第9話「過保護な侯爵様と、兄の英才教育」
翌朝。野営地は、かつてないほどの爽やかな空気に包まれていた。
「おはようございます、聖女様! 完璧なローテーションのおかげで、我々騎士一同、魔力も体力も全快であります!」
朝日に照らされた若手騎士が、キラキラとした笑顔で敬礼してくる。
昨晩のシフト制が見事に機能し、誰も疲労を残すことなく朝を迎えられたらしい。
「それはよかったです。今日も長丁場なので、無理しないでくださいね」
「はっ! 聖女様の御心のままに!」
ふつうのバイトのシフト管理をしただけなのに、すっかり『稀代の軍師』扱いである。……居心地が悪い。
そんなこんなで手早く朝食と撤収を済ませ、馬車は再び街道を走り始めた。
窓の外を流れるのどかな景色を眺めながら、私はふと、自分の奇妙なほどの「冷静さ」について考えていた。
見知らぬ世界に召喚され、魔法やら迷宮やら物騒な単語が飛び交っているのに、私はパニックで泣き叫んだりしていない。
その理由は、自分でもなんとなくわかっていた。
子どもの頃、私には歳の離れた兄の部屋によく入り浸る時期があったのだ。そこにあった本棚には、兄が買い集めた大量の漫画がずらりと並んでいて、私はそれを片っ端から読み漁っていた。
異世界召喚、チート能力、魔法陣、エルフに魔獣。そういったファンタジーの概念を、私は幼い頃から兄の漫画コレクションを通じて、いわば英才教育のように浴びて育ったのである。
だからこそ、「ここは異世界で、私はあらゆる魔法を無効化する能力を持っている」という突拍子もない現状を、一種の『システム』としてすんなり受け入れることができているのだ。
お兄ちゃん、あの時は勝手に漫画読んでごめん。でも、あなたの妹は今、その知識をフル活用して異世界を生き延びようとしています。
「ことね。どうかしたか?」
向かいの席から、今日も今日とて私の顔をガン見しているエアハルトさんが、優しく声をかけてきた。
「いえ。私、どうしてこんなに落ち着いてるのかなって思って」
「それは、君の魂が気高く、どんな苦難にも動じない強さを持っているからだ」
「違います。事前の知識があっただけです。……まあ、実物は初めて見ましたけど」
と、その時。
ヒヒィーン!!
馬車の牽き馬が大きく嘶き、急ブレーキがかかった。
「ッ、なんだ!?」
エアハルトさんの瞳が、瞬時に剣呑な色を帯びる。
「報告します! 前方の街道に『突風猪』が三頭出現! こちらへ向かってきます!」
護衛の騎士が窓の外から叫んだ。
突風猪。その名の通り、風の魔法を纏って突進してくる巨大なイノシシらしい。
「チッ……ルクレールの無能共め、街道の魔獣駆除も満足にできていないのか」
エアハルトさんが舌打ちをした。ひえっ、氷の侯爵様が輩みたいな顔になっている。
「ことね、君は決して外に出るな。私が一瞬で……あのアホ共を氷柱の串刺しにして、街道ごと粉砕してやる」
「待ってください!」
バキバキッ!と馬車の中に氷の結晶が舞い始めたのを見て、私は慌てて彼の腕を掴んだ。
「街道ごと粉砕したら、馬車が通れなくなるじゃないですか! 迷宮に着く前に立ち往生しますよ!」
「だが、奴らの風刃が万が一にも馬車をかすめたら、君の美しい髪が傷つくかもしれない!」
「過保護すぎます! 髪くらい切れても伸びますから!」
私はエアハルトさんの腕を引っ張ったまま、馬車の扉を蹴り開けた。
「聖女様!? お下がりください!」
慌てる騎士たちの声。その向こうから、土煙を上げて三頭の巨大なイノシシが猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。その体には、カマイタチのような鋭い風の渦が巻き起こっている。
怖い。ふつうに怖い。
でも、私には確信があった。
「来いっ……!」
私は馬車のステップに立ち、突進してくる突風猪に向かって、両手を思い切り突き出した。
『虚ろの聖女』の能力。すべての魔法を無意識に吸収し、無効化する力。
シュゴォォォォ……ッ!!
先頭の突風猪が私の手前数メートルに迫った瞬間。奴らが纏っていた強烈な風の魔法が、目に見えない巨大な掃除機に吸い込まれるように、私の手のひらへとシュウウウッと消えていった。
「ブヒッ!?」
魔法の推進力と防御を突然失った突風猪たちは、勢い余ってズザーッと地面を転がり、情けない声を上げた。
ただの『ちょっと大きいイノシシ』になった彼らは、ポカンと立ち尽くす騎士たちと私を見て、ビクッと震え上がると、脱兎のごとく森の奥へと逃げ出していった。
「……よし。ノーダメージ」
私が安堵の息を吐きながら手のひらについた土を払っていると。
ガバッ!!
「ことねっ!!」
背後から、ものすごい力で抱きしめられた。
「えっ、ちょ、エアハルトさん!?」
「あああ……君という人は! 何故あんな危険な真似を! もし怪我でもしていたら、私は自分を許せずこの国ごと凍りつかせていたぞ!」
冷たいけれど、微かに震えている大きな体が、私をすっぽりと包み込んでいる。背中に顔を埋められ、ミントの香りがぶわっと広がった。
「だ、だから無傷だってば! 魔法が効かないってわかってたし……」
「命が縮む思いだった……頼む、もう二度と私から離れないでくれ……」
いや、別に離れてないし、そもそも今くっつきすぎである。
「聖女様、素晴らしい御力です! 我々もあの背中についていきます!」
外では騎士たちが謎の感動に包まれて拍手をしているし、私にすがりつく侯爵様は全然離れてくれない。
お兄ちゃん。漫画の知識のおかげで異世界の現象には適応できたけど、この過保護すぎる溺愛ヒーローの対処法だけは、どこのページにも載ってなかったよ。




