攪乱
「今日はこれより本を探しに参りましょうか?」
手習いの稽古が終わり、ミリアムがマルクに言った。
「あんたの行きつけの、あの旦那のところかい?」
マルクは初めて習った文字を紙に書き写していたが、顔を上げて聞いた。
「はい。もう少し難しい本に進んでもよろしいかと思いまして」
「文の手伝いをしてもらってから、行ってないしな」
ミリアムが都に行っている間、マルクに文を送り、その返事を書くため、マルクが助けを求めたのが本屋の主だった。これまで文字を知らなかったので、手紙など書いたことがなかったのだ。
「この書き取りを終わらさせてくれ」
そう言ってマルクは筆を右手から左手に持ち代えた。墨をつける。その様を見ていたミリアムは、
「貴方、本当は左利きなのですか?」
「いや、というわけでもないんだ。どうやら字を書く時だけみたいだ。右の方が紙を汚すことがないから、なるべく右で書こうと練習しているんだが、左の方が勝手がいい。他の道具はすべて右利きなんだがな」
「では、無理に直す必要はないのでは?」
「そうか?いや、あんたも右だし」
「ご自分の使いやすい方をお使いなさいませ」
ミリアムはそう言って笑った。
それから本屋へと向かい、厚みのある本を数冊購った。マルクはこれから読み解いていく新たな本に目を輝かせ、この方も自分と同じように本好きになってくれれば、と、ミリアムは胸に幸福感が広がっていくのを感じた。
「今日はこれからすぐに仕事がある。宿屋には送っていけないが、すまない」
「いえ、お構いなく。一人でも大丈夫です」
「次はいつになるかわからないよな?」
「そうですね。もう次はベルティナの日になるかと。もし、その前に出てくることがあれば、文でお知らせ致します」
「わかった。それじゃ」
踵を返したマルクの背をしばらく見送ってから、ミリアムは先ずマウラが紅茶店にいるか覗いてみようと歩き始めた。都より帰ってきてからというもの、何かしら用事を作っては町に出てきてはいるが、これまでのように旅支度がなくなったので、もっとよい方法を考えねば、と、思い始めていたところだった。
(あら、わたくしとしたことが、指南所に傘を忘れているわ)
宿屋の主が気付いて取っておいてくれるだろうとは思ったものの、気に入りの日傘なので取りに行くことにした。
(次は、祭りの日の逢瀬。マウラに事情を打ち明けなければならなくなるやも・・・)
マルクと逢瀬の約束を交わした時から頭の片隅に置いていた問題だったが、マウラはなんと言うだろうか。想像もつかなかった。考えただけで胃の腑が軋むような気がした。
(クリストルが言っていた『難しい恋』というのは、こういうことも含めてなのね)
宿屋がもうすぐのところまでやってきて、様々な思いを巡らせていたミリアムは、前方にマルクの姿を見つけた。括目し、立ち止まる。女が隣にいた。ぱっと躍った胸が一気に降下する。
その女は、腕をからめ、なにか親しげにマルクへ話しかけている。二人はそのまま宿屋の裏側へ歩いて行った。
ミリアムは長衣の裾をたくし上げ、矢も楯もたまらずに駆け出した。頭に血が上り、胸は早打ちしている。今この眼に映った光景が信じられなかった。しばらく走って広小路を抜け、路地に小さな教会をみつけたのでそこに駆け込んだ。そして、礼拝堂のケルト十字の前に跪き、祈った。
(神よ、これは許されぬ恋に身を窶そうとしているわたくしへの罰なのでしょうか?)
