第27話、最高に良好な目覚め。
月曜日の朝。
世界がまだ半分眠りについているような、白々とした静寂の中、俺――目黒碧の意識は、深海から急浮上するように覚醒へと向かっていた。
薄いレースのカーテンの隙間から、容赦のない朝陽が差し込んでいる。
その鋭利な光の矢が、閉じたまぶたを貫き、網膜を刺激した。
「ん……」
喉の奥から低い唸り声が漏れる。 普段であれば、ここから泥のような眠気に引きずり戻されるのが常だ。重力が増したかのようにベッドに縛り付けられ、目覚まし時計のスヌーズ機能との不毛な戦いを繰り広げる。それが俺の日常だった。
しかし、今日は何かが違った。
意識が明瞭になるにつれ、自分の身体の状態に違和感を覚える。
身体が、軽い。
指先から足の爪先に至るまで、不思議なほどに感覚が鋭敏になっている。
昨夜は深夜三時過ぎまでランクマッチの泥沼に潜っていたはずだ。睡眠時間は四時間を切っている計算になる。本来なら鉛のように重い倦怠感と、こめかみを締め付けるような頭痛に苛まれているはずの時間帯だ。
それなのに、目覚めはかつてないほどに良好だった。いや、良好という言葉では生ぬるい。
血管の中を、熱い何かが巡っている。昨夜の残響――あの戦場の熱狂が、まだ細胞の一つ一つに残っているかのようだ。
「ぐわーっ……!」
俺は勢いよく掛け布団を跳ね除けると、ベッドの上で大きく背伸びをした。
凝り固まっていた背骨が、ポキポキと小気味よい音を立てて鳴る。筋肉が収縮と弛緩を繰り返し、酸素を求めている。俺は肺いっぱいに朝の冷たい空気を吸い込んだ。
部屋の空気は淀んでいない。むしろ、昨日の勝利の余韻がキラキラと漂っているような気さえした。
のそりとベッドから降りる。フローリングの床の冷たさが足の裏に心地よい。
いつもならゾンビのように洗面所へ向かうところだが、今日の俺は誰に急かされることもなく、しっかりとした足取りで部屋を出た。
階段を降りる一段一段のリズムさえも、どこか軽快だ。
一階のリビングは、しんと静まり返っていた。両親は既に仕事に出かけており、家の中には俺一人。だが、孤独感はない。
キッチンに立ち、使い慣れたコーヒーメーカーの前に立つ。
フィルターをセットし、コーヒー粉をスプーンですくう。ザラザラとした粉の感触と、袋を開けた瞬間に広がる深煎りの豆の香り。その一つ一つの動作が、今日は儀式のように神聖なものに感じられた。
スイッチを入れると、機械が低い唸り声を上げ、やがてコポコポという断続的な音がキッチンに響き始める。抽出される黒い液体が、ガラスサーバーに滴り落ちていく様を、俺はぼんやりと眺めていた。
その間にトースターへ食パンを放り込む。タイマーを回す「ジジジジ」というアナログな音が、朝の静寂に溶け込んでいく。
焼き上がりを待つ数分の間、俺はジャージのポケットからスマートフォンを取り出した。
画面をタップすると、ロック画面に並ぶ通知の山が目に飛び込んでくる。SNSのアイコンには、赤いバッジが「99+」と表示されたままだ。
『椎崎さん! あのマッチング見ました!』 『一昨日の配信、伝説すぎます』 『神志名鈴香ちゃんとチーム組むとか前世で何したんですか?』
通知センターを埋め尽くす言葉の数々。
普段なら一つ一つに目を通し、ニヤリとしたり、時には返信を考えたりするのだが、今の俺にはそれを見る気分ではなかった。
スマホをテーブルに伏せて置く。
俺の胸の奥で燃えているのは、他人からの称賛や、SNSでのバズり具合に対する興奮ではない。
もっと純粋で、もっと根源的な熱だ。
一昨日の夜。あの瞬間に感じた、魂が震えるような感覚。
「奇跡のマッチング」と呼ばれたあの一戦。
画面の向こう側にいた三人のチームメイト――『神志名鈴香』、『神楽坂遥』、『雲雀川美桜』。
彼女たちの意図が手に取るように分かった。
俺が右を向けば、誰かが左をカバーし、俺が前に出れば、背後から完璧な援護射撃が飛んできた。
