第四話 歌をのみこんだカエル
金魚鉢の中のカエルは、しばらくじっとこちらを見つめたあと、ぴょんと跳ねて水の外へ飛び出した。
「待って!」
わたしが手を伸ばすより早く、カエルは店の隅の暗がりへ跳ね、そのまま裏口の隙間からするりと外へ逃げていった。
「追うぞ!」
大地くんが真っ先に飛び出し、わたしとポンもあとを追った。おばあちゃんは店の戸口に立ったまま、心配そうな顔をしていたけれど、引き止めはしなかった。
「気をつけてね」
その声だけが、夜の商店街に静かに響いた。
外に出ると、いつもとは違う違和感がすぐにわかった。静かすぎるのだ。虫の声も、遠くの車の音も、犬の遠吠えも聞こえない。まるで、商店街全体が分厚いガラスの箱に閉じこめられたようだった。
「なんか……変じゃないか? 音、しなくね?」
大地くんが立ち止まり、耳をすませた。ポンも鼻をひくつかせながら、緊張した面持ちで答えた。
「ケロロンのしわざだ。あいつは、聞こえてくる音を何でものみこんでしまう」
「のみこむ?」
「うたさんがわすれた子守歌を探して、手当たり次第に音を集めてるんだと思う。歌だけじゃなく、周りの音までいっしょに」
言われてみれば、いつも夜遅くまで鳴っている時計店の目覚まし時計の音も、今は聞こえない。商店街全体が、息をひそめているようだった。
「見つけた、あそこ!」
大地くんが指さした先、電柱の陰に緑色の丸い影が跳ねているのが見えた。わたしたちは一斉にかけ出した。
カエルは思いのほかすばしっこく、路地から路地へと跳ね回る。大地くんが大きな声で「待てー!」と叫んだ瞬間、その声そのものがぷつりと途切れた。
「……あれ?」
大地くんは口を開けたまま、声が出ないことに気づいて目を丸くした。ポンが小さくため息をついた。
「言っただろう。大きい音を出すと、そのままのみこまれる」
「マジかよ……」
大地くんは声を出せないまま、口だけをぱくぱくさせた。わたしは思わず笑いそうになったけれど、今は笑っている場合ではない。
カエルは魚屋の看板の下で足を止めていた。近づいてよく見ると、その大きな目には、どこかこまったような色が浮かんでいる。逃げているというより、何かを探して、こまっているように見えた。
「この子……何かを探してる、のかな」
わたしがつぶやくと、ポンがはっとした顔をした。
「そうか。逃げてるだけじゃないのか」
わたしはしゃがみこみ、カエルの目の高さに視線を合わせた。喉のあたりが、ふくらんだりしぼんだりしている。まるで、何かを言おうとして、言葉にならずにいるようだった。
「あなた、誰かの歌を、探してるの?」
カエルはこてん、と首をかしげるようにして、こちらを見つめた。答えの代わりに、小さくしゃっくりのような音をもらす。断片的なメロディが、そこに混じっていた。
そのとき、魚屋の店先の戸ががらりと開いた。
「誰だい、こんな時間に!」
出てきたのは、腰に青い前掛けを巻いた浜野うたさんだった。威勢のいい声はいつも通りだったけれど、その表情には、隠しきれない焦りがにじんでいた。
「うたさん……」
「こはるちゃんに、大地じゃないか。こんな時間にどうしたんだい」
うたさんは早口でまくしたてながら、わたしたちの足もとにいるカエルに気づき、一瞬、言葉を止めた。
「なんだいこりゃ。カエル? こんなとこに」
「うたさん、最近、何かわすれたこと、ありませんか?」
わたしが聞くと、うたさんは一瞬だけ目を泳がせたけれど、すぐにいつもの調子で笑い飛ばした。
「わすれものなんて、年をとりゃ誰だってあるもんさ。そんなの気にしてどうすんだい」
「でも……」
「歌のことなら、別にこまっちゃいないよ。歌なんてわすれても、魚は売れるしね」
早口で言い切るその様子は、かえって何かをごまかしているように見えた。カエルが、うたさんの足もとに近づき、じっと見上げている。うたさんはそれを見て、ふっと視線をそらした。
わたしは、ポンから聞いた話を思い出していた。わすれものは、ただわすれたことだけを表しているのではない。その奥には、もっと違う気持ちが隠れていることがある。