「姉さま、何をやって・・・、どうなさったの!?」
宿屋で待ちぼうけさせられていたマウラが、真っ青な顔をして崩れ落ちそうになったミリアムを抱きとめた。
「城へ、急ぐのよ!」
マウラは御者にミリアムを託した。
◇◆◇
朝、目が覚めると、ミリアムは見慣れた天蓋の下にいた。まだ薄暗い部屋の中で目を凝らすと、壁沿いに置いてある椅子にオスカルが座っているのが見えた。
(わたし、確か、あの後、気を失ったのだったわ)
「オスカル」
と、声をかけると、はっと気づいたオスカルが、すぐに側までやってきた。
「失礼致しました。お目覚めのようですね。ご気分はいかがですか?」
「わたし、どれくらい寝ていたの?」
「二晩です。町からマウラ様とお戻りになられてから、ずっと寝ていらっしゃったのです。よろしいですか?」
オスカルはそう言って、ミリアムの額に手を充てた。
「熱は下がったようでございますね。ようございました」
オスカルは安堵の息を大きくついた。
「お前、ずっとついていてくれたの?」
「はい。夜はカトリンを下がらせまして、わたくしが寝ずの番をと思っておりましたのに、今、目を閉じておりました。申し訳ございません」
オスカルのことなので、たった数分のことだろう。ミリアムは静かに首を横に振り、
「いいのよ。後でお前も部屋に行って休みなさい。あとはカトリンにやってもらうから」
「はい。ありがとうございます。水分補給はされますか?」
「そうね。いただくわ」
オスカルはミリアムが身体を起こすのに手を貸し、水を飲ませた。
「ありがとう」
笑みが出るということはもう大丈夫、と、オスカルはミリアムを見て思い、微笑み返した。
「わたしがこうして臥せると、必ずお前が看病してくれるわね」
ミリアムがまだ小さい頃は乳母がついていたのだが、病になると決まってオスカルがその役を自ら買って出た。
「どうしてわたくしがそうするようになったか、お嬢様は憶えていらっしゃいますか?」
ミリアムは首を傾げた。
「お嬢様が四つの頃のことでした。わたくしが風邪を患い、寝台より起きられないという日がございました。父がそうお嬢様にお伝えしたところ、うつっては大変なことになると申し上げたのに、見舞いに行くとおっしゃって、お聞き入れされなかったのです。
いつまでもお泣きになられるので、父は奥方様よりお許しをいただき、わたくしの寝間にお連れしました。お嬢様は見舞いにと庭で摘んだ花を持っていらして、わたくしの手をぎゅっと繋いで下さったのですよ」
オスカルがとても懐かしそうに語る様を見て、ミリアムは小さく笑う。
「全然憶えていないわ」
「お嬢様はわたくしに、『早く良くなって、明日からまた一緒に遊ぶの』と、おっしゃっておいででした」
「それでなのね。病の度にお前が手を握ってくれるのは」
「はい。昨夜もそうしておりました」
朦朧とした意識の中、オスカルに手を握るよう頼んだような気がした。
「お前にそうしてもらうと、安心できるのよ」
「それは光栄なことです」
一昨日、町で見たあの光景が目に浮かんだ。オスカルの笑顔を見ていると、胸につかえる全てを吐き出してしまいたくなる。しかし、それよりも彼の君が先だ。何かがそうミリアムに告げていた。幸い、ただの病で倒れたと誰もが思っているだろう。
「お食事はなさいますか?」
「空腹は感じないからまだいいわ」
「かしこまりました。ご所望の折にはいつでもお申し付け下さい」
「ねえ、オスカル」
「はい?」
「ぎゅって、してくれない?子供の頃、いつもやってくれたみたいに」
オスカルがふわりと笑った。そして、ミリアムを優しく両腕に抱き締めた。
「お風邪を召されて気弱になってしまわれたのですか?」
「うん、そうかも」
ミリアムは目を閉じて、すーっと息を吸い込んだ。
「安心ついでよ。不思議ね。お前の匂いは安心する匂いだわ」
「わたくし、臭うございますか?」
ミリアムはくすくすと笑った。
「安心する匂い、と言ったの。クリストルもそうなのよ。やっぱり子供の頃から知っている殿方の匂いには気を休ませるものがあるのね、きっと」
「お嬢様にそうおっしゃっていただけますと、わたくしも嬉しゅうございますね。体臭というものは自分でどうにかなるものではございませんし」
ぱっと身を離して、ミリアムはオスカルを見上げた。
「ありがとう、オスカル。もういいわ」
「もうよろしいのですか?どうせでしたら子守唄を歌って差し上げねば、と思っておりましたのに」
「くすっ。お前のその鼻にかかった歌声を聴かせてもらうのは次の機会でいいわ。抱擁で充分元気が出たもの」
「では、薬湯をお持ち致しましょう。厨房より持って参りますので、お待ち下さい」
「うん、わかったわ」
ミリアムは微笑んで見せた。




