せない。
渡すぐらいなら壊して、俺無しには息も出来なくすれば、良い。
媚びない、屈しない。
何が面白い女か。
愛すらまだ通じない女に、何を今更望むのか。
いや、なにも望んでいる訳ではない。
彼女の穏やかな空気を知り、他の空気が吸えなくなったのが、俺だ。
面倒くさい。
誰がだ?
俺、自身だ。
今まで欲しいと思う前に、何でも手に入れた。
その代償か?
手に入れる、その確かな方法だけが解らない。
子どもを鎹にして繋ぐか。
それも良いかもしれない。
今まで、のんびりし過ぎた。
このままでは、取られる。
取り上げられる。
その前に彼女は俺に繋ぐ。
決まりだ。
お読みくださって、ありがとうございます。
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