第六話 こはるの古いスケッチブック
その夜、雨やどり堂の二階にある、わたしの部屋に、大地くんとポンを呼んだ。畳の部屋なので、三人で座ると少しだけ狭く感じる。おばあちゃんには、少しだけ大事な話をすると伝えてある。
畳の上に座った大地くんは、いつもの落ち着きのなさで、膝を小さく揺すっていた。ポンは座布団の上にちょこんと座り、耳をまっすぐ立てて待っている。
わたしはリュックからスケッチブックを取り出した。表紙は色あせ、角が丸くなっている。何度も開いては閉じ、開いては閉じしてきたからだ。
「一年前……仲がよかった子がいたの」
声が、思ったより小さくふるえた。
「山原すみれちゃん。同じクラスで、絵を描くのが好きな子だった」
大地くんが少し身を乗り出した。
「引っ越したっていう子か。前に噂で聞いたことある」
「うん。お父さんの仕事の都合で、遠くの町へ」
わたしはスケッチブックを開いた。ページには、商店街の店が一軒ずつ、丁寧な線で描かれている。パン屋、魚屋、自転車店。どれも完成していないものばかりだった。
「引っ越す前に、二人で約束したの。夏になったら、商店街の店を全部絵に描いて、交換しようって」
「交換?」
大地くんが聞き返した。
「すみれちゃんの絵とわたしの絵。お互い、遠くにいても、同じ町の絵を持っていられるようにって」
ページをめくる指先が、少し冷たくなっていた。
「でも……別れの日、渡せなかった。まだ全部描き終わってなかったし……渡したら、本当にお別れになる気がして」
言葉にすると、あのときの気持ちが、鮮明によみがえってきた。まっすぐな前髪で、笑うと目が細くなる子だった。駅のホームで、すみれちゃんが手を振っていた姿。わたしは鞄の中の未完成の絵を、結局最後まで出せなかった。
「その後、手紙を書いたけど、返事が来なくなって」
「来なくなったって、いつから?」
大地くんが聞いた。
「最初の二、三通は返ってきたの。でも、だんだん間隔が空いて……気づいたら、半年以上、何も」
大地くんは腕を組み、少し考えるような顔をしてから、いつもの調子で言った。
「じゃあ、もう気にすんなよ。新しい友達作ればいいだろ」
その言葉は、悪気のないものだとわかっていた。大地くんはいつも、深く考える前に口が動いてしまう。それでも、胸の奥で何かがぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「そんな簡単な話じゃ、ない」
「え、いや、そういう意味じゃなくて……」
「大地くんには、わからないよ」
自分の声が、思ったより強く出てしまった。大地くんがおどろいた顔をする。わたしは立ち上がり、スケッチブックを抱えたまま、部屋の隅に向かった。
「ごめん。ちょっと、一人になりたい」
大地くんは何か言いかけたけれど、結局何も言わず、ポンを連れて部屋を出ていった。
襖の向こうで、大地くんの足音が遠ざかっていった。
「待って」と言おうとして、口を開いた。
けれど、声は出なかった。
ほんとうは、大地くんをきらいになったわけじゃない。ただ、すみれちゃんのことを「もういいこと」にされたくなかった。
それでも、言いすぎたと思った。
「……ごめん」
小さく言った声は、もう大地くんには届かなかった。
わたしはスケッチブックを胸に抱えたまま、しばらく畳の上に座りこんでいた。
階下では、大地くんとポンの話し声がかすかに聞こえた。
「なあ、ポン。ぼく、なんか変なこと言ったか?」
「言ったというより……こはるは、わすれたいのにわすれられない気持ちを抱えてるんだと思う」
「わすれたいのに、わすれられない?」
「そう。すみれのことを、思い出すのがつらいから、考えないようにしてる。でも、本当はわすれたくないんだ。だから、大地の『新しい友達を作ればいい』って言葉は、こはるにとっては、すみれとの思い出そのものを、なかったことにされたみたいに聞こえたのかもしれない」
大地くんが黙りこむ気配がした。
わたしは一人になった部屋で、スケッチブックの最後のページを開いた。そこには、まだりんかくだけの月森写真館の絵と、その隣に小さく描かれた、すみれちゃんの似顔絵があった。笑った顔、まっすぐな前髪、絵を描くときにいつも舌を少し出す癖まで、覚えている通りに描いてあった。
「思い出さない方がいい、なんて……」
つぶやきながら、指先でその似顔絵をなぞった。
そのとき、窓の外で小さな光がまたたいた。振り返ると、開けたままの窓から、一枚の銀色の羽根が、ひらひらと舞いこんでくる。
羽根は美しく、月の光を受けてかすかに輝いていた。わたしは吸い寄せられるように手を伸ばし、その羽根に触れた。
指先が触れた瞬間、頭の奥で、すっと何かが引いていく感覚があった。
「あ……」
すみれちゃんの顔を、思い出そうとした。けれど、目鼻立ちが、急に霧がかかったようにぼやけてしまう。笑い方も、声も、さっきまで確かにそこにあったはずなのに、指先からこぼれ落ちるように消えていく。
「うそ……」
わたしは慌ててスケッチブックのページに目を落とした。けれど、そこに描かれていたはずのすみれちゃんの似顔絵は、まるで最初から何もなかったかのように、真っ白なページに変わっていた。
「なんで……」
手がふるえた。羽根はもう、指の間からするりと抜け落ち、風もないのにゆっくりと宙に浮かんで、窓の外へと消えていった。
次の日、わたしは眠れないまま朝を迎えた。カーテンを開けると、商店街の向こうから朝日が差しこんでいる。けれど、その光景の中に、見覚えのない大きな影があった。
写真館の屋根の上。
そこに、翼を広げれば商店街の空をまるごと覆ってしまいそうなほど大きな、銀色の鳥が立っていた。朝の光を浴びて、その羽根は冷たく、けれど美しく輝いている。
鳥は動かず、ただじっと、こちらを見下ろしているようだった。
わたしはスケッチブックを握りしめたまま、動くことができなかった。すみれちゃんの顔を、もう一度思い出そうとしても、頭の中には、白く塗りつぶされたページと同じ空白しか残っていなかった。