「うたさん。この歌って……娘さんに歌ってた歌、ですか」
うたさんの肩が、びくりと動いた。
「……誰に聞いたんだい、そんなこと」
「誰にも。でも、なんとなく、そんな気がして」
うたさんはしばらく黙っていたけれど、やがて店先の縁台に腰を下ろし、深いため息をついた。
「昔の話さ。娘がまだ小さかったころ、毎晩寝る前に歌ってやってた歌があるんだよ。上手くもない、ただの子守歌さ」
「今は……歌ってないんですか」
「娘はもう、いい大人だよ。今さら子守歌でもないだろう」
そう言って笑おうとしたけれど、うまく笑えていなかった。うたさんは膝の上で手を組み、視線を落とした。
「あの子とは、もう長いこと、まともに話してないんだよ。仕事が忙しいのはわかってる。わかってるけど、こっちから電話するのも、なんだか気恥ずかしくてね」
その声には、いつもの威勢のよさとは違う、小さな寂しさがにじんでいた。
わたしは自分の胸の奥が、ちくりと痛むのを感じた。わたしにも、思い出すと少し苦しくなることがあったからだ。
「歌なんて、わすれてもこまらないさ」
うたさんは強がるように、もう一度そう言った。けれど、足もとのカエルは、悲しげに小さく鳴くだけだった。
わたしは深く息を吸って、ゆっくりと口を開いた。
「思い出は、役に立つかどうかだけで、大切さが決まるものじゃないと思います」
自分でもおどろくくらい、はっきりとした声が出た。
「たとえ今、必要なくても……大事な人と過ごした時間は、消えてほしくないものだと思う」
うたさんは顔を上げ、わたしをじっと見つめた。その目に、おどろきと、何かを認めるような色が浮かんでいる。
しばらくの沈黙のあと、うたさんは懐から古いスマートフォンを取り出した。指が少しふるえている。
「……かけてみるか」
呼び出し音が、静まり返った商店街に、ぽつりぽつりと響いた。長い間が空いたあと、電話の向こうから声がした。
「もしもし、お母さん? どうしたの、こんな時間に」
娘さんの声だった。うたさんは一瞬言葉に詰まったけれど、やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「いや、なんでもないんだけどね……お前が小さいころ、よく歌ってやった歌、あっただろう」
電話の向こうで、少しの沈黙があった。それから、ためらいがちに、小さな鼻歌が聞こえてきた。途切れ途切れの、けれど懐かしいメロディだった。
その瞬間、足もとのカエルの体が、ふわりと淡い光に包まれた。喉が大きくふくらみ、そこから、これまでのみこんでいた音が、いっせいにあふれ出した。
目覚まし時計の音、店の呼び込み、犬の鳴き声、風鈴の音。静まり返っていた商店街に、一気に生活の音が戻ってくる。大地くんも、はっとした顔で自分の喉に手を当てた。
「あ、声、出る!」
カエルは光の粒になり、うたさんのスマートフォンの中へ吸いこまれるように消えていった。電話の向こうから、娘さんの歌声が、途切れることなく続いている。
うたさんはスマートフォンを耳に当てたまま、目もとをこすった。
「今度、顔見せにおいで。魚、たくさん持たせてやるから」
その声は、いつもの威勢のよさに戻っていたけれど、どこか柔らかく響いた。
わたしと大地くんとポンは、少し離れたところでその様子を見守っていた。大地くんが小声で言った。
「よかったな」
うん、とわたしはうなずいた。商店街には、いつもの夜の音が戻っている。虫の声、遠くの車の音、それに、うたさんの少し照れくさそうな笑い声。
帰り道、ポンの体が一瞬だけ、街灯の光を通り抜けるように透けて見えた。
「ポン……?」
おどろいて声をかけると、ポンは慌てたようにしっぽを振った。
「な、なんでもない。ちょっと疲れただけだ」
その口ぶりは、いつもの自信満々な様子とは少し違っていた。わたしは何か言おうとしたけれど、うまく言葉が見つからず、ただポンの後ろ姿を見つめながら、夜の商店街を歩いた。




