第5話「過保護な侯爵様は、添い寝(物理)を所望する」
極上のハンバーグで胃袋を満たした私は、すっかりふくらんだお腹をさすりながら、ふうっと息を吐いた。
美味しいものを食べると、当然のごとく眠気がやってくる。
おまけにここは、ふっかふかの絨毯に、肌触り最高な謎の高級生地の服。さらに言えば、学校からの帰り道にいきなり異世界に拉致され、おじいちゃん宰相に詰め寄られ、顔の良すぎる侯爵に連れ去られるという怒涛の展開をこなしたのだ。
私の「ふつうの女子高生」としてのキャパシティは、とっくにレッドゾーンを振り切っていた。
「……そろそろ、寝たいな」
私がぽつりとこぼすと、ずっと斜め後ろで待機していたエアハルトさんが、スッと動いた。
「そうだな。今日は色々なことがありすぎた。君の心身に負担がかかっているはずだ」
「ええ、まあ。本当に」
「すぐにベッドへ案内しよう。安心しろ、君が安眠できるよう、私が一晩中、枕元でそっと手を握っていてやるから」
……ん?
今、すごく自然なトーンでとんでもないことを言わなかったか?
「待ってください。枕元で、なんだって?」
「手を握っていると言ったが? もちろん、君が望むなら腕枕でも、添い寝でも構わない。私の体温は少し低めだが、夏場ならともかく、今は魔法で適温に調整――」
「しません! そういうの一切いりませんから!」
私は全力で両腕をクロスさせ、バッ!とバツ印を作った。
この人、顔はギリシャ彫刻みたいに隙がないのに、どうしてこうも発言がストーカーすれすれなんだろうか。
「私は一人で寝ます。ていうか、見知らぬ成人男性が枕元に立ってたら、怖くて寝られません」
「見知らぬ……男」
その言葉を聞いた瞬間、エアハルトさんの肩が、びくっと跳ねた。
まるで、急所を物理で刺されたような顔をしている。
「……そうか。君にとっては、私はまだ『見知らぬ男』に過ぎないんだったな。すまない、私が急ぎすぎた」
ふいっと目を伏せた彼から、急激にシュンとしたオーラが漂い始めた。
と、その時だった。
ピシッ、ピシピシピシッ。
部屋の空気が、急に変わった。
冷蔵庫の冷凍室を開けたときみたいな、痛いほどの冷気が足元から這い上がってくる。見れば、窓ガラスに美しい氷の結晶がみるみるうちに広がっていくではないか。
テーブルに置いてあった水の入ったグラスまで、カキン、と音を立てて凍りついた。
「えっ? なに、これ」
「……申し訳ない。感情が大きく揺れると、魔力の制御が甘くなるんだ」
エアハルトさんが、苦しげに自分の胸元を強く押さえた。
その吐く息が、真っ白になっている。彼の足元から、床の絨毯が薄っすらと凍り始めていた。
これが『氷の侯爵』と呼ばれる所以か。
最強の魔導師だなんて言っていたけれど、これじゃあまるで、強すぎる力が暴走しているみたいだ。
「触れないでくれ、ことね。今の私に近づけば、君まで凍傷に――」
彼が警告するより早く、私は無意識に手を伸ばしていた。
ぎゅっと、エアハルトさんの冷え切った手を両手で包み込む。
「っ……!」
「だって、寒そうだったので」
瞬間。
私の手のひらから、例の「目に見えない渦」みたいなものが一気に発動した。
シュウウウウッ……!
窓ガラスを覆っていた氷が、嘘みたいに溶けて消える。
凍っていたグラスの水も、ちゃぷん、と元の液体に戻った。
部屋の温度が、一瞬にして元の「ちょっと暖かい適温」に引き戻される。
私が無意識に魔法を吸収する『虚ろの聖女』だから、なのだろう。
チート能力といえば聞こえはいいけど、要するに私は、この世界における「歩く超強力な除湿機(魔法限定)」みたいなものらしい。
「……君は」
エアハルトさんが、信じられないものを見るように私の顔を見下ろした。
「自分の身が危ないかもしれないのに、迷わず私に触れてくれるのか。昔と、なにも変わらないな」
まただ。
また、「昔」って言った。
「あの、エアハルトさん。やっぱり私たち、過去に――」
「いや。なんでもない」
彼はふわりと、ものすごく綺麗に微笑んだ。
さっきまでの吹雪みたいな冷気が嘘のように、その笑顔は春の陽だまりみたいに温かかった。
「君の言う通り、今日はもう部屋を出よう。だが、扉の外には結界を張っておくし、騎士も配置する。何かあれば、一秒で駆けつけるから」
「はい、ありがとうございます。おやすみなさい」
半ば追い出すようにして、私はエアハルトさんを部屋の外へ押し出した。
「本当に添い寝は――」「いりません!」バタン!
分厚いマホガニーの扉を閉めて、ようやく私は一人になれた。
「……はあぁ」
大きな大きなため息をついて、天蓋付きのふかふかベッドにダイブする。
沈み込むマットレスに顔をうずめながら、私は先ほどの彼の表情を思い返していた。
『昔と、なにも変わらないな』
その言葉の響きが、なぜか耳にこびりついて離れない。
お父さんのハンバーグが食べたい。ふつうの日常に帰りたい。
その気持ちは嘘じゃないのに、あんなふうに切なそうに笑う彼を放っておいて帰れるのだろうか。
「……いやいやいや! 帰るし! 私、ふつうの女子高生だもん!」
ぶんぶんと首を横に振り、私は布団を頭からすっぽりと被った。
異世界生活一日目。
とりあえず、明日は「元の世界への帰り方」について、あの過保護な侯爵様をきっちり問い詰めようと心に決めて、私は目を閉じた。




