心を解き放つ
夕食はマークが泊まっているホテル近くのパブで食べることにした。二人とも、足が地についていないようなホワホワした気分のままだったが、冷静さを取り戻したのはマキの方が早く、
「今夜がアイルランドでの最後の夜じゃない。やっぱりパブでアイルランド料理を食べなきゃ」
と、二人はパブのカウンターに腰を下ろしていた。
「あたしねぇ、無職になることが決まってから、仕事みつけなきゃ、節約しなきゃ、って、あなたとのことでズタボロになっているのに、すごく無理してたの。履歴書を送っても返事が一通も来なかったし、貯金は少ないしって、焦っていたら、さっきも話したけど、友達やアメリカ人の父が、背中を押してくれてヨーロッパへ来たのね。
みんな、好きなことしなさいって、言ってた。
初めは現実逃避だって自分で思っていたのだけれど、出会う人たちそれぞれ、なんだかとても不思議な縁を感じる人ばかりで、じわじわと心が癒されていったわ。しばらくすると、ああ、足枷を嵌めさせたのは、自分なんだって解っちゃった」
マキは鶏肉とジャガイモ、リーク入りのパイをつつきながら、話し始めた。傍らにはジントニック。マークはアルコールを飲まないので、ムール貝の白ワイン蒸しを次から次へと食べていた。大きくて、身がプリプリしている。
「いろんな制約はあるとは思う。でも、それって環境とか他の人のせいにしてしまいがちだけど、ホントは自分がそれを許可しているんじゃないかなって。生まれた境遇の中にある条件、出会っていくもの、選んでいくもので人生は形成されていくけど、ホントのホントのとこでは全部自分で選んでいるような気がする」
マークは黙々とソーダブレッドをちぎってバターをたっぷりと塗る。アイルランド製バターが実に美味い。
「心は自由なのよ。したいことをするのに、要るのは少しの勇気と、それを可能にするちょっとのお金。そうやってあたしはここに来たの。お金がなくなれば、どこか働けるところで稼げばいいんだし、人に迷惑をかけなきゃ、あ、もちろん、法を犯さないことを前提にしてだけど、好きなことしていいんだなー、と思ったの」
「で、姫は次に何をしたいんだ?」
マークはパイに手を出しながら、聞いた。マキはカクテルを一口飲み、上目遣いでマークを見た。
「日本に帰りたい」
「ええっ?オレと一緒にアメリカに戻るって・・・」
「一旦戻るわよ。ただ、うちの両親、すごく心配してるだろうから、安心させたいの」
「そういうことなら、いいよ、行っておいで」
渋々、と、答えるマーク。
「この期間はきっと神さまがプレゼントしてくれた時間だと思う。離婚してから、って、する前からもだけど、ジェットコースターに乗っていたみたいだったし、あなたと出会ってからもやっぱり、突っ走ってきた感じだったし」
「キミは今も突っ走っているから、こんな遠いところにいるんじゃないのかい?」
「やっぱりそうかな?でも、あなたもそんな鉄砲玉みたいなあたしを追っかけてきたじゃないの」
「自分でもちょっと驚いているんだ。普段、オレはあんまり突発的に行動しない性質なんだけど」
二人とも笑う。
「『心は自由』か・・・。そうだな、オレも結構常識とか環境に縛られるタイプだな」
「じゃあ、一緒に解放してあげようよ。自分でも気付いてないかも知れないいろんな制約、呪縛から解き放とう。あたしにとってこのアイルランドへの旅は大きな人生のリセットになったから、新しい基礎固めのために故郷である日本に一度帰ってくるわ」
マークは頷いた。ニッコリと微笑むマキの顔にしばらく見惚れる。
「わかった。でも、キミはすぐにオレのところへ戻って来るんだよ、いい?」
この数日間、マークと過ごした日の終わりには、マキが世話になっていたナターシャのフラットまで彼女を送っていたが、今夜は離れがたい気持ちが沸々と湧いていた。しかし、荷物もあることだ。夕食が済み、マークはマキを送ろうとレンタカーへ向かおうとしていた。
「ねえ、マーク」
「なんだい?」
「今日はこのまま、あなたのホテルに行っていい?」
心臓バクバクバク。いうまでもなく、お互いの。
「え?荷物はどうするの?」
「明日、出発前に取りに行けばいいかなと思って・・・」
「それは、うん、もちろん、オッケーだよ」
外は薄暗くなっているので、お互いの顔が見えないといい、と、二人は同じことを思った。マキの顔は一杯のジンのせいで既に赤くなっていたのだが、今はもっと、のはず。
そして、二人は部屋のドアを閉めるなり、貪るようにお互いを求めあった。




