第一話 雨あがりの白い子ぎつね
夏休みの最初の日、三日月商店街には、まだ雨のにおいが残っていた。
雑貨店『雨やどり堂』の向かいにあるパン屋では、赤い屋根の先から、ぽたり、ぽたりと水が落ちている。道のすみには細い川ができて、色とりどりのかさを映しながら流れていた。
「こはる、軒下のかさを片づけてくれる?」
店の奥から、おばあちゃんの声がした。
「うん。今やる」
わたしは返事をして、『雨やどり堂』の軒下に出た。
肩まで伸びた髪が、湿った風に頬へ張りついた。
雨のあいだ、店先に出していた貸し出し用のかさを一本ずつ閉じ、しずくを落としてから、かさ立てへ戻していく。黄色、青、若草色。かさの骨がきしむ音が、静かな商店街によく響いた。
シャッターの半分下りたままの店もあって、雨上がりの空気だけが、いつもより濃く感じられる。
小学四年生の夏休みになったからといって、特別な予定があるわけではない。
朝はおばあちゃんの店を手伝って、午後は宿題をする。それから、商店街の絵を少しずつ描く。
去年の夏も、そうするはずだった。
そこまで考えて、わたしは首を振った。
思い出さない方がいいことは、思い出さなくていい。
最後の黄色いかさを立てたときだった。
店の前を、白いものが横切った。
「猫?」
手のひらより少し大きいくらいの、真っ白な動物だった。長いしっぽをぴんと立て、口には黄色い封筒をくわえている。歩き方が、猫にしては妙に堂々としていた。
その動物は水たまりの前で立ち止まると、ちらりとこちらを振り返った。
青い目が、わたしをまっすぐに見た。
次の瞬間、白い動物は閉店した月森写真館の横道へ飛びこんだ。
「待って!」
気がつくと、わたしはかさを放り出して、そのあとを追いかけていた。
裏道は狭く、両側から伸びた葉が肩をかすめる。地面はまだやわらかく湿っていて、走るたびに足の裏に水が染みこんできた。
写真館の裏に着くと、白い動物の姿はどこにもなかった。
かわりに、目についたのは水たまりだった。
商店街のほかの場所はもう乾き始めているのに、そこだけ大きな水たまりが残っている。雲ひとつない空を映しているはずなのに、水面はどこかうす暗く、底が見えないほど深く感じられた。
「どこ行ったの……?」
つぶやいたとき、足もとの茂みがかさりと動いた。
振り向くより先に、声がした。
「見つけた。わすれものが見える人間!」
甲高く、それでいてどこかえらそうな声だった。人間の言葉に聞こえるのに、口の動きは獣のものだ。わたしは声のする方を見た。
さっきの白い動物が、茂みの陰から顔を出している。青い目はさっきよりも大きく見開かれ、耳の先とふさふさのしっぽの先だけが、うすい水色に染まっていた。首には古びた赤い鈴がついていて、動くたびにちりん、と小さな音を立てる。
「しゃべった……」
わたしの声は、自分でも情けないくらい小さくなった。
「当然だ。ぼくは案内役のポンだぞ。見習いだけど、ほとんど一人前だ!」
胸を張るポンの姿は、子ぎつねにしか見えない。子どもの手のひらほどの大きさで、鼻先はまだ湿っている。威張った口調とちぐはぐな見た目に、わたしは思わず口もとがゆるみそうになった。けれど、頭のどこかでは、まだ状況をのみこめずにいる。
「あなた……きつね、だよね? 普通の」
「普通じゃない。ぼくは『わすれもののけもの』だ」
ポンは前足で、くわえていた黄色い封筒を地面に置いた。封筒には宛名も差出人も書かれていない。ただ、雨にぬれて端がふやけ、封が半分ほど開いていた。
「これは?」
「こはるが持ってた方がいいと思って運んできたんだ。ぼくの鼻が、そう言ってる」
「わたしの名前……なんで知ってるの?」
「ぼくの鼻が、こはるって名前まで教えてくれた」
信じられなかった。けれど、本当に名前は合っていたので、わたしはうまく言い返せなかった。
しゃがみこんで封筒を開くと、中には一枚の紙が入っていた。雨にぬれた文字が、にじみながらも読み取れる。
満月になるまでに、わすれものを返してください
意味はわからない。けれど、その言葉には、急いで何かをしなくてはいけないという焦りのようなものがにじんでいた。指先で紙をなぞると、湿った紙のざらつきが伝わってくる。
「これ、誰が書いたの?」
「わからない。でも、こういう手紙が届くときは、決まって近くで誰かが大事なことをわすれてる」
ポンはそう言うと、鼻をひくひくと動かした。耳の先の水色が、ふるえるように揺れる。
「におう……甘いような、こげたような……」
言い終わらないうちに、商店街の方から大きな声が響いてきた。
「雨雲パンの作り方が、思い出せない!」
パン屋『むぎの木』の店主、麦田げんぞうの声だった。低くしゃがれた声が、静かな商店街にまっすぐ届く。わたしは思わず立ち上がった。
「雨雲パンって……」
「知ってるのか」
「うん。おばあちゃんのお店でも売ってる、あのパン屋さんの一番人気の……」
言いながら、わたしは妙な胸さわぎを覚えた。大柄で太い眉毛のげんぞうさんは無口で、大きな声を出す人ではない。子どもにおまけのパンをくれるときでさえ、ぼそりと一言そえるだけだった。その人が、あんなふうに叫ぶなんて。
ポンは水たまりの方をちらりと見てから、わたしの方へ向き直った。青い目が、さっきよりも真剣な色を帯びている。
「こはる。頼みがある」
「頼み……?」
「次の満月までに、商店街のみんなのわすれものを見つけて、返してほしい。返せないままだと、この商店街から、大切な思い出が全部なくなっちゃうんだ」
思いがけない大きさの言葉に、わたしは一歩あとずさりした。
「全部って……そんな、いきなり言われても」
「わかってる。急な話だってことは、わかってる。でも」
ポンはそこで言葉を切り、耳をぴくりと動かした。写真館の窓のあたりに、一瞬だけ小さな影が走ったように見えた。動物のようにも、煙のようにも見える、はっきりしない影だった。
「もう、始まってるんだ」
低い声で、ポンはそう言った。さっきまでのえらそうな口調とは違う、静かな響きだった。
わたしは黄色い封筒を握りしめたまま、パン屋の方角に目をやった。げんぞうさんの声はもう聞こえない。かわりに、しん、とした静けさだけが、雨上がりの商店街に広がっていた。
わたしにできることなど、何もないかもしれない。人に話しかけるのも、大きな声を出すのも苦手だ。それでも、目の前のポンの表情は、冗談を言っているようには見えなかった。
「わかった」
自分でもおどろくくらい、するりと言葉が出た。
「わたしにできることなら、手伝う」
ポンの耳が、ぴんと立った。
「本当か。よし、決まりだ! ぼくは見習いだけど、ほとんど一人前だから、道案内は任せろ」
自信満々に胸を張るポンを見て、わたしは少しだけ肩の力が抜けた。頼もしいのか、あぶなっかしいのか、まだよくわからない。
そのとき、ポンが鼻をひくひくと動かし、写真館の裏の暗がりへ視線を向けた。
「最初のわすれもの動物が、生まれたぞ」
低くつぶやくその声に、わたしは黄色い封筒をぎゅっと胸に抱きしめた。雨上がりの水たまりが、ゆっくりと波紋を広げていくのが見えた。




