瑠璃
社内の人員整理が始まった。
会議、調整。
連日、仕事の終わりは終電に近い。
昼休憩に公園へ向かう時間も減る。
たまに寄っても、いるのはチャッピーだけ。
「今日は来ていないのか」
チャッピーの返事もない。
一度だけ。
エレベーターで、似た声を聞いた。
振り向いた時には、閉まる扉。
また別の日。
巻き髪の後ろ姿を見つけ追いかけた事もある。
全くの別人だった。
「……重症ですね」
朝比奈が呆れる。
「別に、会いたい訳じゃない。確認したいだけだ」
「……優秀な人材だからな」
言い訳と、煙草の本数だけ増える。
社内では、優秀な彼女の仕事だけを見かける。
修正された資料、読みやすいレポート。
現場への確認メール。
それら全てに名前はない。
だが——
“いる”のは、分かる。
ある日の夜半だった。
久しぶりに、公園へ向かった。
こんな時間だ。
よっぽどの偶然がない限り、彼女がいない事はわかっている。
だが、”三浦“と書かれたスウェットを着た彼女に会いたい。
そんな思いで足を向けてしまう。
そこにいたのは——
ベンチに、香箱座りするチャッピーだけ。
動かず、一点を見つめている。
そして、こちらに気づく。
次の瞬間。
慌てたように、駆け寄ってくる。
「……チャッピー。チュールか?」
足元で、身体を擦りつける。
不細工な猫。
「久しぶり」
言いながら、チュールを差し出す。
だが——
フン。
と鼻を鳴らし、外方を向く。
夜だというのにギラリ、と目が光った。
足に、一度。
尻尾を巻きつける。
そして、歩き出す。
数歩。
進んでは、振り返る。
——付いてこい。
そう言わんばかりに。
「……珍しいな」
気まぐれな猫だ。
だが、今日のような反応は初めてで面白い。
猫の気が済むまで、付き合う事にする。
「オマエ。最近、彼女を見てないか?」
猫の返事はない。
最近、公園でも社内でも感じない彼女の気配。
チャッピーは答えない。
ただ、先を歩いては振り返る。
どこまで行こうというのか……。
築古のオートロックもないアパート。
その前で、チャッピーが止まる。
そして一度、こちらを見上げる。
「……おい。ここは?」
返事の代わりに、階段を上がっていく。
ふと、何気なく電柱の住所が目に入る。
先日目を通した経歴書。
現住所欄。
何気なく見た番地。
——それらと一致する。
「……まさか」
そんなはずはないと立ち止まる。
チャッピーが、戻ってくる。
ギロリと不機嫌そうに、見上げる。
「いや。誰の家だよ……」
景の隣りに座り尻尾を、バンバンと地面を叩く。
再び立ち上がる。
そしてまた——
付いてこい、と言わんばかりに振り返る。
「……仕方ないな」
外付けの古い階段を上がる。
登るたびに軋む音。
チャッピーは迷わず一番奥の部屋の前にいく。
漏れている光で、部屋の扉が薄く開いているのがわかる。
チャッピーが開けろ。
と言わんばかりにガリガリと扉を掻く。
「オマエ…。ご主人様に締め出されたのか?」
バン。
尻尾が地面を叩く。
「通報されたら、オマエのせいだぞ」
苦笑してから隙間を作る。
するり、と猫が入り込む。
チャッピーが鳴く。
——返事がない。
何故か嫌な沈黙に思えた。
景は一瞬で覚悟を決めてゆっくりと扉を開ける。
部屋の奥に倒れている人影が見えた。
一度だけ見た事のある姿。
見覚えのある、”三浦“のスウェット。
「——っ!!」
それは、彼女だった。
持っていた荷物を投げるように置く。
靴も脱ぎ捨て、部屋へ入る。
抱き上げる、薄い身体。
浅い呼吸。
そして——、布越しにもわかる高い熱。
「おい、しっかりしろ!」
彼女が、一度だけ目を開ける。
だが、焦点が合わない。
すぐに閉じられる。
「……寒い」
囁くような弱々しい声。
「寒い……」
只事ではない。
だが、焦る気持ちを押しころす。
朝比奈に連絡を入れ、景の自宅にかかりつけ医の往診の手配を頼む。
必要事項だけを伝え、切る。
次に、配車アプリを開く。
位置情報からタクシーを呼ぶ
視線を、室内へ走らせる。
必要最低限しかない。
物の少ない部屋。
目に入った端末、貴重品をいつも持ち歩いているらしい鞄へ入れる。
簡素なベッドの薄い肌かけを剥ぎ取る。
そして彼女を包む。
タクシーの到着通知が鳴る。
