第二話 パンのにおいをぬすむハムスター
パン屋『むぎの木』からは、こんがりと焼けたパンのにおいがするはずだった。けれど、その日はどこか違っていた。甘いにおいの奥に、うっすらと焦げたようなにおいが混じっている。
「これがわすれもののにおいか」
ポンは店の前で鼻をひくつかせながら、得意げに言った。
「わかるの?」
「案内役だからな。わすれものが近くにあると、鼻の奥がむずむずするんだ」
自信たっぷりの口ぶりだったけれど、その割にはくしゃみを一つした。わたしは笑いをこらえながら、引き戸を細く開けた。
店の中はうす暗く、ふだんなら並んでいるはずの焼きたてパンが、今日はほとんど棚にない。奥のかまどのそばで、げんぞうさんが白い前掛け姿のまま、こめかみを押さえて座りこんでいた。
「げんぞうさん……大丈夫ですか?」
「こはるちゃんか。すまんな、心配かけて」
低い声には、いつもの落ち着きがなかった。げんぞうさんは分厚い手で顔をこすると、うめくように言った。
「雨雲パンの、作り方が……どうしても思い出せんのだ」
雨雲パンは、灰色がかった見た目に反して、中からとろりと甘い蜜があふれる、むぎの木の名物だった。子どものころから、わたしも何度も食べたことがある。
「小麦粉の配合も、蜜を仕込むタイミングも、体は覚えてるはずなんだ。なのに、手が止まる」
げんぞうさんはそう言って、かまどの脇に置かれた古いレシピ帳をめくった。ページの端は油じみて茶色くなっている。
そのとき、棚の下でかさりと音がした。
茶色い体に、小麦粉をまぶしたような白い毛が混じったハムスターが顔をのぞかせている。頬袋がぱんぱんにふくらんでいて、動くたびにふるふると揺れた。
「あれだ! わすれもの動物!」
ポンが小声で叫んだ。
「クルミっていうんだ。げんぞうさんがわすれた記憶から生まれたんだと思う」
「クルミ……」
わたしがしゃがみこむと、クルミはおどろいたようにひげをふるわせ、口にくわえていた何かをぎゅっと抱えたまま、かまどの裏へ走っていった。
「待って!」
追いかけようとしたところで、店の外から自転車のブレーキ音が響いた。
「げんぞうのおじさん、配達来たよー! ……って、なんだこれ!」
引き戸を開けて飛びこんできたのは、同じクラスの岩松大地くんだった。短く刈った髪、いつもの半ズボンと運動靴。自転車のかごには、配達用のパンの箱が積まれている。大地くんは店の隅を走り回るクルミと、その横に立つポンを交互に見て、目を輝かせた。
「しゃべるきつねだ!」
おどろくよりも先に、うれしそうな声が出ている。わたしは慌てて口に指を当てた。
「静かにして……げんぞうさんが」
「ん? ああ、悪い悪い。でもこれ、本物だろ? ぬいぐるみとかじゃなくて」
ポンは胸を張って答えた。
「もちろん本物だ。ぼくはわすれもの動物園から来た、案内役のポンだぞ」
「動物園! すげえ、なんだそれ、案内してくれよ」
「大地くん、今はそれより……」
わたしが止めようとしたときには遅かった。大地くんはすでにクルミを追いかけて店の中を走り回っている。かまどの裏、粉の袋の陰、パンの型が積まれた棚の下。大地くんが動くたびに、クルミは慣れた様子ですばやく逃げた。
「速いな、こいつ!」
「大地くん、そんなに追いかけたら、余計に隠れちゃうよ」
わたしが声をかけても、大地くんは聞いていない様子だった。以前から、思ったことをすぐ行動に移す子だとは知っていた。同じクラスでも、これまであまり話したことはなかったけれど。
わたしはクルミを追うのをやめ、かわりにげんぞうさんの隣にしゃがんだ。古いレシピ帳をそっとめくる。文字はところどころかすれ、油のしみで読みにくくなっていた。
「これ、げんぞうさんの奥さんが書いたものですか」
げんぞうさんの手が、ぴくりと止まった。
「ああ……そうだ。うちのが、若いころに書いてくれた帳面だ」
