母娘の茶の時間
『神様の罰は悪徳の道を進んでいるあいだは忍耐強く我慢されていて、美徳に戻りかけたまさにそのとき、もっとも厳しい罰が下されるのだ』
仏作家プレヴォ作の『ある貴族の回想と冒険』の第七巻目にあたる『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』を原文で読んでいるミリアムとマウラ。家庭教師のオブライエン女史がミリアムの読んだ箇所をもう一度読み上げた。
「この文章を、お嬢様方、どう思われますか?」
仏語で女史が質問した。
「どうって・・・。デ・グリューはマノンのためにいろんな悪事を働いている・・・のだから、当然と思います」
少々つっかえながらも、同じく仏語でマウラが答えた。
「わたしもマウラと同意見です。ただ、恋情とはこうまで人を愚かにするのか、と興味はあります。神の罰は恐ろしいと思いますが」
ミリアムは流れるように答えた。
「パルドン、マダム。英語でよろしいですか?難しいことは言えないので」
マウラが聞く。
「許可しましょう」
「メルシー。そもそも、わたしはデ・グリューの気持ちというのが全く理解できません。マノンはそこまで魅力的な女性でしょうか?これまで築いた地位や富を投げ打って、マノンのために破滅の道を進むだなんて。さっき姉さまがおっしゃったように『愚か』だと思います」
「先生、お聞きしていいでしょうか?」
ミリアムが問う。
「はい、何かしら?」
「恋情にはそこまで人を動かす力があるのでしょうか?」
女史は本を閉じ、姉妹を交互に見た。そして、静かに、強く答えた。
「あります」
「ええ!?」
姉妹は驚いて、一瞬、身を引く。
「それが、この本が仏国で発売禁止になった謂れでもありましょうね」
「読んだ後に、破滅の道を進んだ殿方が増えたのですか?」
マウラは一気に興味を覚えたのか、身を乗り出して女史に聞いた。
「まず、文学の歴史を考えて御覧なさい。これまでこうした恋愛を題材にした書物はほとんどありませんでした。仏語でマノンのような破滅を呼ぶ女性を『ファム・ファタル』といいますが、彼の国では、この本が多大な影響を人々に及ぼすと危ぶまれ、発売禁止となったのです。
ちなみに、東洋の国にも『傾国の美女』という表現があります。これも国を滅ぼすまでの美しい女性という意味です」
「実際にそのような女性は存在するとお考えですか、先生?」
「そうですね。存在するかも知れません。わたくしはお会いしたことはありませんが、この貴族社会でも、ある女性を娶ってから家が没落したという話は聞いたことがございます」
「では、実際に起こりうるということですね」
「それは大いにありうるでしょう。ただ、貴女方には、伯爵様のお名前、ご自分の家名を汚すような行為をする女性にはなって欲しくありません。わたくしがこの本を教材に選んだ理由は、様々な文学に触れ、見聞を広め、幅広い知識を持って、多様な価値観を知っていただきたいからなのでございます」
姉妹は大きく頷いた。
「わたしは堕落した暮らしなんて考えられません。好きな服を着られないなんて、とんでもありませんわ。ちなみに、先生、仏語で『堕落』とは、どう言いますの?」
ミリアムと女史は、マウラらしい意見に声を立てて笑った。
「dépravation」
ミリアムが代わりに答えた。
「トレ・ビアン」
同日、居間にて、姉妹は母と茶を飲みながらゆったりとした午後を過ごしていた。伯爵は近隣の領主との会合で出かけている。
「母さま、お聞きしていいかしら?」
「なあに、マウラ?」
ミリアムは焼き立てのスコーンにバターと木苺のジャムを付けながら、母に話しかけたマウラを一瞥した。
「父さまに、強い恋情を持っていらっしゃる?」
「え?」
ミリアムは突然の妹の質問に小さく笑う。
(マノン・レスコーの影響がもうここに!)
