アフターファイブ
石畳の君と女性が腕を組んで歩いているのを見るという衝撃を受けてから数日の間、マキは淡々と日常の諸々をこなしていた。
その作業の合間に、ふ、と、目の端で捉えた光景が甦り、とても嫌な気分になったが、なんとか気持ちを切り替え、深く考えないよう努めていた。彼がその女性と付き合っているかはわからないが、聞くこともできないので、やっぱりもう少しお近づきにならなくては、という結論に至る。
終業後、坂道を歩いて帰っていると、後ろでハスキーな声がした。
「しばらく振りだね」
振り向くと、にこやかな笑顔で歩いてきた石畳の君ことマークだった。あの日から何度か見かけることはあったのだが、話す機会はこれが初めてだった。
「そうね。元気にしてた?」
「まずまずだよ」
マークは歩調を合わせてマキの隣を歩き始めた。今日の彼はグレーのスーツ、緑色のネクタイと水色のシャツという井出達だ。
「いい気候になったよね」
「本当に。桜はもう散ったけど、これからもっと別のいろんな花が咲くわね」
「ソメイヨシノ、だっけ?あれから、何度か一人でも見に行ったよ」
花の名前を覚えていたことに驚いたマキは、
「よく覚えてたわね、長い名前なのに」
ははは、と、彼は笑い、
「自分でもビックリ。チューリップくらいしか知らないのにな」
横断歩道に到着し、信号が赤なので止まる。渡った先の角にはバーが一軒ある。オシャレでもなんでもない普通のバーなのだが、マキは、何も考えずに、
「お腹空かない?あたし、そこで軽くつまんでいこうと思っているんだけど、あなたも一緒にどう?」
と、言った。彼が驚いたように目を見開いたのを見て、
(うわ!あたし、何、言ってんの!?)
と、自分で自分に驚いた。そして、彼の発した言葉に叫びそうになるほど驚く。
「オレ、酒は飲まないんだけど、食べるだけなら付き合うよ」
(きゃーーーーーーーーーーー!!!!!)
と、いうわけで、バーのカウンターについた二人。飲まなきゃいたたまれない、と、マキはモヒートを注文した。あとはつまみになりそうな品を二皿、マークが食べたいと言った一皿の計三皿。
「どうしてお酒を飲まないの?」
内心ドキドキしながら、マキはマークに聞いた。
「どんな種類でも、味がダメなんだ」
「そう。じゃあ、下戸というわけではないのね」
「うん、ただ好きじゃないだけ。キミは飲むんだね」
「そう。家でも週末は飲むし、お酒の席は好きね。楽しいから。量はそんなに飲めないけど」
「へー」
「あたしは、南にある九州というところ出身で、そこは酒豪で有名な土地なの。だからうちの家族もよく飲むのよ。なにかあればやれ宴会だ、飲み会だって集まって、ガヤガヤ騒ぐんだけど、それがまた楽しいの。来週帰るから、一族郎党うちの実家に集まると思うわ」
「日本に帰るの?」
なぜか、マークは嬉しそうにそう聞いた。
「そう。一年に一度の里帰り。今回は東京で留学仲間と会って、地元では大学の同窓会もあるし、家族との旅行もあるから、あっという間の二週間になると思う」
「そうか。楽しそうだな」
「あなたは?どこかに旅行の予定はないの?」
「ラスベガスに行くことになってるよ」
「そうなの?ギャンブルしに?」
「それだけじゃないけど、オレ、暑いところが好きなんだ」
「そっか。だから、初めて会った時にハワイの話をしたら、なんか嬉しそうだったのね」
「ここで生まれ育ったけど、暗くて、いつも曇ってて、気分まで落ち込まないかい?」
「まあ確かにね。でも、その代わり、夏は最高じゃない。日本の夏は暑い上に、湿気がものすごくて、あれを経験したらここが天国に思えるわ」
マキのカクテルと一皿目が運ばれてきた。マークは水だけだったが、マキはグラスを持ち上げて、
「とりあえず、乾杯」
と、言い、グラスをカチンといわせた。
アルコールが身体に廻って来たのもあるのか、思ったよりも会話は弾んだ。これまで行った旅行の話、家族のこと、仕事のこと、マークがよく行くゴルフについて、と、いつも偶然会う時に話す以上のことを話して、いろんなことが知られた。
あらかじめ約束していたデートではないし、例の女性のことがあったのも助けて、マキは気負いなく話せたように思えた。
マークは一緒にいて楽しい男だった。それが今日、わかったというだけでもかなりの収穫だ。
隣に座るマークの姿をまじまじと見た。彼はいささか痩せたように思う。元々中肉中背ではあるが、引き締まった感じがする。
料理が運ばれて来た時に、彼はジャケットを脱いで、ワイシャツの袖を捲り上げたのだが、肘下から手首までに出る筋肉の筋、節が目立つ手や手首にある突起した骨、そして男物の腕時計などにマキは見惚れてしまった。
(この腕に抱かれたら・・・)
と、妄想すると、鼻血が出そうになる(とはいえ、マキは生まれてこの方、鼻血を出したことはなかったが)。
そして、近くで見てもキラキラしている彼の目。思わず、じっと見入ってしまいそうになる。
チェックを頼み、化粧室から戻って来たマキがクレジットカードを出そうとすると、
「オレがごちそうするよ。いつかのリンゴのお礼」
と、代金を支払ってくれた。
「じゃ、お言葉に甘えて。ありがとう」
マキはそう答えた。
店を出て、彼が車を止めている駐車場まで歩いていくと、マキは再度礼を言った。
「今日はごちそうさま。あたしが誘ったのに、ホントにありがとう」
マークは笑顔で答えた。
「どういたしまして。楽しかったよ。キミが日本に帰るまでにもし会えなかったら、里帰り、満喫して来るんだよ」
「ありがとう。楽しんでくるわ」
「で、もし日本にいる間、時間があったら、メールして」
(へ?)
マークはそう言って、名刺を差し出した。マキはそれを受け取る。
「オレの分も美味しい寿司を食べてくるんだよ。今日も会えてよかった」
マークは手を上げながらウィンクし、駐車場の奥へと歩いて行った。
半ば放心状態のマキは、歩きながら名刺をよく見た。彼の名前、肩書、弁護士事務所の名前と連絡先、そして裏には彼個人のメールアドレスと電話番号が書かれていた。
早足で次のブロックまで歩き、右に曲がって立ち止まり、建物に寄りかかった。早打ちする心臓に肺が圧迫されたように感じ、窒息しそうになりながら、眩暈までも覚えた。
一旦落ち着くと、声には出さずに奇声を発しながら、家路を急いだマキであった。