まるで、一つの生き物になったかのような全能感。
あの感覚が、今も指先に焼き付いて離れないのだ。
「チンッ」
軽快なベルの音が、思考の海から俺を引き戻した。
香ばしい小麦の香りが鼻腔をくすぐる。
こんがりときつね色に焼けたトーストを取り出し、皿に乗せる。冷蔵庫からバターを取り出し、ナイフで削り取る。熱々のパンの上で、固形だったバターがじわりと溶け出し、黄金色の液体へと変わっていく。
マグカップに注いだコーヒーからは、白い湯気が立ち上っていた。
「いただきます」
誰もいないリビングに向かって、俺は小さく手を合わせた。
トーストを一切れ口に運ぶ。サクッ、という小気味よい音と共に、バターの塩気と小麦の甘みが口いっぱいに広がる。
続いてコーヒーを一口。苦味が舌を刺激し、カフェインが脳に染み渡っていく。
なんてことのない、ありふれた朝食だ。コンビニで買った食パンに、スーパーの特売で買ったコーヒー豆。
だが、今日は何故か、高級ホテルのブレックファストよりも特別に美味く感じられた。
生きている、という実感が湧いてくる。大げさかもしれないが、そんな気分だった。
手早く食事を済ませ、シンクで食器を洗う。水の冷たさが心地よい。
洗面所で歯を磨き、冷たい水で顔を洗うと、鏡の中の自分と目が合った。
目の下のクマは消えていないが、瞳には光が宿っている。
「……悪くない」
自室に戻り、制服に袖を通す。ワイシャツのボタンを一番上まで留め、ネクタイを締める。鏡の前で身だしなみを整えながら、俺はふと時計を見た。
午前7時30分。
いつも家を出る時間より、30分も早い。
一階のリビングに戻り、大きな窓のカーテンを開けた。
窓の外には、見慣れた住宅街の風景が広がっている。
そして、視線の先には隣の家――習志野七瀬の家があった。
二階の角部屋、七瀬の部屋のカーテンは、まだぴしゃりと閉ざされたままだ。
「……まだ寝てるのか?」
普段なら、この時間にはバタバタと慌ただしい音が聞こえてきたり、時には窓から「碧ー! 遅刻するー!」と叫び声が聞こえてきたりするものだが、今日は静まり返っている。
視線を少しずらす。 反対にある椎名の家も、向かいにある美波の家も同様だ。 誰も出てくる気配がない。
「あいつら、昨日の秋葉原での疲れで爆睡してんのか」
昨日の日曜日は、俺たち四人で秋葉原へ買い物に行っていた。新しいゲーミングデバイスを探し回り、人混みに揉まれ、確かに疲労は溜まっているはずだ。
スマホを取り出し、グループLINEを開いてみるが、既読がついている様子もない。
「……まあ、たまには一人で登校するのも悪くないか」
鞄を肩にかけ、玄関へ向かった。
ガチャリ、と重たい金属音を立ててドアが開く。
外の世界へ一歩踏み出すと、ひんやりとした朝の空気が全身を包み込んだ。
澄み渡った青空。遠くで小鳥のさえずりが聞こえる。
まだ車の通りも少ない道路のアスファルトは、朝露で少し湿っていた。
肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
白い息が、空へと溶けていく。
早めに家を出たおかげか、それとも謎の体調の良さのおかげか、足取りは羽が生えたように軽かった。革靴がアスファルトを叩くコツコツという音が、リズム良く響く。
学校へと続く緩やかな坂道を、俺は一人で登り始めた。
風が頬を撫でる。
この平穏な朝の風景の中に、これから始まる嵐の予兆など、どこにも見当たらなかった。
日常が、昨日までとは全く違うものに変質し始めていること。
そして、すぐ近くにいる幼馴染たちが、とんでもない秘密を抱えたまま、この同じ空の下で息を潜めていること。
この時の俺はまだ、その欠片さえも感じていなかったのだ。
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