野球観戦
ウオオオーッ、と唸るような歓声が球場全体を覆った。
打者がヒットを放ち、走者が一塁へと走って、セーフとなったのだ。大画面にチューイングガムを噛みながら、塁に出て満足そうな顔の選手が映る。目の下には「アイブラック」と呼ばれる真っ黒なグリースを塗っている。
三回裏、ホームチームの攻撃。ゼロ対ゼロの得点なし。
マキとマークは予定通り、野球観戦デートに来ていた。
マキがチケットを買い、取った席は一塁手と右翼手の間。なぜかというと、右翼手は日本人選手だからだった。日本ではスーパースター選手、渡米後このチームでも様々な記録を作っている花形選手だ。最初の打席はヒットなし。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
二人はとろけたチーズがたっぷりかけられたナチョスとホットドッグ、レモネードを手にして、座席に腰掛けている。レモネードにはレモンが丸ごと一個入っていて、特大サイズだ。
「今日のサブロー選手の調子はどうだろうね?」
「打つわよ、絶対に」
マークはチームの公式スタジアム・ジャンパーにキャップという姿で、マキはそうしたものを持っていないので、普段着。これまでのデートは仕事帰りだったので、きっかりとした服ばかりだったが、今日はカジュアルな服装で来た。アパートまでマークが車で迎えに来てくれ、球場近くにあるチャイナタウンに車を駐車してから歩いてきた。
「サブロー君が入団する時、シーズン前にうちの事務所に挨拶にみえたの」
マキがそう言うと、マークは、
「えええ???」
と、心底驚いた声を出した。
「職員みんな、朝からソワソワしちゃって、もちろんあたしもなんだけど、うちの母が彼の大ファンでね、色紙を日本からわざわざ送ってきて、サインをもらって、と言ってきたの」
「くれたの?」
「うん、快く。母の名前を聞いてきて、漢字はどんなですかって聞いてくれて。あ、漢字というのは中国から渡って来た文字で日本でも使うの」
「へぇー」
「うちの母、自宅にそのサインを飾っているけど、帰国した時に渡したら、『まぁ~❤』、と目がハートになってたわ。可笑しかった。自分の娘と同じ年の男の子に熱をあげててるのよ。サブロー君、姿がスラッとしてて、肌がとてもきれいなのが印象的だった」
マークはひとしきり笑ってから、
「彼はいい選手だよね。小柄でホームランを量産するパワーはないけど、ヒットの数はコンスタントに維持しているし、守備も素晴らしい。盗塁を勝ち取る俊足に、その観察眼と勘がすごいと思うよ」
と、言って前方のフィールドを見た今日の彼の瞳はいつもよりももっとキラキラしている。
(あ~、きれい。野球が本当に好きなのね。今日のこと、楽しみにしてくれてたんだろうな、きっと・・・)
マキは週末の一日を彼とデートしている事実に歓喜し、昨夜はあまり寝付けなかったほどだ。
「あああ!!!」
マークが大声を出したのに驚き、マキもフィールドを見ると、打者が打った球が相手チーム選手のファインプレーでアウトになった。スリーアウト、これにてチェンジ。観客の残念そうな声も時間差で聞こえた。
◇◆◇◆◇◆
七回表終了。
一九〇八年作曲「Take Me Out to the Ball Game(私を野球に連れてって)」が流れ、観客は思い思いに席を立ち、手洗いへ行ったり、ビールやつまみを買いに行ったりする。
「セブンス・イニング・ストレッチ」といわれる習慣だ。大リーグの試合は選手それぞれがバッターボックスに立つ時に流れる曲が決まっていたり、小休止の間に大スクリーンでミニゲームが行われたり、と、観客を飽きさせないよう設えてある。
「オレ、トイレに行くけど、何かいる?」
「あたしも行くわ」
試合中盤、相手チームにヒットが続き、只今のところ二対ゼロで、押されているホームチーム。
まだまだ挽回できる、と、マークは信じて疑っていない様子を見て、マキはかわいいなぁ、と微笑ましく思っていた。日曜のデイゲームなので、マークのようにチームのシャツを着て、キャップを被った子供達が多い。その中に、サブロー選手の背番号入りシャツを着ている子も少なくない。
「サンデー食べたい」
と、用を済ませたマークが言ったので、子供達と一緒にアイスクリーム・スタンドに並んでいる二人。
「子供の頃、兄さんと一緒にオレもこうして並んでたよ」
「そうなの?」
マキはマークの少年姿を想像してみた。にんまりせずにはいられない。
「母さんはそこまで野球に興味はないから、試合に連れて来てくれたのはいつも父さんでね。その父さんも、祖父さんから連れて来てもらって、球場でのアイスキャンデーだの、試合が終わった後、パーラーで飲むバニラシェイクなんかを楽しみにしていたらしい」
「父と息子、三代に亘っている伝統なわけね」
さながらノーマン・ロックウェルのポスター画か。古き良きアメリカのイメージ通りだ。
この国で最古の歴史を持つスポーツである野球がアメリカ人にとっての国民的娯楽といわれる所以かもしれない。試合開始前に流される国歌を聴きながら、胸に手を充て神妙な顔つきの人々を見ると、マキはいつも感動を覚える。
「もう四代だな。甥っ子も兄さんが連れてきているらしいし」
「あなたのうちの男の子、みんな野球ファンなんだ。とても素敵な話ね」
そして、ガッツリと盛られたアイスにホイップもたっぷりのサンデーを一つ買ってから、二人は席に戻った。
「次はサブロー君ね」
「頼むよ、サブロー、打ってくれ」
あ、と、マキはあることを思い出し、
「何年か前に、彼がジョージなんとかっていう選手の連続安打数記録を破った試合、覚えてる?」
「もちろん。ゴージャス・ジョージだね。八十四年間、その記録は破られなかったんだよ」
「あたし、その試合、観に行ったの」
「なんだって?!」
「前日の試合がアウェイゲームで、職場の皆とテレビで観てたの。そして試合終了後、上司に許可をもらって公式ストアにチケットを買いに走ったわ。まさかのホームゲームでしょ?
次の日、その試合に上司や同僚十人くらいで向かって、それはもう心臓が口から出そうなくらいドキドキしながら彼の打席を見守っていたの。
彼がヒットを打って塁に到達した途端花火がドーン、ドーンと数発上がってね、観客はスタンディング・オベーション。サブロー君はいつものクールな感じだったけど、帽子を上げて歓声に応えてた。
ジョージさんのお孫さんも試合に招待されてて、惜しみなく拍手を送ってたわ。あたし、号泣しちゃった」
マキはまたその当時を思い出したかのように、少々涙目になっていた。
「野球の歴史的一場面にいられたんだ。それはラッキーだったね」
そのサブロー選手が打席に立った。バットをクルクルと廻した後、二塁の方向へ水平に伸ばし、左手でユニフォームの右袖をクイっと手操し上げる。
ツーアウト、走者は一、二塁に出ている。
一投目は見逃しのストライク。二投目、ピッチャーのカーブボールをバットに当て、ファウル。ツーストライク。三、四投目、ボール。
五投目、良いスイングの後木製バットが球を打つ小気味よい音が響いた。ボールは左中間を抜け、野手のグローブをすり抜けた。その間、走者は一人が本塁へ。サブロー選手が二塁へと進む頃にはもう一人の走者も本塁を踏んだ。記録はクリーンヒットの二塁打。
球場は割れんばかりの歓声に沸いた。マキとマークは同じく歓声を上げ、ハイタッチをして、期待を裏切らないこの一選手を褒め称えた。




