第8話「過保護な侯爵様と、異世界のシフト管理」
ガタゴト、と車輪が土を蹴る単調な音が響く。
王都を出発して半日。窓の外には、のどかな平原の風景が延々と広がっていた。
「……あの、エアハルトさん。そろそろ、別の場所を見ませんか?」
「別の場所? 君より美しい景色がこの世界のどこにあるというんだ」
「はいはい、ありがとうございます」
向かいの席に座るエアハルトさんは、出発してからずっと、穴があくほど私の顔を見つめ続けていた。瞬きすら惜しむようなその熱視線に、最初のうちは顔から火が出そうだったけれど、人間の適応力とは恐ろしいもので、数時間もすれば「あ、この人こういう仕様なんだな」と受け流せるようになってきた。
とはいえ、ただ見つめられ続けるのも手持ち無沙汰だ。
スマホはもちろん圏外(というか電源が入らない)だし、景色にも飽きてきた。
「何か、暇つぶしになるようなものってありませんか? 本とか」
「本だな。少し待ってくれ」
エアハルトさんは空中にすっと手をかざした。すると空間がゆらりと歪み、そこから一冊の分厚い本を取り出した。空間収納魔法、というやつらしい。便利すぎる。
「我が国の建国神話だ。少し退屈かもしれないが……」
「わあ、ありがとうございます!」
渡されたのは、ずっしりと重みのある革張りの本だった。
パラパラと捲ると、古びたインクと紙の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
……うん、すごくいい匂い。
私は、電子書籍よりも断然、こういう物理的な『紙の本』が好きだ。指先で少しざらつくページをめくる感触や、両手に伝わる紙の重み。そうした手触りを感じながら活字を追う方が、物語の世界にすっと没入できる。元の世界でも、通学電車の中ではスマホの画面より文庫本を開く派だった。
私が嬉々としてページをめくり始めると、エアハルトさんはまたしても愛おしそうな目を向けてきた。
「君は、本当に飾らないな。王宮の令嬢たちは、少しでも馬車が揺れれば悲鳴を上げて私にすがりつこうとしてきたものだが」
「えっ、そっちの方が可愛いじゃないですか。私、ただ黙々と読書してるだけですよ?」
「その静かな佇まいがいい。まるで、一幅の絵画のようだ」
……だめだ、この侯爵様は何をやっても全肯定してくるモードに入っている。
私はあきらめて、古びた紙の匂いに意識を沈めることにした。
◇
夕暮れ時。私たちは街道沿いの開けた場所で、野営の準備を始めていた。
荷物を最小限にしたおかげで、移動は驚くほどスムーズだった。四人の凄腕騎士さんたちも手際よく馬の世話をし、携帯用の魔導コンロでお湯を沸かしている。
ただ一つ、彼らの間で問題が起きていた。
夜の見張り——『夜警』の順番についてである。
「私が徹夜で侯爵様と聖女様のテントをお守りします! 先輩方はどうかお休みを!」
「馬鹿を言え、お前のような若輩者に任せられるか! 俺が朝まで起きておく!」
「愚問だな。私が一晩中、ことねの寝袋の隣で結界を張り続けるから、お前たちは全員寝ていろ」
「エアハルトさんは論外です。寝てください」
燃え盛る焚き火の前で、熱血系の若い騎士とベテラン騎士、そして過保護な侯爵様が不毛な言い争いを繰り広げていた。
私はため息をつき、その輪の中にずいっと割って入った。
「いいですか、みなさん。徹夜なんて非効率なこと、絶対にダメです。明日も長距離を移動するのに、睡眠不足で魔獣に襲われたらどうするんですか」
「し、しかし聖女様。我々には護衛の任務が……」
「ですから、分担するんです」
私は足元に転がっていた木の枝を拾い、地面の土にスッと直線を引いた。
「夜の二十二時から朝の六時までを、二時間ずつ四つの枠に分けます。四人の騎士さんたちで、二人一組のローテーション制にしましょう」
私は地面に「A+B」「C+D」「A+C」「B+D」と書き込んでいく。
「第一シフトと第二シフト、という風に時間を区切ります。必ず一人はベテラン、一人は若手で組んでください。そうすれば負担も分散できるし、万が一の異常時も報告漏れが防げます。エアハルトさんは一番魔力を使うので、フルで寝てください。どうしてもというなら、朝の五時からの最終シフトの確認だけお願いします」
私が一気に説明し終えると、焚き火の周りはしんと静まり返った。
騎士たちが、目を見開いて地面の図解と私の顔を交互に見ている。
「な、なんという完璧な人員配置……」
「個々の疲労度を考慮しつつ、戦力を均等に分散させる、見事な采配……! 聖女様は、もしや稀代の軍師であらせられるのか!?」
いや、ただのバイトのシフト管理だから。
私、これでも四年間、飲食店で時間帯責任者として、新人教育やらスタッフの鬼のようなシフト調整をこなしてきた人間なのだ。「試験前だから休みたい学生」と「急に熱を出したフリーター」の穴を埋めるパズルに比べたら、この程度のローテーションなんて息をするより簡単である。
「ことね……」
振り返ると、エアハルトさんがまたしても感極まったような顔で私を見ていた。
焚き火の光に照らされた灰色の瞳が、キラキラと輝いている。
「君という人は、どこまで私の予想を超えていくんだ。その小さな体のどこに、それほどの叡智を隠し持っている?」
「叡智というか、実務経験というか……」
「私は決めたぞ。この迷宮探索が終わったら、王宮の騎士団の運用スケジュールをすべて君に見直してもらおう。ルクレールの馬鹿げた采配より、よほど国のためになる」
「絶対やりませんからね!? 私、元の世界に帰るんですから!」
騎士団の労務管理なんて面倒くさいこと、誰がやるものか。
クスッと笑い声が聞こえた。
エアハルトさんが、本当に楽しそうに目を細めて笑っていた。
「ああ、そうだったな。君を元の世界へ帰す。……それが私の、最優先の任務だった」
彼は立ち上がり、自分の肩にかかっていた分厚く上質なマントを外すと、焚き火に当たって座っている私の肩に、ふわりとかけてくれた。
彼自身の冷気ではなく、布地に残ったほんのりとした体温と、あのミントのような香りが私を包み込む。
「夜風が冷えてきた。風邪を引かないように」
そう言って、彼が私の髪にそっと触れる。
その優しい手つきに、またしても胸の奥が、ちりっと小さな音を立てて焦げたような気がした。