「どうしたの、藪から棒に?もちろん、貴女方のお父さまですもの。お慕い申し上げておりますよ」
夫人は飲んでいた紅茶のカップを受け皿に置いて、そう答えた。
「ううん、そういうのではなくって、もっと、こう、衝撃的な強い感じの恋情・・・、と言えば解って頂けるかしら・・・」
何にでも感化されやすい下の娘の性格をよく知り得てか、夫人はこう聞いた。
「オブライエン先生の講義で何を習ったの?」
「『マノン・レスコー』よ。母さま、お読みになった?」
「まあ、それは物議を醸すには十分な教材ね」
夫人はそう言って、くすくすっと笑った。笑い声に艶があり、三十代後半ながらも時折少女のような表情となる。見目も十分若いのだが。
「そうねぇ、強いと表現できるかは解らないけれど、深い愛情、敬愛は持っているわね」
「お祖父さまが父さまとの縁談をお決めになられたのでしょう?それまで、母さまは父さまのこと、ご存じなかったの?」
「いえいえ、社交界の場ではご挨拶をしたことがあったわ」
「初めてお会いした時、どう思った?父さまのこと」
「お噂通りの凛々しい、素敵な方だと思ったわよ。一目惚れとかそういう感じではありませんでしたけれど」
「そうでしたの。それでは、デ・グリューとマノンとは違うわね」
マウラは眉間に皺を寄せて、紅茶を一口飲んだ。そんなマウラにミリアムは、
「あれは物語じゃないの。現実、それもわたしたちの周囲にはそうそういるはずがないわ」
そもそも伯爵夫人と娼婦を比較する方がおかしい、と、ミリアムは思うが、言わずにいた。
「でも先生はおっしゃったじゃない。現実にも起こりうることだって。母さまは聞いたことない?『ファム・ファタル』に出会って、没落の道を辿った殿方のお話を」
「ないわね。そんなことがあれば、社交界では噂好きの方たちが格好の餌だとお喜びになるわね」
「母さま、わたしからもお聞きしていい?」
今度はミリアムだ。
「なあに?」
「母さま方は仲睦まじい夫婦で、わたしたちもそんな家に生まれて幸運とは思うのだけれど、どの夫婦も母さま方みたいとは限らないでしょう?」
「それはそうね」
「仲が悪い夫婦なのに、離縁する方としない方の違いは何?」
「そうねぇ、それは千差万別じゃないかしら。夫婦の数だけいろんな理由があって、一概には此れ、という答えがないとわたくしは思うわ。家名のためだったり、経済的な理由だったり、一番ややこしいのは、愛情があるのに喧嘩ばかりしてしまう夫婦とかね」
姉妹は目を丸くして、
「そんな方たちがいらっしゃるの?」
「わたくしの母方の伯母夫婦がそれですわね。お互い本当は想い合っているのに、夫婦仲が良くなくて、関係は冷めているのよ」
「どうして?」
「伯父も伯母も不器用な方たちなの。素直に愛情を表現できないのね」
「それはお可哀想」
「そうね。まあ、縁は異なものといいますから、ああした夫婦の形もあるということではないかしら」
「わたしは母さまたちのように仲の良い夫婦になりたいですわ」
マウラが言った。すぐにミリアムも同調する。
「わたしも」
扉を叩く音がして、この城内の全ての執務を担うパトリックが、夫人の声掛け後に入って来た。
「お嬢様方にクリストル様から書状が届いております」
いち早く反応したマウラが長椅子から飛ぶようにしてパトリックの元へと走った。
「ご苦労様、パトリック」
書状が載せられた盆の上に小刀も用意されており、クリストルの家紋入りの印璽で封蝋されているが、急かされるように封を切ったマウラはさっと書状に目を通した。
「旦那様のお帰りはまだのようね?」
夫人がパトリックに聞く。
「はい。お戻りは晩餐前になるやも、と、伺っております」
パトリックは曾祖父の代から伯爵家に仕えており、既に彼の息子も執務補佐役として仕えている。伯爵が生まれた時から、もちろん、娘たちもだが、彼に任せていればすべてが滞りなく統轄されるので、とても頼りにしている執事なのだ。
「クリストルはなんて?」
夫人が聞いた。
「ご実家での様子と、早く私たちに会いたい、と仰せだわ」
マウラが蕩けるような顔をして、書状をミリアムに渡した。ミリアムは目を通しながら、
「このマウラのクリストルに対する感情というのはなに?『憧憬』もしくは『恋慕』とでもいうのかしらね?」
一気に顔を赤くしたマウラの様子を見て、夫人が声を立てて笑った。パトリックも後ろで微笑んでいる。この家では、マウラの従兄好きは誰でも知るところなのだ。
「もう、姉さまの意地悪!」
皆が一斉に笑った。
出典 『マノン・レスコー』光文社古典新訳文庫 野崎歓訳




