sideフレデリック
卒業式から三日。
その静寂は、あまりに重かった。
王宮、謁見の間。
背後で巨大な扉が閉ざされる音が、高い天井に反響してやけに大きく響く。
足元に広がる深紅の絨毯、見上げるほどの高さにある王家の紋章。
幼い頃から、文字通り“自分の家”として見慣れてきた景色だ。
王太子として育てられた自分にとって、ここはこの世で最も馴染み深く、そして将来座るべき場所のはずだった。
けれど今は、どうだろう。
まるで他人の家に迷い込んだかのように、すべてが遠く感じられた。
私は玉座の前へと進み、静かに跪いた。
ふと視線を上げれば、歴代国王たちの肖像画が整然と並びこちらを見下ろしている。
彼らは皆、王として“正解”を選び続けてきた男たちだ。
愛ではなく、情ではなく。
常に国家という巨大な天秤の皿を優先してきた。
その峻厳な眼差しが、無言で私を糾弾しているような気がしてならない。
───お前は、間違っている、と。
その幻聴に、私は心の中で静かに答えた。
それでも構わない、と。
脳裏に焼き付いて離れないのは、三日前のあの光景だ。
壇上を歩くレティシア。
白銀の髪をなびかせ紅い瞳に絶望を秘め、漆黒のドレスを纏った彼女。
その一歩ごとに、足元には薄く霜が降りていた。
誰も彼女に近づこうとはしなかった。
誰も彼女を一人の“令嬢”としては見ていなかった。
皆腫れ物に触れるような、あるいは怪物を視界に入れてしまったような、そんな怯えの混じった視線を向けていたのだ。
だというのに。
彼女は最後まで、指先ひとつ乱さぬ完璧な淑女として振る舞い続けた。
その凛とした強さが、たまらなく痛かった。
そして、あの日下された無慈悲な宣告。
『王家管理下への移送』
『西方離宮における無期限静養』
静養。
そんな言葉、誰が信じるというのか。
あれは隔離だ。
封印だ。
一生光の差さない場所への、永久監禁に他ならない。
王家はすでに、レティシアを人間ではなく“制御すべき危険物”として処理し始めていた。
あの時。
講堂の中心で、彼女は静かに微笑んでいた。
すべてを諦めきった顔で。
何も望んでいない、助けを求めることすら忘れてしまったかのような、
空っぽの微笑み。
その瞬間、私の中で何かが決定的に壊れた。
王太子として積み上げてきた矜持。
王になるために学んできた帝王学のすべて。
そんなものの全部を合わせても、彼女を失う恐怖には遠く及ばないと理解してしまった。
「……本当に、継承権を手放すつもりか」
父上の声が降ってくる。
低く、地を這うような重い声だ。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「はい」
迷いは、塵ほどもなかった。
随分前から決めていたことだ。
「レティシアを王都に置いたまま……彼女を犠牲にしたまま、私は王にはなれません」
左右に控える重臣たちが、さざ波のようにざわめく。
だが、声を大にして反論する者はいない。
できないのだ。
皆、見てしまったからだ。
レティシアという一人の少女が壊れていく様を。
そして王宮という機構が、彼女を“災厄”として切り捨てようとしている現実を。
「王家管理下に置けば、彼女は一生管理対象となります」
自分でも驚くほど声は冷徹なまでに落ち着いていた。
「監視。制御。封印。……その未来は、容易に想像がつきます」
魔力研究の検体。
強力な拘束術式。
何重もの隔離結界。
いずれ彼女は名前を奪われ、危険等級で呼ばれるようになるだろう。
そんな未来に、俺の魂が耐えられなかった。
「いずれ国家は、彼女を“人”ではなく“災厄”として処理し始めます」
沈黙が広がる。
否定の言葉は返ってこない。
つまり、ここにいる全員がそれを理解しているということだ。
すでに裏で議論され、最悪の場合は“処分”まで視野に入っていることを。
「西方離宮への移送命令は、正式決定済みである」
重臣の一人が、苦々しく口を開いた。
「卒業式で公示も済んでいる。今さら撤回すれば、王家の権威は地に落ちるぞ」
分かっている。
そんなことは、耳にタコができるほど叩き込まれてきた。
国家は感情では動かない。
一人を救うために秩序を曲げることは許されない。
───だから。
「承知しています」
私は静かに、けれど断固として告げた。
「だからこそ、私が王位を降ります」
空気が凍りついた。
重臣たちが息を呑む音が聞こえる。
中には、露骨に不快感を露わにし顔を顰める者もいた。
愚かな王子だと、蔑んでいるのだろう。
王位も権力も輝かしい未来も。
すべてを投げ打って、たった一人の女を選ぶ狂気。
だが、それでいい。
「王太子フレデリックとして命令を撤回すれば、王家の面目は潰れるでしょう。ですが」
私は視線を逸らさず、玉座を見据えた。
「『継承権を放棄した愚かな男が、災厄の令嬢に執着し、北方へ消えた』……そういう筋書きであれば、責任は私個人に帰属します」
そうだ。
その形なら、王家の権威は守られる。
危険因子であるレティシアも中央から消える。
次代には、弟のアレンが立てばいい。
国は回り、すべては丸く収まる。
───レティシア以外は。
だから、せめて。
彼女だけは、私が守りたかった。
「レティシアだけが、処分されずに済む道です」
言葉を落とした瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
不思議な感覚だった。
王位を失う恐怖や、未知の未来への不安が渦巻いてもいいはずなのに。
そこにあるのは、ようやくあるべき場所に辿り着いたという安堵に似た感情だった。
私はずっと、王太子である前に、ただ一人の男でありたかったのかもしれない。
「……お前は昔から、極端な男だったな」
父上が静かに目を閉じた。
それはひどく、疲れ切った声だった。
「だがフレデリック。王とは、個人ではないのだぞ」
分かっています。
嫌というほど。
泣くな。
迷うな。
情を捨てろ。
国を優先しろ。
王とは、孤独という名の冠を戴く存在なのだと。
だから私は、もう王にはなれない。
「ええ。ですから、私は向いていなかったのです」
私は自嘲気味に、わずかに口角を上げた。
「私は、一人の女を優先してしまった」
玉座よりも。
国家の安寧よりも。
約束された未来よりも。
私はレティシアを選んだ。
それが、私という男が出した答えだ。
長い、長い沈黙。
やがて父上は、肺にある空気をすべて吐き出すように深い息をついた。
「……アレンには、伝えてある」
兄である私よりも、王に相応しい弟。
誠実で、穏やかで、この国を心から愛している彼なら、きっと名君になるだろう。
それだけは、確信があった。
「北方辺境領への移住を許可する」
その言葉を聞いた瞬間、ようやく肩の力が抜けた。
これは許しではない。
追放だ。
王家という盾を失い、歴史から消されるということだ。
それでもいい。
彼女をその腕に抱き留められるなら。
「二度と王位へ関わるな、フレデリック」
「御意」
深く頭を垂れる。
俺はもう、振り返らない。
立ち上がり、踵を返す。
背後には、かつて焦がれた玉座がある。
本来なら、いつか俺が座るはずだった椅子。
けれど、未練は一欠片もなかった。
脳裏に浮かぶのは、雪のように白い彼女の髪だけだ。
王になれなくてもいい。
歴史に名を残せなくてもいい。
ただ、あの孤独な少女が最期まで“人”として笑える世界を、俺が作りたかった。
そのためならば。
後の歴史家からどれほど愚か者と呼ばれようと、一向に構わなかった。




