雨に濡れた子犬
西コーク地方で想い深き数日間を過ごした後、コーク市内にあるナターシャたちのアパートに戻ってきたマキがパソコンを立ち上げると、目を見張る人物からメールが届いていた。
マークだ。明日、ダブリンに着くという。
「えええええええー????」
奇声を発するマキの方へナターシャがやってきて、
「どうしたの?」
「話したでしょ?別れた彼のこと。その彼が明日ダブリンに着くって」
ニヤリとナターシャは笑って、
「マキのこと追っかけて来たんだ~」
と、冷やかした。
待ち合わせに指定したのは、マキが気に入ったイングリッシュ・マーケット内の中二階にあるカフェ。ナターシャが連れて来てくれた場所だ。
冷ややかな表情のマキと緊張の面持ちのマークはテーブルを挟んで座っている。一人で紅茶を飲んでいる中年男性、新聞を読んでいる老人、と、客はまばら。男性でもクッキーなどの焼き菓子やケーキといったデザートを注文しているところが、日本やアメリカと違うかな、と、マキは思う。
(いや、アメリカ人男性も甘いものは好きだな、そういえば。でも、カフェではみんなコーヒーしか頼んでない気がする。あたしってば、周りのことに目が行くなんて、結構余裕あるの?)
と、思いながら、紅茶を一口飲んだ。そして、
(いざ、合戦!)
と、腹にぐっと力を込める。
「で?こんなところまで何しに来たの?」
マークはコーヒーを注文したが、まだ口を付けず、ソワソワしている。こうして顔を合わせるのは、あのレストランで別れ話をしてから今日が初めてだ。あの時と同じようにテーブルを挟んで、距離感はどうだろう。
「もちろん、キミに会いに来たんだよ。ほら、彼女、キミの同僚の、なんてったっけ?フ、」
「フキコ」
「そう。彼女を偶然見かけて、キミのことを聞こうと話しかけたら、仕事を辞めたっていうから驚いたんだ。そしたら、今、アイルランドにいるって、聞いた。で、いてもたってもいられなくなって、気付いたら飛行機に乗ってたんだ」
「ふーん」
マークはゴクリと唾を飲み込み、
「なんで仕事、辞めたんだい?」
「辞めたんじゃないの。契約を更新されなかったの」
「そうか。次の仕事は?」
「まだ決まってないわ」
「いつアメリカに戻る?」
「まだ決めてない。アパートも引き払ったし、荷物は全部倉庫に入れたから。戻らないってこともあるし」
「えっ!?」
目を見開いて、大声を出すマーク。
「仕事がみつかるかもわからないし、戻っても住むところがない。友達のところも長くはいられないしね。日本に帰って仕事するっていうのも念頭にあるわ」
マークは真っ直ぐにマキを見た。
(なんかちょっとやつれたかな。目は相変わらずキラキラしてるけど・・・)
と、マキは思う。あれだけ会いたかった彼が目の前に、アイルランドくんだりまで来ているという事実にまだ驚いてはいる。
「オレのとこ、来る?アメリカに戻ってきたら」
「はぁっ!?」
今度はマキが素っ頓狂な声を出した。
「あれから、じっくり一人で考えたよ。キミといて不安になるのは、キミのせいじゃない。オレ自身の自信の無さからくる問題なんだ。それをどうにかしないで、ただ不安から逃れたいばっかりに、キミと別れたいなんて、フェアじゃないよな、ホント」
シュン、と、彼が小さくなったように見えた。
「夜も眠れなくって、キミのことばかり考えてた。不安は、正直、まだものすごくあるよ。でも、やっぱりキミと離れているこの数ヶ月間、淋しかった。キミが恋しかった。だから、一緒に帰ろう、マキ」
心臓が跳ね上がり、まるで全身の血液が逆流しているのではないかと思うくらい身体が熱くなったのを感じながら、思わず大声で、
「なんば言いよるとかー!!!せからしかー!!!」
と、マキは祖母譲りの博多弁で叫んだ。周囲の客が一斉に二人を見る。マークは驚愕しながらも廻りを見て、マキを諌めるかのように自分の声を顰めてから、
「え?何?何て言ったんだい?」
「ちょっと失礼」
マキは慌ただしく席を外し、十分ほど屋外へ出た。その間、一人残されたマークは肩身が狭く、少し猫背のままでまた廻りを見てから、ようやくコーヒーを口にした。マキが戻って来るのを、数人の客が目で追っている。
ドスンと椅子に着き、失礼したわ、と、一呼吸おいてから訊ねた。
「その不安とはどう付き合っていくつもりなの?」
「わからない。でも、なんとかしてみるよ。いや、必ずなんとかする」
真剣さは十分に伝わっては来たものの、
「あのね、マーク、あたし、この数ヶ月間、あなたのこと忘れようと努力してきたの。職を失って、バタバタして、州東部で禊をやったり、イギリスで一ケ月過ごしたりして、やっと大丈夫になって来たかな~、って、思っていたところなの」
「うん」
「それを今更、『はい、そうですか』、って、ちょっと無理。自分が勝手なこと言ってるってわかってるの?」
「うん、それは、オレには悲しいことだけど、わかってるつもりだよ」
「時間をちょうだい」
「もちろん。いくらでも待つから」
今度は自分から距離をとるとは・・・、と、マキは小さなカフェテーブルの向こうにいる、まるで雨に濡れた子犬のようなマークの姿を不思議に思いながら見つめた。




