ひとつの提案
立ち込めていた霧がだんだんと明けてきた朝まだき。空気は未だ肌には冷たく感じられるものの、春の芽吹きを目や耳で感じるようになってきていた。早起きしたミリアムは朝餐の前に森へ行くことにした。厩に行き、
「おはよう、イーへ」
と、愛馬に話しかけた。イーへは黒毛の美しい馬だ。気性も穏やかで、ミリアムによく懐いている。
「イーへ」はゲール語(ケルト系言語)で「夜」を意味する。イーへの身体を充分に撫でてから、厩番が用意してくれた鞍の鐙に足をかけ、背に乗った。
「さ、イーへ、行くわよ」
ミリアムがイーへの腹を一蹴りすると、イーへは主人の合図に答え、ヒヒンと鳴いてから、ミリアムの示した方向に走り出した。
森に入る前から、ヒバリがかまびすしくさえずっているのが聞こえたが、一旦森の中に入ると、さながら大合唱だ。ミリアムはイーへから降り、野鳥の歌声を聴くことにした。
「いい子ね」
イーへを近くの木の枝に繋ぎ、思い切り身体を伸ばして、新鮮な空気を吸い込んだ。吐く息が見えるほどの寒さではあれど、匂いはもう春。長い冬はもう過ぎ去った。
チチっという鳥の声が近くでして、見ると、コマドリが番でいた。丸々とした体、顔から腹部分が橙色の愛らしい鳥だ。
「お前たちも元気そう。もう春だものね」
ミリアムは心が浮き立つ感覚を身体中で感じ、しばらく周囲を歩いてから、イーヘに跨り、城へと戻った。
厩までイーヘを歩かせていると、
「姉さま~!」
と、前方からマウラが走って来るのが見えた。
「おはよう、マウラ。どうしたの?」
「今日、町まで行きませんこと?都に持って行こうと思っていた首飾りの鎖が絡まってしまって、宝石商に持って行かないといけないの」
「村の修理屋ではだめなの?」
「ついでに、また旅道具を物色しに行きましょう」
ミリアムは苦笑しながらも、
「あなたって子は・・・」
朝餐後、姉妹はすぐに町へと出立した。ミリアムは用がないので、完全にマウラの付添役だったが、まあよい。本屋へ行けば読みたい本はいくらでもあるし、一人で紅茶店にて本を読むのもいいだろう。
「わたしの用はすぐに済むし、後ほど紅茶店で待ち合わせしましょうか、姉さま?」
「そうね。わたしは本屋へ寄ることにするわ。先に行っているわね」
マウラと別れて、本屋へ向かったミリアム。二冊、興味のあった本を購い、通りを歩いていたら、
「お嬢さん」
と、後ろから話しかけられた。パッと振り向くと、またもやあの男であった。
「貴方でしたの。ごきげんよう。町に戻っていらしたのですね」
「ああ、また出稼ぎに戻って来たんだ。あ、あの時選んでもらった土産だが、妹たち、喜んでいたよ」
ミリアムは嬉しくなって、
「それはよかったですわ。お役に立ててわたくしも嬉しいです」
と、満面の笑顔で言った。男はそんなミリアムを眩しそうに見た。そして、彼女が手にした本に気付き、
「また本屋かい?」
「ええ」
ミリアムが今度ははにかんだように手の中の本に視線を移した。
「文字が読めると、本ってのは面白いんだろうなぁ」
「ええ、それは。世界が広がりますわね」
「やっぱりそうか。お嬢さんはどんな本が好きなんだ?」
「よく読みますのは、冒険小説、伝記でしょうか」
「冒険?」
「デフォーという英国の作家が書いた『ロビンソン・クルーソー』あと、我が国の作家スウィフト著の『ガリヴァー旅行記』という本は繰り返し、読みましたわ」
「俺はどちらも知らないな」
「残酷な描写もあるのですけれど、無人島で二十八年も過ごす主人公と、ガリヴァーは架空の国を訪れる主人公のお話ですの」
男が興味を示したようにみえた気がし、ミリアムは物語の内容を話して聞かせた。それが、かいつまんで聞かせるつもりだったのが、好きな本の話となると、細部の面白かった箇所を話さずにはいられず、延々としゃべり続けてしまった。しかし、男は退屈そうな素振りを見せず、熱心に耳を傾けていた。
「あの、ごめんなさい。わたくし調子に乗り過ぎて、長々とお話してしまいましたわね」
男は笑った。
「いや、聞いてるだけでも面白かったよ」
「でも、やはりご自分でお読みになるのが・・・あの・・・」
ミリアムの脳裏に閃いたことがあった。
「あの、もし、よろしければ、わたくしがお教え致しましょうか?」
「は?」
「読み書きの稽古を、わたくしと致しませんこと?」
「はぁ!?あんたが・・・俺に、教えてくれるのかい?」
「ええ。わたくし、そんなに頻繁にはこちらへ来ませんけれど、いえ、今は妹がよく来ているので、そういえば、毎週のようにいるのでしたわ・・・。あなたもお勤めがおありなので、時間が合わないこともありますでしょうが・・・」
男はミリアムの提案に驚き、拳を顎に充てたまま、しばらく何も答えないでいた。
「あ、ですけれど、稽古の場所はどうするとか、そういう問題がございますわね。やはり無謀な提案でしたわ。どうぞ、今のはわたくしの戯言とお忘れ下さいませ」
「いや、待ってくれ。俺、あんたから習いたい。読み書きできるようになりたい」
男がそう言うと、恥ずかしそうな表情から、ぱぁっと笑顔になったミリアム。
「場所は俺に心当たりがある。よく仕事を頼んでくる宿屋の親父んとこで、昼飯を食べたり、一休みさせてもらったりしてるんだ。今からちょっと聞いてくる。あ、あんたも一緒に来るか?」
「はい。使わせていただけるなら、そのご主人にご挨拶したいですし、場所も覚えないといけません」
ということで、男が懇意にしているという宿屋へ一緒に向かった。




