帰郷
「ねえ、マーク、まだ時間あるわよね?あの丘に登ってみない?きっと、素晴らしい眺めだと思う」
「了解」
ダブリンへと車で向かうことにした二人。高速道路に乗る前に、海沿いをしばらく走りたいとマキが言い、その道中、マークは方向転換させ、彼女が指したなだらかな丘陵へと向かった。クネクネと蛇行した道を登り、適当なところで車を止め降りてから、見晴らしの良さそうな頂きまで歩いた。
海から吹きさしてくる風が強い。ケルト海は太陽の光でキラキラと光り、遠くの岬には監視塔が見える。多分、数百年前のものだろう。放牧された羊がぽつぽつと見え、ところどころに咲いている花はピンク色のヘザー。アイルランドの典型的な草原地帯だ。
この景色を見た途端、マキの胸はグーッと押さえつけられたようになり、体の奥底からあふれ出てくる、懐かしくて、切なくて、もどかしい痛痒が胸の奥を掻き回した。
(まただ。このどうしようもない気持ち・・・)
ほぉーっ、と吐息混じりに、
「あたし、この場所に来たことがあるような気がする」
マークがそう呟いたマキを見ると、彼女の頬には涙がつたっていた。彼は静かに彼女の手をとり、自分の手につないだ。
「驚いたよ。オレもだ。なんか懐かしい感じがする、と思ったよ」
それから二人は言葉を交わさず、長い間その景色を眺めていた。波の音に風の音、かもめの鳴き声、耳に聞こえるすべての音と目の前の風景が合わさり、心を揺さぶられた。とても大きく。
やがて、どちらからともなく両手をとって向き合い、見つめあって、唇を重ねた。ゆっくりと。
お互いに、ここにいることが嬉しくて幸福なのに、なぜか悲しくも感じる不思議な感覚を覚え、マークはギュッとマキの細い体を抱きしめて、言った。
「もしかするとオレたちはここに住んでいたのかも知れないね」
「きっと、そうね」
もう一度唇を重ねた後、マキは続けた。
「あなたとまだ知り合って間もない頃、あの偶然に何度も会っていた時期ね、あなたの夢をみて、その夢の中であたしたちキスしたことがあったの。詳しい内容は覚えてないけれど、キスしたその唇の感触がとってもリアルで、朝起きてから、不思議に思ったのよね。
それで、実際にあなたと初めてキスした時、今みたいに、なんだか解らないけれど、懐かしい感じがした。その時にパッと頭に浮かんだ光景がこの場所に似ていたの。今の今まで忘れていたんだけどね」
「オレもここにきて、キミに何度か感じた既視感が、今になって腑に落ちた気がするよ」
マキは鼻をグスン、といわせ、マークの腰に抱きついたまま目前に広がる景色にまた目をやった。
「ねえ、マーク。これから何かに不安を感じたら、あたしに教えて。そう思ってるのはあなただけじゃないのよ。あたしだってホントは怖い。一度結婚を失敗してるし。だから、あたしも逃げたの。あなたに追求したかったのに、しなかった。男の人に傷つけられるのはもうたくさんだって思ったから・・・。でも、今は、あなたとなら、やっていけるんじゃないかって、その怖さを一つ一つ乗り越えていけるんじゃないかって、思う」
マキは静かに、落ち着いた声で言葉を紡いだ。
「失敗してもいい、うまくやれなくってもいい、ただ、諦めずに、前に進みたいの。ちゃんと自分の足を使って。そして、その道程を歩く時、あなたに隣にいて欲しいの。多分、これからもきっと辛いことや悲しいことが起こると思う。それと同時に、嬉しいことや楽しいこともたくさん。あたし達が経験するすべてのことが必然で、必要だからそれが起こる」
マークの瞳を、マキはしっかりと奥まで見つめた。あふれる光を有す懐かしき碧眼。
「あなたがここまで迎えに来てくれて、嬉しかった。二人でここに来られてよかった。というより、『帰って来た』?それの方が正しい気がするわね」
帰ってきた、という感覚からもれた言葉は、
「ただいま・・・。この地にあるすべてのものに、そう言いたい」
「そうだな、うん、戻って来たな、オレ達。ただいま・・・」
マークも繰り返した。
「ありがとう、マキ」
感極まり、泣いているようなマークのくぐもった声が更にこう告げた。
「キミにめぐり逢えて、本当によかった。知っておいてくれ。キミはね、オレがこれまで出会ってきたものの中で一番綺麗なものなんだ。そう、つまり、キミはこの世でオレの一番、唯一無二の存在なんだよ」
マキは自分より背の高いマークの頭をぎゅっと抱き込むようにし、耳元に優しく囁いた。
「こちらこそ、マーク、ありがとう。大好き」




