第37話、開戦前の甘い残像。
夜7時55分。 モニターの青白い光が、暗くした自室を淡く照らし出していた。 俺、目黒碧は、デスクの上に置かれた黒いマスクとサングラスを指先でなぞり、それからゆっくりと息を吐き出した。
普段の学校生活では、あくびばかり噛み殺している冴えない高校生。しかし、このマスクとサングラスを装着し、マイクに向かった瞬間、俺はYouTubeチャンネル登録者数158万人を誇るカリスマストリーマー「椎崎」へと変貌する。
画面上のDiscordサーバー『Team D HQ』。
ボイスチャンネル『Meeting Room』に入室すると、すでに待機していた三人——『神志名鈴香』、『神楽坂遥』、『雲雀川美桜』のアイコンが緑色に点灯した。
「……あー、テステス。皆さん、こんばんは。椎崎です。聞こえていますか?」
マイクのミュートを解除し、意識して声を半音ほど低く落とす。冷徹で落ち着きがあり、どんな逆境でも冷静さを失わない「椎崎」のパブリックイメージ通りの声だ。
「こんばんはーっ! 神志名鈴香ですっ! 今日もバッチリ聞こえてます! よろしくお願いしますっ!」 「ごきげんよう、椎崎様。神楽坂遥ですわ。今夜もよろしくお願いいたします」 「……ん。……雲雀川美桜。……準備、完了」
ヘッドセット越しに届く三人の声。
鈴を転がしたようなアイドル声の鈴香、品格と色気が漂う大人びたアルトボイスの遥、そして囁くようなミステリアスな低音の美桜。
ネットの世界で何百万人のファンを熱狂させる「三大女神」の声だ。
だが、この落ち着いた低い響きの並びを聴いていると、俺の胸の奥で何かがくすぐったく疼く。毎朝、学校の行き帰りで耳にしている隣の七瀬、椎名、そして正面の美波の声に、どこか根底の「波長」が似ている気がしてならないのだ。
(……いやいや、考えすぎだ。彼女たちは超人気VTuberで、俺の幼馴染はガサツで、重くて、甘えん坊な女子高生たち。住む世界が違う)
俺は頭を振って雑念を振り払うと、スクリム(大会用の公式練習試合)のマッチングが始まるまでのロビー画面を操作した。
「スクリムの第1試合開始まで、あと五分ほどありますね。画面の感度調整やキーコンフィグの最終チェックをお願いします」
「はーい! あ、そういえば椎崎さん!」
突然、鈴香が弾んだ声を上げた。
「私ね、昨日すっごく美味しいパンケーキ食べたんだ〜! おっきなイチゴと、山盛りのホイップクリームが載っててね、口の中でとろけちゃったの!」
「あら、奇遇ですわね」
遥がクスクスと上品に微笑む気配が伝わってきた。
「わたくしも昨日、絶品のパンケーキをいただきましたわ。格式ある洋菓子店の特製で、メイプルシロップと発酵バターの香りが素晴らしかったですの」
「……ん。……私も。……昨日、大きなパフェとパンケーキ、食べた。……生クリーム、最高だった」
美桜までがボソリと乗っかる。
俺はロビー画面で武器のスキンを変更しながら、思わず苦笑いを漏らした。
「へえ、皆さん奇遇ですね。実は僕も昨日、知り合いとパンケーキを食べに行ったんですよ。最近のパンケーキって、本当にボリュームがありますよね」
その瞬間——。
ボイスチャットの空気に、ピリッとした微かな緊張が走った。
(え……? 椎崎さんが、昨日パンケーキ……!?) 七瀬は、自室の防音材が貼られた壁の前で、固まっていた。 (ち、知人とパンケーキ!? 知人って誰!? まさか……女の子!? 椎崎さんって、プライベートで女の子とカフェに行ったりするの!?) 胸の奥で、カッと激しい嫉妬の炎が燃え上がるのを感じた。昼間、碧と一緒にパンケーキを食べた時の甘い余韻が、一瞬で吹き飛ぶほどの動揺だ。
(……椎崎様が、どなたかとパンケーキを……?)
椎名は、美しい黒髪を指先で強く握りしめていた。
(昨日は碧さんと楽しくパンケーキをいただきましたけれど……椎崎様も、どなたかと過ごされていたなんて。一体どこの不届き者が、椎崎様の貴重なお時間を奪いましたの……? もし女狐なら、絶対に許せませんわ……)
(……椎崎、パンケーキ食べたんだ。……誰と? ……気になる。……すごく、モヤモヤする)
美波は、紫色のショートウルフをくしゃりと掻きむしり、画面の中の「椎崎」のアバターをじっと睨みつけていた。
三人とも、昨日自分が一緒にパンケーキを食べた相手(=碧)が、今ボイスチャットの向こうにいる「椎崎」その人であるとは、夢にも思っていない。
それぞれが「椎崎さんには自分以外のプライベートな親しい相手がいるのかもしれない」という誤解から、密かなジェラシーを募らせていた。
一方の俺(碧)は、そんな彼女たちの内心の嵐など知る由もない。
(みんな、昨日パンケーキ食べたのか。女子の間で流行ってるのかな。昨日、七瀬たちと行ったカフェも混んでたしな。……ん? でも待てよ、遥さんも美桜さんも鈴香さんも、それぞれ別の『知り合い』とパンケーキを食べたってことか。みんな休日は結構アクティブなんだな)
俺は能天気な勘違いをしつつ、画面のカウントダウンがゼロになったのを確認した。
「よし、マッチングが始まりました。皆さん、集中しましょう。今日のスクリム、全勝を狙います」 「「「了解!」」」
三人の声が重なる。
先ほどまでの乙女の悩みは一瞬で影を潜め、彼女たちの声にはプロフェッショナルな勝負師の熱量が宿っていた。