「……行くぞ」
必要な荷物を持ち、彼女を抱き上げる。
先程感じた吐息より、さらに熱く頼りない。
そして玄関脇に置かれていた鍵を掴む。
「おい。外へ出ろ」
チャッピーを見る。
猫は、不満そうに尻尾を揺らしながら外へ出る。
扉を閉め、施錠する。
外には、タクシーのハザードが点滅していた。
「お客さん……」
「病院、行かなくていいんですか?」
バックミラー越しに、運転手がおせっかい半分に聞いてくる。
「もう、呼んである。頼むから急いでくれ」
思わず急かすように、短く返す。
長いような、短いような。
曖昧な時間。
何故か、刻一刻と彼女の命が削られている感覚がわかる。
(逝くな、まだ逝くんじゃない)
祈るように、彼女を支える手に力が入る。
やがて、自宅マンションの車寄せにタクシーが滑り込む。
完全に止まるとすぐにドアが開いた。
「景さん」
朝比奈が出迎える。
その後ろに、実家のかかりつけ医師と看護師がエントランスで待機していた。
彼女を抱いたまま、すぐに自宅へ案内する。
そのまま自室の自分のベッドへ彼女を寝かせる。
念のためと防護服を着込んだ医師が症状を確認してくる。
「いつ頃からですか?」
質問に答えられない。
知らない。
彼女の日常をなにも。
その横で、同じく防護服姿の看護師が、採血と点滴ルートを探している。
「血管、細いですね。中々、手強い」
苦戦しながらも、慣れた手つきで処置を進める。
「感染症の簡易検査も行います」
「脱水も見られるので、点滴を。終わる頃には、結果が出るでしょう」
淡々とした説明を受ける。
薄く汗を浮かべた顔。
先ほどより、呼吸は落ち着いて見えた。
静かに扉を閉め、リビングへ戻る。
結果を聞く。
「感染症ですね」
「五日ほど、隔離して下さい。酷くなった場合はすぐにご連絡ください。詳しい検査結果は後日お知らせします」
「それから、坊ちゃん」
「今、検査しても正確には出ません。ですが、念のため貴方も——」
「分かった……。しばらく自宅にいる」
視線を向ける。
「いいな、朝比奈」
「はい。在宅で手配します」
一段落だ。
焦りがようやく落ち着く。
ふと、朝比奈が聞いてくる。
「ところで、彼女……。どこで拾ってきたんです?」
「……猫だ」
「は?」
「猫のお導き」
その場にいた一同が黙り込んだ。
「……そうですか」
朝比奈は全く納得していない顔をした。
だが、今はどうでもよかった。
間に合った。
それだけで、十分だった。
自分の顔に手をやる。
深く、息を吐いた。
パソコンを立ち上げ、ログインする。
機密情報にパスワードを入れアクセスし、彼女の経歴書を改めて読む。
都内の中堅大学卒。
派遣歴、いくつかの部署。
現住所。
そして——名前。
「小沢、瑠璃」
口の中で、確かめるように呟く。
見つけた。
やっと、全部が繋がった。
何度も、諦めかけた。
すり抜ける、見失う、掴めない。
そんな事ばかりだった。
彼女と出会ってからの自分の行動は、今まででは考えられない事ばかりだった。
ようやく捕まえた。
今、ここにいる。
もう、離す必要はない。
……いや。
離したくないのか。
彼女を見つめる。
穏やかになってきた、寝息。
汗で、首筋に張り付いた髪を掬う。
冷えた氷枕を、頭の下へ差し込む。
準備された物を、淡々と使う。
熱は、まだ高い。
だが。
先ほどより、呼吸は落ち着いていた。
ゆっくりと、彼女が目を開けた。
「……瑠璃」
初めて、その名を呼ぶ。
熱に潤んだ瞳が光を乱反射する。
深い青。
サファイアだ。
天然の磨かれていない、原石の色。
その瞳が、またゆっくり閉じていく。
少しだけ、残念に思った。
ゆっくりと休ませるために離れようとした、その瞬間。
服の裾を、弱々しく掴まれる。
「……かなぃで……」
掠れた声。
一瞬止まり、すぐに側に戻る。
「……わかった」
広いベッド。
瑠璃の隣りに身体を滑り込ませる。
疲労は、自分でも思った以上だったらしい。
隣から伝わる、人肌の熱。
気づけば、そのまま眠りへ落ちていた。
景はようやくユリ=瑠璃を見つけました。
お読みくださって、ありがとうございます。
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