第五話 あとで、と鳴く青い鳥
次の日の朝。自転車店『岩松サイクル』のシャッターが開く音は、いつもの朝より少し大きく響いた。
「大地、ちょっと手伝ってくれ」
修平さんの声に、大地くんは店の奥から顔だけ出して、面倒くさそうに答えた。
「今から? ポンたちと約束あるんだけど」
「約束って、あの動物のことか。まあいいから、ちょっとだけ」
「あとでやるよ、あとで」
そう言い残して、大地くんはさっさと外に出てしまった。わたしとポンは店の前で待っていたけれど、その様子を見ていたポンが、心配そうに耳を伏せた。
「今の、あんまりよくない気がする」
「そう?」
「約束を軽く扱うと、わすれものが生まれやすくなるんだ」
ポンの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ぱたぱたと羽ばたく音がした。見上げると、青い小鳥が一羽、電線の上に止まっている。くちばしを開くたび、聞き覚えのある言葉がもれた。
「あとで、あとで」
「うわ、なんだあれ!」
大地くんが声を上げると、青い小鳥は電線から飛び立ち、商店街の屋根の上をすいすいと飛び回った。ポンが鼻をひくつかせ、確信めいた声で言った。
「アオだ。大地、お前のわすれものから生まれたんだと思う」
「は? ぼく、なんもわすれてないけど」
「本当にそうか?」
ポンの問いに、大地くんは一瞬、言葉に詰まった。けれどすぐに、いつもの調子で言い返す。
「わすれてない。ただ、今日はポンたちと約束があるから、そっちを優先しただけだ」
アオはその言葉を聞いていたかのように、大地くんの頭上を旋回しながら鳴いた。
「あとで、あとで」
からかうような響きの声に、大地くんの顔がむっとゆがんだ。
「うるさいな、待てよ!」
大地くんは自転車にまたがり、アオを追いかけて商店街を走り出した。わたしとポンもあとを追う。青い小鳥は電線から看板へ、看板から屋根へと、まるで大地くんの気の短さを見抜いているかのように、するりするりと逃げていった。
「なあ、こはる。大地のわすれものって、なんだと思う?」
走りながらポンが聞いてきた。わたしは息を切らしながら答えた。
「わからない……でも、修平さんに何か手伝ってって言われてたよね」
「そういえば、さっきも修平さんに呼ばれてたな」
商店街を三周ほどしたころ、アオは古い倉庫の方角へと飛び去っていった。大地くんは迷わず自転車を降り、倉庫の扉を勢いよく開ける。
「大地くん、待って、中、暗いよ」
わたしの声も聞こえていないようだった。大地くんは倉庫の奥へずんずんと進んでいく。埃っぽい空気の中、古い自転車の部品や、使われなくなった看板が積み上げられていた。
「アオ、どこだ!」
「大地くん、床、古いから」
言い終わらないうちに、みしり、と嫌な音がした。大地くんの片足が、腐りかけた床板を踏み抜きかけた。
「危ない!」
わたしは思わずかけ寄り、大地くんの腕をつかんで引いた。ぎりぎりのところで、大地くんは体勢を持ち直し、床板の手前で尻もちをついた。
「……危なかった、な」
さすがの大地くんも、顔から血の気が引いていた。ポンが呆れたように鼻を鳴らす。
「まったく。急いで動くのはよくないぞ」
「わかってるよ、それくらい」
大地くんは立ち上がりながら、ばつが悪そうに頭をかいた。倉庫の奥、古い棚の陰に、青い小鳥がじっと止まっているのが見えた。羽を小刻みにふるわせ、こちらの様子をうかがっている。
「アオ……」
大地くんがゆっくりと近づこうとすると、アオはまた飛び立ち、倉庫の隅に置かれた、埃をかぶった子ども用自転車のかごの中へ隠れてしまった。
その自転車を見た瞬間、大地くんの動きが止まった。
「これ……」
小さな赤い自転車だった。補助輪はさびつき、サドルも色あせている。大地くんはしばらくじっとそれを見つめたあと、ぽつりとつぶやいた。
「思い出した」
「何を?」
「前に、父ちゃんと約束したんだ。この自転車、直して、商店街の小さい子にあげようって」
大地くんの声から、いつもの勢いが消えていた。
「いつだったかわすれたけど……父ちゃんが『部品を注文したら手伝ってくれ』って言ってて。ぼく、そのとき『いいよ』って答えたのに」
「それから?」
「たぶん……わすれてた。ポンたちと会ってから、そっちに夢中で」
大地くんは自転車のかごの中を覗きこんだ。アオは羽を丸めて、じっとそこに座っている。逃げようとはしなかった。
「わすれていたんじゃない、って言いたいけど……」
大地くんは言葉を切り、しばらく黙っていた。ポンがゆっくりと口を開く。
「わすれてたかどうかより、これからどうするかが大事だと思うぞ」
大地くんはうなずくと、自転車のハンドルについた古いベルに手を伸ばした。さびついたベルは、指で押しても、かすかな音しか鳴らない。それでも大地くんは、もう一度、力をこめてベルを鳴らした。
ちりん、と乾いた音が倉庫に響いた。
その瞬間、アオが羽を広げ、まっすぐに大地くんの肩へと飛び移った。青い羽が淡く光り、小さな鳥の姿がベルの音の中へ溶けるように消えていく。
倉庫の外まで、静かな沈黙が広がった。大地くんはベルを握りしめたまま、しばらく動かなかった。
「父ちゃんに、謝らなきゃ」
その日の午後、大地くんは自転車店へ戻り、修平さんの前に立った。
「父ちゃん、ごめん。約束、わすれてたわけじゃないけど……ちゃんと考えてなかった」
修平さんはおどろいた顔をしたあと、穏やかに笑った。
「そうか。まあ、今からでもやるか」
二人は工具を並べ、赤い自転車の修理に取りかかった。さびたねじを外し、油をさし、タイヤの空気を入れ直す。大地くんは細かい作業が苦手だと言っていたけれど、修平さんに教わりながら、真剣な顔でドライバーを握っていた。
わたしとポンは、店先の縁台に座ってその様子を見守った。夕方の光が、赤い自転車のフレームを照らしている。
「大地って、ああいうところがあるんだな」
ポンがぽつりと言った。
「行動が早いのは悪いことじゃないと思うけど……ちゃんと立ち止まることも、大事なんだね」
「それ、こはるにも言えることだと思うぞ」
不意にそう言われて、わたしは言葉に詰まった。
「え……どういうこと」
ポンは何も答えず、その言葉に促されるようにして、自分のリュックを見た。中には、古いスケッチブックが入っている。ここ最近、開くのを避けていたものだった。
修理が終わるころ、大地くんが自転車を押しながらこちらへ歩いてきた。汗だくの顔に、満足そうな笑みが浮かんでいる。
「なあ、こはる」
「なに?」
大地くんは、わたしの膝の上のリュックをちらりと見た。ファスナーの隙間から、古いスケッチブックの表紙が少しのぞいている。
「それ、いつも持ち歩いてるよな。見せてくれとは言わないけどさ」
大地くんの視線が、まっすぐにわたしを見つめた。
「こはるにも、わすれた約束があるのか?」
わたしは答えられなかった。夕焼けの光が、赤い自転車のベルに反射して、目の奥がちかちかした。ポンも、大地くんも、何も言わずにわたしの返事を待っている。
商店街の向こうで、カラスが一羽、鳴きながら飛び去っていった。その声が消えたあとも、わたしはまだ、ひと言も発することができずにいた。




