手へ口づけ そして、いざ、都へ
都へと出立する日が来た。
海陸両方をとる長い旅路となるので、此度は執務補佐役のオスカルが姉妹に付き添うこととなっている。オスカルは父パトリックと同じく非の打ちどころのない執事であり、伯爵夫妻は全幅の信頼を置いていた。
「それでは、父さま、母さま、行って参ります」
伯爵夫妻、使用人総出の見送り。ミリアムもマウラも高揚感でいっぱい。生き生きとした顔をしている。
「ああ、気を付けてな。楽しんでおいで」
「文を書きますわね」
「お兄様、お義姉様に、よろしくお伝えしてね」
「オスカル、娘たちのこと、頼んだぞ」
「はい、旦那様。全身全霊で務めて参ります」
馬車に乗り込む三人に手を振って、車が見えなくなるまで伯爵夫妻は玄関先に佇んでいた。
◇◆◇
海上にて船は揺れていた。
マウラは船酔いし、オスカルが付き添っている。ミリアムはこれしきの揺れでは酔わない性質なので、甲板に出て外を眺めていた。出立後、初めて一人になったので、数日前のことを思い出していた。
「それでは、今日を最後にしばらくお稽古はお休みです」
四度目の稽古が終わった後、ミリアムがマルクに言った。彼は優秀で、二十六文字全てを書くことも読むこともできるようになった。
言葉もたくさん覚え、本屋で買っていた二冊の読本は、子供向けの簡単なものだったこともあり、かなり進んでいた。字引で調べることはまだ遅いし、説明となるとまだ理解できない部分があるのだが、ミリアムにとっても彼は熱心な教えやすい学徒であった。
「都にはどれくらいいるんだったか?」
「一月です」
「そうか」
「その間、お一人でも練習なさって下さいね。あ、それから、これは拙宅から持ってきたものですが」
と、ミリアムは薄い読本を渡した。
「読み解くのに難解ではないと思いましたので、練習用に」
マルクは本を手にし、中身を捲ってみた。
「へぇ、ちゃんとした本だな。子供向けでもなく」
「そうですわね。内容も面白そうなものを選んで参りました」
「どんな話なんだ?」
ミリアムはくすっと笑ってから、
「それは申し上げられません。どうぞ、貴方が読んでいって下さい」
マルクも軽く笑った。
「それもそうだな」
「もし解らないところがあれば、印を付けてもよろしいですし、別紙に書きだして、わたくしが戻った時に質問して下さればよろしいかと」
「ああ、わかった」
マルクはまた本の頁を捲りながら、
「俺がこれを一人で読めるようになったら、すごいな」
「なりますわ。必ず」
「ありがとな、姫さん」
柔和な笑みと共にマルクは言った。ミリアムはほんのりと顔を赤くし、
「貴方は優秀な教え子です。教えるのも易く、わたくし、指南役を楽しんでおりますもの」
「いや、本当に感謝している。何か礼をしないと、と思ってはいるんだが、俺にできることはあるか?」
「何もございません。貴方が本を読めるようになることが、わたくしにとっても喜ばしきことでございますから」
ミリアムはそう郎々と答えた。
宿屋の主人に挨拶して、外に出ると、
「途中まで送ろう」
と、マルクが言った。
二人は並んで歩きながら、ミリアムの旅について話した。妹、執事と共に行くこと、従兄が招待してくれた音楽会が一番の目的であること、伯父夫婦が夜会を開いてくれること、妹のマウラは従兄のクリストルに熱を上げていること。
「あんたはどうなんだ?」
と、マルクが口を挟んだ。ミリアムは従兄が如何に素晴らしい殿方であるか、話していたところだった。
「え?」
「その従兄のこと、あんたも妹みたいに想ってるのか?」
胸が高鳴るのを感じ、マルクの顔が見られなくなった。
「い、いえ。幼き頃より兄と妹のように育って参りましたので、兄としては敬愛してはおりますが・・・」
それから、マルクもミリアムも黙り込んだ。しばらく無言のまま歩いて、いつもの待ち合わせの場である宿屋が見えてきた。二人は立ち止まり、
「それじゃ、俺はこの辺で」
「あ、はい。ここまで送って下さって、ありがとうございました」
マルクが名残惜しそうにしているのは気のせいだろうか、と、ミリアムは思う。
「都まで道中気をつけてな」
「ありがとうございます」
二人ともじっとお互いを見ていた。が、それ以上何を言えばよいのかわからず、そのままでいると、先にマルクが踵を返そうとし、ミリアムに背中を向けた。
その瞬間、彼女が、
「あの、マルク」
と、声をかけた。
マルクが振り向くと、ミリアムはおずおずと右手を、手の甲を上に向けて差し出した。マルクは意味が解らず、首をかしげて見せた。
「あの、先程、何かわたくしのためにできることはないかと、おっしゃって下さいましたよね?『ございません』と、申しましたけれど、今、思いつきました」
かなりの間隔が開き、
「手に・・・、口づけをいただけますか?」
消え入りそうな声で、顔を真っ赤にしたミリアムが言った。
マルクは自分の至らなさに頭をぶん殴りたい気分になったが、慌てて彼女の華奢な手を取った。
「すまん、姫さんに恥をかかせて・・・」
そう言って、甲に口づけた。
ミリアムは首を横に振り、とても嬉しそうにその挨拶に応えた。
とくん、とくん、と鳴る胸の音を聞きながら、ミリアムは甘い想いに浸り、吐息が漏れるのもそのままにしていた。熱くなった頬にあたる潮風が心地よい。
「お嬢様、ミリアムお嬢様」
オスカルの声ではっと我に返り、
「マウラの様子はどう?」
「たった今、お休みになられました」
「そうなの。ありがとう、オスカル。ずっとあの子についててくれて」
オスカルは微笑み、抑揚のない落ち着いた声で主に聞いた。
「滅相もございません。お嬢様は、お変わりありませんか?」
「わたしは大丈夫よ。船酔いしたことありませんし」
「いえ、お身体ではなく、何か物思いに耽っておられるご様子でしたので」
(さすがはオスカル。昔からこの者には隠し事ができない)
と、ミリアムは思う。
「相変わらず鋭いのね、お前は」
「何かお悩みで、わたくしめの耳でよろしければ、いつでもお使い下さい」
ミリアムは肩で一つ大きな息をし、
「そうね。いつかはお前に話したいわね。でも、今はまだ、その時ではないの」
「かしこまりました。では、それまでお待ちしております」
またもやオスカルの古拙の微笑み。これにこれまで何度助けられたことか。
しかし、この儀に関しては、今は誰にも打ち明けずにいよう、と、ミリアムは思った。




