第3話:氷の貴公子の融点、あるいは裏切りの代償
大広間は、水を打ったような静けさに包まれていた。
百人以上の人間がいるというのに、誰の衣擦れの音さえ聞こえない。ただ、隣国の特使――ガロア伯爵が真っ白な大理石の床を踏みしめる、重々しい靴の音だけが響いている。
コツン、コツン、と。
その足音が近づくにつれ、セオドア殿下の美しい顔から血の気が引いていくのが分かった。
「……お久しゅうございますな、セオドア殿下」
ガロア伯爵が、うやうやしく、けれど明確な嘲りを込めて一礼した。
「な……ぜ、貴殿がここにいる。誰の許可を得てこの国に入った!」
「誰の許可、とはおかしなことを仰る。私は『ヴェルナール公爵家』の正式な招待状を受け取って参ったのです。ねえ、アデライド嬢?」
伯爵の視線を受け、私はゆっくりと頷いた。
そう、七回の人生を無駄に繰り返してきたわけじゃない。五度目の人生で、私はこのガロア伯爵が隣国でも相当な野心家であり、同時にひどく『現金な男』だということを突き止めていた。
だから今回は、殿下が彼に提示した報酬の――ざっと三倍の額を積んで、私の手駒になってもらったのだ。もちろん、ヴェルナール公爵家の裏金(お父様には内緒)を使って。
「き、貴様ら……っ! 衛兵! 衛兵!! この不審者を捕らえよ! アデライドもだ、反逆罪で今すぐ地下牢へ放り込め!!」
殿下の怒声が、シャンデリアを震わせるほどの勢いで響き渡る。
……しかし。
十秒経っても、二十秒経っても、広間の壁際に立つ甲冑姿の近衛兵たちは、まるで彫像のように微動だにしなかった。
「な、ぜ動かん……! 私の命令が聞こえないのか!! レオン隊長!!」
名指しされた近衛のレオン隊長が、重い足取りで一歩前に出た。
彼は申し訳なさそうに殿下に一礼すると、そのまま……すっと、私の方へと向き直り、忠誠を示すように片膝をついたのだ。
「……っ!?」
「申し訳ありません、殿下。我々近衛騎士団は現在、アデライド様より『一時的な待機』を命じられておりますゆえ」
「は……? 待機、だと? 貴様、一介の公爵令嬢ごときの命令を……っ」
殿下が言葉を失っている。
無理もない。王家に絶対の忠誠を誓うはずの近衛が、悪役令嬢の命令を聞いているのだから。
でもね、殿下。レオン隊長は確かに優秀で真面目な騎士だけれど、王都の裏通りにある酒場の看板娘と『とっても深い関係』にあるの。しかも、奥様は実家が侯爵家で、超がつくほどの恐妻家。
『もし隊長が私の言うことを聞かなければ、奥様のお茶会に、あの酒場の娘からの手紙が届くことになりますわよ』
たったそれだけの脅しで、彼は昨日、涙目で私に忠誠を誓ってくれた。七回も死んでるとね、他人の弱みを握るのなんて息をするより簡単になるのよ。
「さて、殿下。見苦しい大声はおやめになって。せっかくの夜会が台無しですわ」
私はすまし顔で、扇の先をガロア伯爵へと向けた。
「伯爵。例の品を」
「はっ。……皆様、これをご覧いただきたい」
ガロア伯爵が懐から取り出したのは、王家の蝋印が押された一通の羊皮紙だった。
「これは二年前、セオドア殿下が我が国と交わした『密約』の誓約書です。内容は――我が国から未承認の猛毒『セイレーンの涙』を密輸する見返りとして、国境沿いのフェルム鉱山の採掘権を我が国に譲渡する、というもの」
その言葉が落ちた瞬間、広間が爆発したようなざわめきに包まれた。
「国境の鉱山を売り飛ばしただと!?」
「未承認の毒薬……まさか、王太子殿下が密輸を?」
「静まれ!! 捏造だ、そんなものは真っ赤な偽物だ!!」
殿下が必死に叫ぶ。だが、伯爵は冷酷に追撃をかけた。
「偽物なものですか。ここにはっきりと、殿下のサインと王太子専用の印章が押されている。……それに、アデライド嬢を陥れるために用意したというそのグラス。今朝方、殿下の側近が私から買い受けた『セイレーンの涙』が、しっかり塗られているではありませんか」
「あ……」
殿下の顔から、今度こそ完全に表情が抜け落ちた。
氷の貴公子。その名の通り、彼は文字通り凍りついたように動けなくなっていた。
「おかしいですわね、殿下」
私は一歩、彼の方へと歩み寄った。
ヒールが鳴る。こつん。こつん。その音が、今の彼には死神の足音に聞こえているはずだ。
「わたくしがリーゼル様に毒を盛ったと仰いましたけれど。その毒をこの国に持ち込み、あろうことかグラスに塗るよう指示したのは……他ならぬ、セオドア殿下ご自身ではありませんか」
「ちが、う……私は、ただ、お前を排除する確固たる理由が欲しくて……っ」
「理由のために、国の財産を売り飛ばし、自作自演の毒殺未遂をでっち上げた、と?」
あはっ、と。
自分でも驚くほど、冷たくて暗い笑い声が喉から漏れた。
七度目の人生で私を殺した、あの紅茶の味。喉を焼き、内臓をかきむしられるような激痛。それを、この男は「理由が欲しかったから」というだけの薄っぺらい動機で私に飲ませたのだ。
「――最低ですわね、あなた」
私の見下すような冷たい視線を受け、殿下はついに膝から崩れ落ちた。
王太子の失脚。それはつまり、このゲームのメインヒーロールートの完全な崩壊を意味している。
「……さて」
私はゆっくりと視線を動かした。
崩れ落ちた殿下の後ろで、ガタガタと震えている、小動物のように愛らしい少女。
「次はお前の番よ、リーゼル・クラリスさん」
ヒロインの名前を呼ぶ。
彼女のピンク色の髪が揺れ、大きな瞳が恐怖で見開かれた。
「私を悪役令嬢に仕立て上げるために、あなたが裏でやってきた数々の『お仕事』。……ぜぇんぶ、ここで答え合わせをしてあげましょうか?」
絶望の底に突き落とすための準備は、まだたっぷり残っている。
私の八度目の夜は、まだ始まったばかりなのだから。




