貴方の名
ミリアムと男が宿屋に到着し、事情を説明すると、主は快諾してくれた。主がいつも男に貸してくれる空き部屋を好きに使ってよいとのこと。卓と椅子があるだけの粗末な部屋ではあったが、読み書きの手習いには充分であった。
「わたくしは、妹の用が済むまで何もございませんし、貴方にお時間があれば、早速始めますか?」
男は、
「俺も仕事は後でできる。あんたがよければ、頼みたい」
「了解しました。では、ご主人に紙とインク、ペンをお借りしてきていただけますか?紙は反古紙で結構です」
「わかった」
男が、頼まれたものを揃えて持ってきた。ミリアムは行儀よく椅子に腰かけていた。男も席に着く。
「それでは、まず初めに」
ミリアムが言った。男は心なしか姿勢を正し、彼女に向き合う。
「貴方のお名前を存じ上げませんでしたわ。わたくしはミリアムと申します」
「そうか、そうだったな。俺はマルク」
「マルク、と、お呼びしても?」
「もちろんだ」
「改めまして、マルク、始めると致しましょうか?」
「ああ、俺の方こそよろしく頼む」
ミリアムがニッコリと微笑んで見せた。マルクは何度も瞬きをする。
「次回からは、わたくしが紙と文具を用意して参りますので、貴方は身一つでこちらにいらして下さい。宿屋のご主人にはなるべくご迷惑をかけないように致しましょう」
(多分、おやっさんは厭わないとは思うがな・・・)
と、マルクは思ったが、師の言うことを聞く。
「それでは、基礎となる文字からですわね」
ミリアムが「A」を初めに、紙にスラスラと文字を書いていく。二十六字書いたところで、ペンをマルクに渡す。
「最初の文字は『エー』と発音します。書き順はこうです。こちらが大文字、そして小文字」
「エー」
と、言いながら、マルクはミリアムが指で示した通りに書いて見せた。初めてのことなので緊張している。生まれて十九年、まさか自分が文字を習おうとは夢にも思っていなかった。
「よくできました。次はこの文字、『ビー』といいます」
「ビー」
◇◆◇
一刻後、ミリアムは急いでマウラとの待ち合わせ場である紅茶店に到着した。
「マウラ、ごめんなさい、遅くなって」
マウラは既に紅茶と焼き菓子を前に、痺れを切らしていたようだ。
「一体どうしたの、姉さま?どこかで迷子にでもなられたの?」
ミリアムが卓の上に置いた本を見て、マウラは、
「どうせまた読み出したら止まらなくなって、刻が来るのを忘れたのでしょう?」
「まあ、そんなところね」
「わたしは用が済みましたし、帰りましょうか?」
「そうね」
帰りの馬車の中、ミリアムはマウラの話に耳を傾けてはいたものの、どこかふわふわした感情を持て余しながら、今日、自分がマルクに提案し、読み書きの指南をするようになったこと、宿屋の主人に場所を提供してもらえたこと、手習いに熱心に向き合っていたマルクのことを考えては、事の展開の速さに驚かずにはいられなかった。
そして、既に次の機会を楽しみにしている自分にも驚いていた。
(マルク・・・と、いう名だったのね、あの方は)
大胆な申し出をしたという自覚はあったが、彼の「習いたい」という気持ちにはひたむきさが見てとれた。勉学に対する探究心は自分でもとても大切だと思っているので、わたしがお手伝いできれば・・・、と、ミリアムは思った。
(本当にそれだけ?この、胸が治まらない感じは一体何なのかしら・・・)




