第三話 わすれもの動物園のひみつ
写真館の裏の水たまりを見つめたまま、しばらく誰も口を開かなかった。
「動物園の入口って、どういうことだよ」
先に沈黙を破ったのは大地くんだった。粉まみれの服をはたきながら、ポンの顔をのぞきこむ。ポンは鼻先をひくつかせ、いつもより慎重な声で答えた。
「順番に説明する。まず、大地。お前はもう、ぼくらの秘密を知っちまった」
「秘密って、しゃべるきつねのことか」
「それもあるが……お前はもう、わすれもの動物のことにも関わった。だから、仲間に入ってもらう」
大地くんの目が、ぱっと輝いた。
「仲間! よし、決まりだな」
わたしはあきれながらも、少しほっとしていた。ひとりで抱えるには、この出来事は大きすぎる気がしていたからだ。
ポンは水たまりのそばに座り、耳をぴんと立てて話し始めた。
「人間が大切な記憶をわすれると、その記憶が動物の姿になることがある。これが、わすれもの動物だ」
「げんぞうさんのパンのことみたいに?」
「そうだ。でも、わすれもの動物には決まりがある。生まれてから三日のあいだは、持ち主の近くにいられる。でも、三日を過ぎても記憶が戻らないと」
ポンはそこで言葉を切り、水たまりに視線を落とした。
「わすれもの動物園へ連れていかれる。そうなったら、その記憶は二度と、持ち主のもとへは戻らない」
夜の風が、湿った草のにおいを運んできた。わたしは黄色い封筒を握りしめた手に、無意識に力をこめた。
「この水たまりが、動物園への入口ってこと?」
「そうだ。晴れの日ならとっくに乾いてるはずなのに、こうして残ってるのは、入口が開きかけてる証拠なんだ」
大地くんが水たまりのふちにしゃがみこみ、覗きこんだ。水面には、月の光がゆらゆらと揺れているだけで、底までは見えない。
「でも、なんでクルミのときは大丈夫だったんだ? 消えないで、ちゃんとレシピ帳に戻ったよな」
「げんぞうさんが、ちゃんと思い出したからだ。記憶が戻れば、動物は光になって、元の場所へ帰る。でも……」
ポンの声が、わずかに低くなった。
「今回は一匹だけじゃない。商店街のあちこちで、わすれもの動物が生まれてるんだ」
わたしは息をのんだ。
「あちこちって……」
「まだはっきりとはわからない。でも、鼻の奥がずっとむずむずしてる。こんな感じは初めてだ」
ポンは自分の鼻先を前足でこすった。さっきまでのえらそうな態度が、今夜は少しだけ弱々しく見える。
わたしはふと、家に帰ってからのことを考えた。おばあちゃんなら、何か知っているかもしれない。
「おばあちゃんに、聞いてみてもいい? この封筒のこと」
ポンはしっぽをぴんと立てた。
「いいのか? 人間に話すのは、本当は禁止されてる。でも……お前のおばあさんなら」
言いかけて、ポンは首をかしげた。
「なんでだろう。会ったこともないのに、話してもいい気がする」
その言葉の意味は、家に戻ってすぐにわかった。
雨やどり堂の裏口をくぐると、白い髪を後ろで丸くまとめたおばあちゃんは、店じまいの支度をしながら、こちらを振り返った。かさ立てを整理する手を止め、わたしの後ろに立つポンを見て、目を細める。
「あら」
おどろくでもなく、怖がるでもない。ただ、懐かしいものを見るような目だった。
「おばあさん、はじめまして。ぼくはポンだ」
ポンが胸を張って名乗ると、おばあちゃんはふっと笑った。
「あなたも、鈴をつけてるのね」
「え?」
わたしとポンの声が重なった。おばあちゃんは店の奥の引き出しを開け、小さな布袋を取り出した。中から出てきたのは、古びた赤い鈴だった。
「これ……」
ポンの首の鈴と、色も形もよく似ている。ただ、おばあちゃんの持つ鈴には、細かいひびのような跡がいくつも入っていた。
「若いころにね、この商店街で、あなたみたいな案内役に会ったことがあるのよ」
おばあちゃんは鈴を軽く振った。ちりん、と乾いた音が響く。
「その子も、こういう鈴をつけていたわ。名前は……もう思い出せないけど」
「おばあさん、詳しく教えてくれないか」
ポンが身を乗り出したけれど、おばあちゃんはゆっくりと首を振った。
「詳しいことは、話せないの。話さない方がいいこともあるから」
その言い方には、はぐらかしているというより、何か大切なものを守っているような響きがあった。わたしは黄色い封筒を差し出した。
「これが、写真館の裏で見つかったの」
おばあちゃんは封筒を受け取り、中の紙を読んだ。表情は変わらなかったけれど、指先が少しだけふるえていた。
「わすれものにもね、帰りたい場所があるのよ」
ぽつりと、そう言った。
「思い出さないことと、わすれてしまうことは、少し違うからねえ」
言葉の意味を聞こうとしたとき、店の外から低い音が響いた。商店街のスピーカーからだった。誰も操作していないはずなのに、古い歌謡曲のようなメロディが流れ始める。
けれど、その歌声は途中でぷつりと途切れた。
「今の……」
大地くんが窓の外を見やった。魚屋『浜野鮮魚店』の方角から、あわてたような声が聞こえてくる。
「うたばあちゃんの声だ」
「浜野うたさん?」
おばあちゃんが眉を寄せた。
「あの人、若いころから、娘さんに歌ってた子守歌があったはずだけど」
ポンが鼻をひくつかせた。耳の先の水色が、ふるえるように揺れる。
「また、わすれもののにおいがする」
わたしたちが店を出ようとしたそのとき、雨やどり堂の隅に置かれた古い金魚鉢の中で、何かが動いた。
透き通った水の中から、丸い緑色の頭がぬっと持ち上がる。ぬめりとした肌、大きく張り出した喉。カエルは大きく息を吸いこむと、人間の声で、しゃっくりのような音を立てた。
「ひっく……」
続けて、途切れ途切れのメロディが、その口からこぼれ出した。歌の断片のような、けれどどこか不完全な音だった。
大地くんが目を丸くした。
「なんだこいつ、しゃべる……いや、歌ってるのか?」
ポンの表情が、急にこわばった。
「まずいぞ。これは、うたさんのわすれものだ」
金魚鉢の水面が、ゆっくりと波打っていた。緑色のカエルは、大きな目でじっとわたしたちを見つめながら、また小さくしゃっくりのような声をもらした。