そう言ったきり、げんぞうさんは黙りこんだ。わたしはページをめくり続け、最後の一枚に手を止めた。
そこだけ、紙が破れてなくなっている。
「あの……最後のページが」
「知ってる。ずっとそうだったわけじゃない。最近、急になくなったんだ」
げんぞうさんは低くつぶやいた後、ふいに口を閉ざした。何かを言いかけて、やめたような間があった。
そのとき、店の奥から小さな悲鳴が聞こえた。
「うわっ!」
大地くんが粉の袋を踏んで滑り、尻もちをついている。粉が舞い上がり、白い煙のようにあたりを包んだ。その混乱の隙をぬって、クルミがかまどの裏から飛び出し、わたしの足もとをかけ抜けていく。
頬袋には、破れたレシピの最後のページがくわえられていた。
「あった! あれだ!」
「大地くん、大丈夫……じゃなくて、クルミ!」
わたしは思わず手を伸ばしたけれど、クルミはすばやく身をよじり、かまどの奥の暗がりへ逃げこんでしまった。それ以上は追えず、わたしは膝をついたまま肩で息をした。
「無理に取り返しても、意味ないと思う」
ぽつりと言うと、大地くんが粉まみれのまま振り返った。
「なんでだよ。取り返さなきゃ、パンの作り方戻らないんだろ?」
「たぶん……クルミが逃げてるのは、レシピが欲しいからじゃない気がする」
うまく言葉にできず、わたしは口ごもった。けれど、げんぞうさんの手がふるえていたことや、最後のページだけが破れていたことが、頭の中でひとつにつながりかけていた。
わたしはげんぞうさんの方を向いた。
「げんぞうさん。雨雲パンって、どうして雨雲パンっていうんですか?」
げんぞうさんはしばらく黙っていたけれど、やがて低く、ゆっくりと話し始めた。
「うちのが、まだ生きてたころだ。ちょうど今日みたいな、雨上がりの日にな。灰色の空に、蜜みたいに甘い夕焼けが差しこんでてな。そんな空みたいなパンを作ろうって、二人で考えたんだ」
かまどの奥から、小さな音がした。かさ、こそ、と控えめな足音。
「配合を決めるまで、何十回も失敗した。うちのが最後に、蜜を仕込むタイミングを見つけてな。あの日の空の色を、覚えとくために書き留めたのが……その帳面の最後のページだ」
げんぞうさんの声が、少しかすれた。
かまどの裏から、クルミがそっと顔を出した。頬袋にくわえていたページを、げんぞうさんの足もとにそっと置く。まるで、話を聞いていたかのようだった。
「クルミ……」
わたしがつぶやくと、クルミの体がふわりと淡い光に包まれた。光はレシピ帳へと吸いこまれるように移り、破れていたはずのページが、するりと元通りにつながっていく。
粉まみれの体も、光の粒になって消えていった。
げんぞうさんはふるえる手で帳面を持ち上げ、最後のページに目を落とした。しばらく何も言わなかったけれど、やがて口もとに、久しぶりに見るような、穏やかな笑みが浮かんだ。
「ありがとうな、こはるちゃん。それに……」
「大地です! 岩松大地!」
粉だらけのまま名乗る大地くんに、げんぞうさんはふっと笑った。
「大地くんも、ありがとうな」
その夜、わたしと大地くんとポンは、店の前で顔を見合わせた。大地くんは配達を放り出したことをすっかりわすれたように、興奮した顔で言った。
「すげえ、本当に消えた。魔法だ」
「ぼくを誰だと思ってるんだ。わすれもの動物のことなら、ぼくに任せておけばいい」
胸を張るポンの声には、いつもより少し力がなかった。
そのとき、写真館の窓ガラスに、一瞬だけたくさんの小さな影が映りこんだ。うさぎのような、鳥のような、はっきりしない形の影が、次々と重なり合っては消えていく。
ポンの顔から、さっきまでの得意げな表情が消えた。
「動物園の入口が、開きかけてる」
低くつぶやいたその声に、わたしと大地くんは思わず顔を見合わせた。写真館の裏の水たまりが、月明かりの下で波紋を広げていた。




