林檎の木の下で
祭りの夜から幾週間が過ぎた頃、ミリアムとマウラ姉妹はようやくコークへと出かけることができた。
ミリアムは今日まで心の定まることがなく、毎日、愛しの君への文を書きたい衝動に駆られ、それを抑えるのに苦労した。送った文は一度だけ、本日参るという内容だけにしたが、マルクからの返事は城へは出さないよう取り決めているため、気が気ではなかった。
「姉さま、もしかして緊張してらっしゃるの?」
町へと向かう馬車の中でマウラが聞いた。知らずうちに手布を握りしめていたのに気付いたミリアムは、
「ええ、そう。あの夜から初めてお会いするのだもの」
「そわそわするのは仕方ないわよね。でも、楽しんでらして。刻の経つのを忘れるかもしれないけれど、わたしは店を見て廻ったり、紅茶店で寛いだりしているから」
「ありがとう、マウラ」
マウラは満面の笑みを姉に返した。
ミリアムの胸元には、鈴蘭の首飾りがある。あれから毎日着けているので、すっかり城の者達にはこれがミリアムの気に入ったものだと認識された。
オスカルには一度、聞かれたので、祭りの時に購ったとだけ言った。それは真実ではあった。ただ、皆まで話す勇気はなく、胸がちくりと痛みはしたが。
手習処である宿屋に到着すると、マルクは裏にいる、と主に言われたので、胸を逸らせながら向かうと、荷馬車に荷物を積んでいる彼の君の姿があった。顔が一気に熱くなる。
マルクもすぐにミリアムに気付いて、一瞬、間誤付いたような様を見せたが、駆け足で近付いて来た。
「やあ、姫さん」
「こんにちは、マルク」
お互いじっと見つめ合い、次の言葉が出てこなかった。
「・・・・」
「・・・・」
(早く、早く、貴方様にお会いしとうございました)
ミリアムは空色のマルクの瞳を見ながら、心内で呟いた。これを言葉にして口に出すのはあまりに恥ずかしく、出来ずにいた。
「今日は、その・・・、文で言っていただろう。稽古を休みにして野掛けに行こうと。おやっさんからこれを借りたんだ。天気もいいし」
マルクは照れ隠しのためか早口でそう言い、ニ頭立ての荷馬車を指差した。以前、衝突しそうになった時と同じ荷馬車だろう。
「そうなのですか?」
「そう遠くへは行かない。あんたの妹を待たせるのは良くないし、いつもの稽古と同じくらいの刻には戻って来る。それでいいか?」
「もちろんです」
「よし、じゃあ早速出発しよう」
「はい!」
ミリアムは嬉しそうに返事した。
「ここだ」
「まあ、なんて素敵!」
マルクがミリアムを連れて来たかった場所。林檎の木がいくつも植えられている小経だった。すぐ側に小川が流れ、黄色い蝶が舞っている。林檎の花は満開。白と淡い薄紅の小さな花が見事に咲き誇っていた。
「よくこのような場所を御存知でしたのね」
「ああ、実が成ると、もぎに来るんだ。林檎園というわけでもないから、誰でも勝手にとっていいことになっている」
二人は馬車から降りて、小川の側へと足を向けた。
「ここで休もう」
そう言って、マルクは荷馬車から毛布を取り、大きな林檎の木の下に引いた。
「ありがとうございます」
「喉が渇いているなら、これは水、あと、果物も持ってきた。野掛けなんて行ったことなかったから、何を準備したらいいのかわからなかったんだが」
マルクはそう言いながら、布袋を毛布の上に降ろした。
「こちらで充分です。わたくしは何もご用意せずに申し訳ありません」
「何を言ってる。事前にしっかりと約束していたというわけでもないだろう。で、普通は野掛けってのは何を持ってくんだ?」
「麦餅と乾酪、干し肉に果物、それから葡萄酒というのが定番ですわね」
「なんだ、普通に俺達も食べるものなんだな」
「ええ。わたくしの城では、普段食すものもそう豪奢ではありませんのよ」
「そうなのか?貴族っていうのは豪勢なことばかりしていると思っていた」
マルクのその言葉にミリアムは笑い、
「家系は確かに古い家系ですが、領地は小さく、爵位も高祖父の代からで、領地を購入してから賜った爵位ですので、大したことはございません」
「親父さんは毎晩、葡萄酒に肉なんてやってないのか?」
「まあ、それが貴方の貴族に対する心象なのですか?いいえ、父も質素なものを一緒に食べておりますのよ。葡萄酒は毎日というわけではないにしても、嗜んではおりますけれど。わたくしも時折飲みますが、貴方は?」
「いや、俺は一滴も飲まない。好まないんだ」
「そうでしたの」
こうした他愛のない、お互いのことについて話をするのは祭りの時が殆ど初めてで、意外にマルクは寡黙というわけでもないようだ。次第に緊張もほぐれていき、稽古の時とは違う新鮮さを感じていたミリアムだったが、マルクが話す時の表情や仕種の一つ一つを改めて見ていた。
身に着けているものは粗末ではあれど、何度も何度も水を通しているのがわかるし、綻んだ部分がきちんと直されてもいる。そして、腕まくりした襯衣の袖から伸びている肘下の腕。筋肉の筋が線となって綺麗に出ており、そのすっとした美しさに思わず見惚れてしまった。
それから、彼の君の手。様々な下働きをしているためか、ごつごつとして、傷もあるが、自分の小さな手とは違う大きな手。
(あの夜、この大きな手に触れられたのだわ・・・)
「何をそんなにじっと見ているんだ?」
ふ、と我に返って、マルクの問いに驚き、顔を赤らめたミリアムは咄嗟に、
「いえ、あの、貴方の手を見ておりました」
と、正直に答えた。
「俺の手?こんな節くれだった手がどうかしたか?」
マルクはそう言って、ミリアムに自分の手をかざして見せた。
「働く殿方の手ですわ。わたくしの手とは全然違う・・・」
ミリアムが自分の手を出すと、マルクはその手を何の気なしに取った。
「って、当たり前だろう。あんたの手は小さくて可憐だ。姫さんの手だな。
・・・俺は、この小さな手が筆を使って紡ぎ出していくあんたの文字を見るのが好きなんだ」
ミリアムの心の臓が跳ねる。
「わたくしは、貴方のその、夜空で瞬く星を映したかのような目を見るのがとても好きです」
ミリアムの頬はまだほんのりと赤く、恥じらうようにそう言った。
二人の手が握り合わせられ、視線もぴたりと合う。マルクはもう一方の手をゆっくりとミリアムの頬に充てた。
「口付けてもいいか?」
真剣な眼差しのマルクが問うた。
「・・・はい・・・」
唇が重なる瞬間にさわやかな風が吹き、後ろに咲く林檎の花が一斉に揺れたのを、閉じようとするマルクの瞳が捉えた。




