演奏会
「失敬」
「こちらこそ失礼致しました」
フィッシャンブル通りにある音楽堂は事前に知らされていた通り、ぎゅうぎゅう詰めであった。観客用の椅子は一寸の隙間もなく並べられていた。隣の殿方に肘が当たってしまったが、これでは仕方あるまい。
「聞いてはおりましたが、いやはや、ものすごいですな」
隣の殿方はそう言って、人懐っこい笑顔をミリアムに向けた。
「ヘンデル卿の人気の賜物でしょうね」
「本日の楽曲は演奏されるのが初めてということですからな。実に楽しみにしてロンドンからやってきたものの、これ程までとは思わなんだ。」
「そうなのですか。こちらにいるわたくしの従兄もロンドンに住んでおりますの。この演奏会のために帰国して、わたくしたち姉妹を連れてきてくれたのです」
ミリアムがそう言うと、クリストルと男性が帽子を挙げて挨拶した。
ロンドンからやって来たというこの紳士は英語を話しているものの、少々訛りがあった。
「失礼ですが、お国はどちらですか?」
「生まれはウィーンです。英国暮らしが人生の半分以上になっても訛りが抜けないのですよ。私は知り合いからこの音楽会のことを聞きましてね、商いと兼ねてやって来ました」
彼はそう言って、屈託なく笑った。
「お嬢さん方はこちらダブリンに住んでおられるのですか?」
「いえ、南方にコークという町があって、そこからまた馬車で半刻ほどのところに住んでおります」
「そうでしたか。では、貴女方も今日のこの演奏会のために遠路はるばる来たというわけですな。」
「わたくしも妹も音楽を愛してますもの。それに、こうして時折都に出てきて、普段とは違うものに触れ、いろいろなものを吸収して故郷へ戻るというのが旅の醍醐味ではありませんか?と、申しましても、アイルランドから出たことのないわたくし達ですけれど」
ミリアムはそう言って、肩をすぼめて見せた。
「お若いのに大変機知に溢れておられる」
「すべて本からの受け売りですの」
「ははは。ご謙遜なさるところも若いご婦人のなさることとは思えませんな」
そう言ってオーストリア紳士はまた朗らかな笑顔を向けた。
彼としばらく話していると、司会者らしき人物が出てきた。雑音が小さくなる。
「紳士淑女の皆様、ご静粛に。本日はヘンデル卿をお迎えしての慈善公演にお集まりいただきまして誠にありがとうございます。狭い中、大変窮屈ではございましょうが、しばしのご辛抱を。では、類まれなる音楽の奏でをお楽しみ下さい」
演奏が始まった。ヘンデル卿は自ら持参した風金を弾いている。曲目は『メサイア(救世主)』というらしい。卿が約三週間かけて作曲した聖譚曲とのこと。歌劇と類似しているが、歌劇のように舞台が設置されているという訳でなく、管弦楽団と合掌隊から成っている。
合掌隊は男性十六名、少年十六名が聖パトリック大聖堂とクライストチャーチ大聖堂から貸与され、女性二名もいる。ヘンデル卿は昨年からダブリンに滞在しており、これまで幾度か慈善公演を行っていた。曲の第一部は救世主到来の預言と誕生、救世主の宣教、第二部は救世主の受難と復活、救世主の教えの伝播、そして第三部が救世主のもたらした救い―永遠の命、を主題としている救世主イエス・キリストの生涯について描かれた曲だった。
演奏時間二時間半と長丁場であったが、聖書からとられた台本の歌詞を歌いあげる混声合唱の演出は素晴らしく、第二部の最後に『ハレルヤ』と大合唱される部分にはミリアムもマウラも涙するほど感動した。演奏が終わると、観客七百名が立ち上がって、音楽堂が割れんばかりの拍手で、ヘンデル卿、演奏者、合掌隊を褒め称えた。
この演奏会の余韻は数日経ってもなくならず、姉妹は伯父伯母夫婦、オスカル相手に感想を聞かせては幾度も感動に胸を震わせ、連れて行ってくれたクリストルに心から感謝した。
そして、数日後、都での全行程を終えて、姉妹はオスカルを供に帰路へと着いた。




