51.私たちの愛は
私はしばらく『ラピスラズリの杯』のかけらを握り締めたまま、祈り続けた。
「ユージェニー……もう……血がこんなに……」
見かねたマリーズが、今にも泣き出しそうな顔でハンカチを差し出している。
「だって……マリーズ……このままでは、アベル様が……」
喉の奥が締め付けられ、言葉が上手く出てこない。
『ラピスラズリの杯』のかけらは、鋭い痛みで私の手のひらを苛み続けたが、やめるつもりはなかった。
諦められるはずがない。
(どうして神は応えてくださらないの? 私が『ラピスラズリの杯』を叩き割ってしまったから? ああ……アベル様の息遣いが速くなってきたわ!)
堪らず、私は天を仰いで叫んだ。
「神よ……なぜ沈黙なさるのですか! アベル様は、私たちの因果とは関係ありません。命なら差し出します。対価も私が払います。だから――お願い……応えて……ください……」
その時だった――。
突然、私の手の中から凄まじい光が溢れ出した。
(ま、眩しい……『ラピスラズリの杯』のかけらが応えているの?)
耐えられず瞼を閉じてしまった。
光が和らいだ気配を感じ、ゆっくりと瞼を開けると――深いブルーの星空が、澄んだ水辺に映り込んでいる。
静謐で音のない世界。
先ほどまでいた大広間も、大勢の貴族の姿も消えていた。
「なんて美しいの……」
一瞬、その光景に心を奪われていたが、はっと気づいて辺りを見回した。
「アベル様はどこなの?」
遠くに、水辺に横たわっているアベル様の姿を見つけた。
急いで駆け寄り、アベル様の口元に耳を近づける。
「アベル様……」
私はアベル様の頭を膝の上に移すと、不安と愛おしさが入り混じった手つきで、アベル様の頬にそっと触れた。
頬は冷たく、呼吸も弱々しい。
ポチャッ、ポチャッ――。
水を踏む音が近づいてくる。
「そなたか……。そのちっぽけな杯のかけらで我を呼んだのは――」
「あなたは……?」
私はゆっくりと声がする方に顔を向けた。
目の前には、長い銀髪をなびかせた男性とも女性ともつかない、息をのむほど美しい人が立っていた。
星空と同じ深いブルーの瞳が、まっすぐに私を見つめている。
「そなたが呼んだのだぞ。我は『ラピスラズリの杯』に宿る守護神ルーハだ。まぁ……私が宿っていた杯は、そなたのせいで、ちっぽけなかけらになってしまったがな」
ルーハ様の言葉に反応するように、私の手の中のかけらが再び光りだし、温もりを感じて自然と手のひらを広げた。
すると、『ラピスラズリの杯』のかけらが静かに浮かび上り、ルーハ様のもとへ吸い寄せられると、そのまま消え去ってしまった。
「ふむ。このちっぽけなかけらを満たすだけの血は流したようだが……。考えたものだな。杯を満たすほど血であれば、そなたの命はすでに尽きていたであろう。なかなか、狡賢いではないか」
「まさか! 誤解ですわ。ルーハ様を欺こうなどという気持ちは、少しもございません。ただ私は……すがる思いで祈っただけです」
「……その男のためにか?」
「はい。ですから……どうか……」
「女神の血を引く者よ、いつの世も愛する者のために、命を賭して願いを叶えようとするのだな。なんと、愚かな……」
私は手をぐっと握り締め、唇を噛んだ。
「ルーハ様、それの……どこが愚かなのでしょうか?」
「それで幸せになれたのか? 愛によって力を与えられた者はどうなった? ある者は傲慢になり、ある者は孤独に苛まれ……破滅させた。それのどこが愛なのだ?」
「ルーハ様、あなた様が望むような『完全な愛』は存在しませんわ」
「それならば、なぜ……」
「ですが、どうして愛することを止めることができましょう?」
「……。ユージェニーよ、そなたは我の力を借りたいようだが、その男はそれを望んではおらぬようだぞ」
握っていたアベル様の手が微かに動いた。
「アベル様!」
アベル様は薄っすらと瞼を開けると、私の方へ顔を向け、ゆっくりと首を振った。
まるで、私の助けを拒んでいるかのように――。
「どうして……。私はアベル様を失いたくないの。だから……」
「その男からは、我の力を受け入れないという強い意志を感じるぞ。それでは、我の力は何の効果も持たない」
「そんな……」
もうあまりアベル様に時間が残されていないことを、私は感じていた。
普通の令嬢であれば、この状況を嘆き途方に暮れたかもしれない。
でも、私はふつふつと底知れぬ怒りが湧いてきた。
「……もうっ、この頑固者! 私のため? 笑わせないで! 結婚式で誓ったじゃない……一年も経たないというのに、もう寡婦にするつもりなの? 私を愛しているなら……一人にしないで!」
ぼろぼろと溢れる涙を拭いもせず、アベル様の胸やら顔やらをぺちぺちと叩いた。
「ユ……ユージェニー、そ、そんなに叩いたら、もっと早く逝ってしまいそうだよ……」
アベル様は私の手首を掴んで、痛みを堪えながらにへらと笑った。
「アベル様! あなたって人は――」
「アハハハハッ! ハァーッ、なんと愉快な……ハハハハハッ」
私たちのやり取りを見ていたルーハ様が、突然豪快に笑い出した。
「ルーハ様! ちっとも面白くなんてありませんわ!」
「ハハハッ、ユージェニーよ、そう怒るな。なんとも、お前たちに興味が湧いてきた。対価は、お前たち夫婦の愛を我に見せ続けるのだ……生ある限りな。これは、我からの結婚祝いだと思って受け取るがよい。ただし、このちっぽけな『ラピスラズリの杯』のかけらに見合った――小さな願いになるがな」
いたずらっぽく片目をつむったルーハ様が、手を高く掲げ何かを唱えると、胸の辺りから眩いほどの光が放たれた。
「あ、ありがとうございます……ルーハ様」
「さぁ、受け取るがよい。時を――そなたが望む1分前に戻してやろう」
周囲の景色を飲み込むほどの光の中から、楽しげなルーハ様の声だけが聞こえる。
「1分ですって!? ルーハ様のいじわるーっ!」
「いや……ユージェニー、そこは感謝しないと……んっ」
急いで私は――たしなめようとするアベル様の口を唇で塞いだ。
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